ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

M君逝く

2016年05月18日 | その他
             
福島で定年退職した同年代8人でスタートした飲み会仲間のM君が13日に亡くなり今日葬儀が行われた。
3年前の昼食会に「最近身体の調子が良くなくて」と奥様運転の車で送迎されて参加したのが最後だった。
その後電話をしても本人が出る事はなく、奥様も口止されていたのか容態は不明で1年程前からか入院しているらしいと分ったが、誰も逢う事は叶わずこれで仲間も5人になってしまった。
我々は大都市だけだったTV放送が各県に送信所が建設されローカル放送もラジオ並に始まり、教育TV本放送開始直前の昭和34~36年の大量採用組で、ほぼ全員がTV番組制作要員として仙台と東京からスタートした同じ釜の飯を食ったTV草創期の仲間。職場には映画や舞台からヘットハンターされて来た人達が大勢いる中で徒弟制度の下で修行した事から結束も硬いのかなと思う。
K君が一番先に退職する確か一年前「みんなフグなんてクッタゴドネベ、エッテミッペ」とM君の提案で職場近くの割烹旅館でフグを食べ、この時「退職後も春と秋に気軽に集まり昼食会をやろう」とM君が再提案、全員が賛成してこの会はスタートした。
会則など硬苦しいものは一切設けず、ただSH君の提案で会の名前はリーダーシッペのM君一任で付ける事になり、後日知らされた「**の会」の二文字は書く事も東洋漢字で見つける事も困難な“ふくふく”或いは“フグ”とも読む我々凡人には読めない格言とかで、さすが趣味の古文書研究家ならではの技だった。
そして、私費で古文書収集もしている間に歴史上重要な書類も発見して個人で保管するよりは博物館でと、県立博物館へ数点寄贈していた様だ。
また現役時代には誰よりもローカル局発ドキュメンタリー番組制作に関り、福島初の技術選奨を受賞するなど多くの名作を残し、それらの作品は福島局のアーカイブスコーナーで多分今も視聴出来るのではないだろうか。こんな事からもM君は常に我々の模範でもあった。合掌!