思うことを。
練習をする。それには「明確な狙い」がある。このことを理解できるかどうかは大きな「差」になっていく。目に見える「形」ではなく「なぜやっているか」が重要になる。前任校で一緒に働いていたバスケットボールの指導者、「練習を見せてくれ」と言われたら「いつでもどうぞ」と答えると話をされていた。強い学校になればその練習内容が知りたくなる。同じような練習をすれば「強くなる可能性がある」と思うから。ある意味大切なことだと思う。
が、その時話をされていたのは「どうせ見せてもポイントは分からないだろうから」とのことだった。まさにその部分が「核」なのだと思う。何を目指してその練習をしているのかが分からないのであれば「見ているだけ」で終わってしまう。「形」をマネしても結局は「核」となる部分が分かっていないのだから「狙い」は明確にならない。
毎回同じ練習をするとしても基本的にしつこくポイントを口にするようにしている。意識を明確化するため。どうしても慣れてくると「やるだけ」になってしまう。これがトップ選手になると「この1本は○○を意識して走ろう」という感じになるのだと思う。しかし、高校生レベルでは簡単にはいかない。ある程度の本数を消化する中で自分で「感覚」を作っていくしかないと思っている。
例えばうちは「並走」をする。2人1組で行う。バトン流しはしない。もっというと練習中に「ウインドスプリント」さえ実施しない。「少しずつスピードを上げていかなければ怪我をする」と言われるかもしれないが、実際に大きな肉離れをした選手はいない。最大スピードを出すまでにある程度の準備をしておけば大丈夫だと思っている。バトン流しをする。これは一見いい感じの練習に見える。走っている中で手の出す位置を確認して4人で流れを作る。が、実際はどうだろうか。そんなにゆっくりのスピードで手を上げることはない。ゆっくりのスピードで手の位置が安定したとしても全力走っているときに同じように手の位置が安定するとは限らない。
バトン流しをするとゆっくりした動きに全員が合せなければいけない。そうなると動きのリズムも変わってくる。私的には2人で全力で「並走」をするほうが実戦に近いバトン練習になるのではないかと思っている。だから距離も50m程度しか走らない。バトンを2本持ってゆっくり走るという練習はしていない。もちろん、これは「私が意図している練習」というだけであって「バトン流し」にはその意味があるのかもしれない。これは「指導者のこだわり」でいいと思う。
先日、120mを使っての「並走」をやった。60m地点でバトンを渡してそこからは競争。約束事としては「60m地点で最大スピードでバトンを渡すこと」と「渡ったら前を抜く」「渡ったら後ろを引き離す」ということだけ。ゆっくり走って60m地点でバトンを渡してそこから全力という練習ではない。前走者が速ければスタート地点でやりくりをしていかなければいけない。離されないように前について走る必要もある。それだけで「質」は上がる。基本的に「絶対にスピードが緩められない状況」を作ることにしている。
ここの「意図」が分かる人が見ればこの練習のきつさはわかると思う。逆に分からない人が見れば「バトン走を何本もして質が低いな」と思うかもしれない。それは「見る目」と言い換えることもできる。スピードレベルが高い練習を1本できたら強くなる。理想的な話。が、高校生レベルではそうはいかない。だから「質」を高くして「量」を消化する。そのために何をするかだと思っている。ここは「考え方」だからなかなか理解してもらえないかもしれない。
更にこの日、250m+60mも実施した。「量」としては多いかもしれない。今の私のスタイルでは「250m」にこだわりはない。だからショートスプリントの選手に走らせたときにはタイムは計らない。これも「意図」がある。かなり疲労している状況での「250m」。指示は「最初から行く」ことだけ。後半失速しても全く関係ない。これも「理解しにくい練習」かもしれません。
ある程度走っているので疲労感はあります。その中で「最初から行けるところまで」というのは簡単にはできません。だからこそやる。スピード持続という部分もありますし「何が何でも動く」という感覚づくりにもなります。「根性練習」とは違います。無難に「走りきる」練習をするというのも一つの手段だと思っています。が、この練習の流れの中で「記録」を狙うことに意味はない。特に女子は「保守的」な部分がありますから「疲れてしまうのが怖い」という気持ちが先に出てきます。それを克服するほどの「強い想い」を持てるかどうか。
ここ数年、「長い距離は走らない」と決めていました。100mで勝負することにこだわっていた部分もあります。ショートスプリントであれば150mが走りきれれば十分対応できますから。しかし、これも私自身の「思い込み」かもしれない。だからこそ「殻を破る」ために250mを取り入れています。1回目は150mしか持たなかったかもしれない。それが2回目は152mスピードが維持できた。そういう練習を繰り返していく中で「効率のいい力の使い方」を覚えていくのではないかという気もしています。今は「100m」だけではなく「200m」も勝負する気でいます。「400m」もです。そうなるとそのための準備をしていく必要がある。その意味での「250m」という部分でしょうか。
200mを走るために長い距離を走る方が良いので250mを走る。根拠は「主観」です。そのほうがいいだろうというだけで「本当に200mにつながるか」というのは分かりません。今私はそういう「視点」では考えていません。距離を踏むような練習は必要ないという気持ちは変わりません。
普段はここまで書きません。が、思うことがあり書きました。私自身の「心の整理」という意味も含めて・・・。
練習をする。それには「明確な狙い」がある。このことを理解できるかどうかは大きな「差」になっていく。目に見える「形」ではなく「なぜやっているか」が重要になる。前任校で一緒に働いていたバスケットボールの指導者、「練習を見せてくれ」と言われたら「いつでもどうぞ」と答えると話をされていた。強い学校になればその練習内容が知りたくなる。同じような練習をすれば「強くなる可能性がある」と思うから。ある意味大切なことだと思う。
が、その時話をされていたのは「どうせ見せてもポイントは分からないだろうから」とのことだった。まさにその部分が「核」なのだと思う。何を目指してその練習をしているのかが分からないのであれば「見ているだけ」で終わってしまう。「形」をマネしても結局は「核」となる部分が分かっていないのだから「狙い」は明確にならない。
毎回同じ練習をするとしても基本的にしつこくポイントを口にするようにしている。意識を明確化するため。どうしても慣れてくると「やるだけ」になってしまう。これがトップ選手になると「この1本は○○を意識して走ろう」という感じになるのだと思う。しかし、高校生レベルでは簡単にはいかない。ある程度の本数を消化する中で自分で「感覚」を作っていくしかないと思っている。
例えばうちは「並走」をする。2人1組で行う。バトン流しはしない。もっというと練習中に「ウインドスプリント」さえ実施しない。「少しずつスピードを上げていかなければ怪我をする」と言われるかもしれないが、実際に大きな肉離れをした選手はいない。最大スピードを出すまでにある程度の準備をしておけば大丈夫だと思っている。バトン流しをする。これは一見いい感じの練習に見える。走っている中で手の出す位置を確認して4人で流れを作る。が、実際はどうだろうか。そんなにゆっくりのスピードで手を上げることはない。ゆっくりのスピードで手の位置が安定したとしても全力走っているときに同じように手の位置が安定するとは限らない。
バトン流しをするとゆっくりした動きに全員が合せなければいけない。そうなると動きのリズムも変わってくる。私的には2人で全力で「並走」をするほうが実戦に近いバトン練習になるのではないかと思っている。だから距離も50m程度しか走らない。バトンを2本持ってゆっくり走るという練習はしていない。もちろん、これは「私が意図している練習」というだけであって「バトン流し」にはその意味があるのかもしれない。これは「指導者のこだわり」でいいと思う。
先日、120mを使っての「並走」をやった。60m地点でバトンを渡してそこからは競争。約束事としては「60m地点で最大スピードでバトンを渡すこと」と「渡ったら前を抜く」「渡ったら後ろを引き離す」ということだけ。ゆっくり走って60m地点でバトンを渡してそこから全力という練習ではない。前走者が速ければスタート地点でやりくりをしていかなければいけない。離されないように前について走る必要もある。それだけで「質」は上がる。基本的に「絶対にスピードが緩められない状況」を作ることにしている。
ここの「意図」が分かる人が見ればこの練習のきつさはわかると思う。逆に分からない人が見れば「バトン走を何本もして質が低いな」と思うかもしれない。それは「見る目」と言い換えることもできる。スピードレベルが高い練習を1本できたら強くなる。理想的な話。が、高校生レベルではそうはいかない。だから「質」を高くして「量」を消化する。そのために何をするかだと思っている。ここは「考え方」だからなかなか理解してもらえないかもしれない。
更にこの日、250m+60mも実施した。「量」としては多いかもしれない。今の私のスタイルでは「250m」にこだわりはない。だからショートスプリントの選手に走らせたときにはタイムは計らない。これも「意図」がある。かなり疲労している状況での「250m」。指示は「最初から行く」ことだけ。後半失速しても全く関係ない。これも「理解しにくい練習」かもしれません。
ある程度走っているので疲労感はあります。その中で「最初から行けるところまで」というのは簡単にはできません。だからこそやる。スピード持続という部分もありますし「何が何でも動く」という感覚づくりにもなります。「根性練習」とは違います。無難に「走りきる」練習をするというのも一つの手段だと思っています。が、この練習の流れの中で「記録」を狙うことに意味はない。特に女子は「保守的」な部分がありますから「疲れてしまうのが怖い」という気持ちが先に出てきます。それを克服するほどの「強い想い」を持てるかどうか。
ここ数年、「長い距離は走らない」と決めていました。100mで勝負することにこだわっていた部分もあります。ショートスプリントであれば150mが走りきれれば十分対応できますから。しかし、これも私自身の「思い込み」かもしれない。だからこそ「殻を破る」ために250mを取り入れています。1回目は150mしか持たなかったかもしれない。それが2回目は152mスピードが維持できた。そういう練習を繰り返していく中で「効率のいい力の使い方」を覚えていくのではないかという気もしています。今は「100m」だけではなく「200m」も勝負する気でいます。「400m」もです。そうなるとそのための準備をしていく必要がある。その意味での「250m」という部分でしょうか。
200mを走るために長い距離を走る方が良いので250mを走る。根拠は「主観」です。そのほうがいいだろうというだけで「本当に200mにつながるか」というのは分かりません。今私はそういう「視点」では考えていません。距離を踏むような練習は必要ないという気持ちは変わりません。
普段はここまで書きません。が、思うことがあり書きました。私自身の「心の整理」という意味も含めて・・・。