波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

白百合を愛した男    第33回

2010-10-11 09:11:08 | Weblog
どんな会社でも三代続かずという事が昔から言われているが、子供の出来ない山内氏の会社も三代目(美継が名目上2代目となる)となると、養子と言うこともあり、なかなか、
簡単には落ち着かなかった。会社という組織は郵便局と比べ一事が万事、仕事の内容が
違い、戸惑いがある。美継はその一つ、一つを丁寧に説明を加えながら、伝えていった。社内のことだけではなく、対外的な町内の公的な人間関係から、銀行を中心にした範囲までその範囲を広げていったのである。「私は人付き合いが嫌いで、得意ではないからよろしくお願いします。」と自分でも言うように、内向的なその性格はそのまま行動に出ていた。山内氏と同じように子供がいなくて、養女を迎えていたがすべてにおとなしめであった。実務は財務を中心にすることになり、美継はその分、外交面(主に営業面)へと
その時間が向けられたが、元来東京で営業を中心に仕事をしていたので、違和感は無かった。大阪の営業所には若い者が派遣されてユーザー管理をしながら市場の拡販に勤めていたが、東京は戦災で美継が引き上げた後、取引先の商社に看板を預けて代理店としていた。月に一回平均の東京、大阪の出張をかねて営業強化に務めながら、社長を補佐して社内の管理をすることは、決して楽ではなかったが、信条としての真面目さがその負担を消していた。与えられた務めをベストをつくして果たす、それは誰に言われたことでもなく、利害得出に影響されるものではなかった。
月日が過ぎていく中で、会社も落ち着きを取りもつつあるように見えていた。その頃、
日本は戦災の痛手からようやく立ち直り、経済復興と環境を整備しながら、新しい日本作りが始まっていた。その一つに今まですべての廃棄物が垂れ流し状態であったものの見直しがあった。その指摘は当然先進国からのものもあっただろうが、国民の目で、要望として湧き上がってきたものでもある。その一つが美継の会社で排出されていた、煙と川への水洗汚染の問題であった。元来原料の加工過程で最初に培焼がある。石炭を燃料に大きな窯で焼くときに強烈な亜硫酸ガスが発生していた。長い歴史の流れでそれは当たり前であり、自然であった。しかし、それは厳密には鼻とのどに強い刺激を与え、健康上決して
良い影響は無かった。(しかし有毒性のものではなかった。)従業員の中には咳き込みながら作業をしていたものもいたが、それが問題になることはなかったのである。