那須高原の北の端にある千振地域から見た那須連山(左から茶臼岳、朝日岳、三本槍岳)
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道路には、「千振開拓村」と標識が掲げられていた。
終戦直前にソ連に攻め込まれた満州の千振開拓村から、かろうじて生き伸びて帰国した人たちが、那須の外れに集まり、あらためて劣悪な土地を開墾して築き上げた村だ。
遅い桜が満開だった。
那須エリアの東の外れ近く、旧東山道、旧奥州街道の宿駅芦野の城址の桜。
白河で奥州に入る一つ手前の宿駅。
雨なんで、城址までは登らずに失礼した。
西行や芭蕉が立ち寄ったと言われる芦野の「遊行柳」 。
田植え前だけど、雨の中で、桜とのコントラストが美しかった。
「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」(西行)
「田一枚植えて立ち去る柳かな」(芭蕉)
さらっと詠んだ西行の歌に対して、芭蕉の俳句は、柳の下で、しばし西行に思いを馳せたってことなんだろうけど、どこがいいのか、植えたり、立ち去ったりした人はいったい誰なのか、意味もよく分からない。
義経も、奥州から鎌倉へこの道を馳せ下った(上った?)らしい。旧東山道沿い伊王野の道の駅。
花・植木、野菜、地元食品が豊富で安い。
地元の人とお喋りしながら、つい買い込んでしまう。
芦野の湯治場の宿で出てきたウドとネギ。
旧甲州街道の小仏の関所跡。
ここから、裏高尾と呼ばれる山並に入り込んで八王子城跡まで登ったり下りたりの山歩きをした。桜は遅めだけれど、山椿、つつじが大きな山の木々の間で、頑張って咲いていた。
八王子城は戦国時代の北条氏の城。
小田原の北条本拠を目指す甲斐の武田、越後の上杉などにたびたび攻め込まれた。
最後は秀吉の小田原攻めの時に落城。城主北条氏照らが不在のときに前田利家、上杉景勝らの軍に攻め込まれ、城内に籠っていた婦女子も含めて殲滅された。
山の中腹の森のあちこちに城の遺構が残っている。 城と言っても平屋の大きな館みたいなものだったらしい。
北条氏が滅亡して後、八王子は徳川の直轄領になってしまったため城は置かれず、町の中心も川下の平地に移ってしまったから、数百年間、この城跡は忘れ去られたように山の中に放置された。
そんなわけで、発掘調査や復元作業は割合最近だし、まだまだ全容がつかめず、思わぬ物が掘り出されたりするらしい。
そんなことを、ボランティアの方から熱のこもった説明で知った。
落城の際、婦女子が身を投げた滝つぼもあった。
城山川が下流まで血に染まったほどの悲惨さで、 以後、上杉(越後)、前田(加賀)、真田(信濃)にゆかりがある者が近づくと、川中のヒルが食らいつくらしい。
上杉には、そんな怨念ある関係なのに、八王子の道の駅で地酒として売っている「氏照」が、上杉の城下町山形県米沢の酒蔵で造られているのが不思議。
仲直りしたのかと、ボランティアの方に質問してみたけど分からなかった。
八王子の「北条氏照まつり」では、大掛かりな武者行列もあるらしいけど、この「氏照」が振る舞われたりしているのかな。
茨城の牛久に住んでいるH-kunの計画に乗っかって牛久沼周辺ウォーキングに行ってきた。
昔、国道6号・水戸街道で東京と日立を往復するときに東京から牛久沼まで来ると、茨城に入ったなとフーと息が抜けるような気持になった。
車に乗ったら突っ走るばかりで景色を楽しむ気なんてない年頃だったから、じっくりと眺めてみたことはないけど、街道沿いに名物らしい鰻屋がならんでいたので入ってみたことがある。雨模様の中を歩いた。
沼も周りの景色、風情も、いたってゆったりしたもの。
葦原
何もない牛久城跡
河童の碑河童が住んでいたという昔話がたくさんある。
沼の周りは、河童を見かけてもおかしくないような風情。
河童の絵を描きまくったことで有名な画家の家。勝手に上がって住まいの様子や画集を拝観できる。
牛久に住んで、農作自給しながら文筆活動を続けた作家も。
ファンがいて、そのまんまの題名の本を持ってきた。
最後は、牛久のシャトー神谷へ。
仕事で(?)石垣島に行ってきたAkikunのお土産。
しっかりと海藻っぽさがある。
ふるさと納税でゲットしたというカツオのたたきも貰った。
土佐料理の名店のものだけあって旨かった。
そこそこの寄付で結構なものが貰えちゃうのは本当にお得。 ふるさと納税が人気なのが分かる。
海の物つながりで、まず塩昆布。
昔、新聞紙にくるんだ干し昆布がアメリカの通関で引っかかった。一体これはなんだってんで、「海草」と言ったら怪訝な顔をされたが、だんだん匂いもしてきたからか、早くしまって行ってしまえとパス。
そんな昆布を炊き込んだものの旨さなんて外国人には到底理解できないだろうな。
これも炊き込み系。
イカナゴ(玉筋魚)の釘煮。
神戸のSsanが毎年作って送ってくださる。
今年の味見をして冷凍。大事に頂戴する。