ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

仲間の本

2015年12月28日 | その他
             
退職後、現役時代職場で縁のあった仲間が執筆した専門書を除き、気軽に読める本が見つかった時には買い求めて、読んだ後は本棚の占有面積が増えて行くのも楽しみの一つになっている。
最近「スポーツアナウンサー実況の真髄(山本浩著)」が岩波新書から発行されたと知り、早速本屋へ駆込んだが見つからず、三軒目で聞くと一週間程かかると云うので断り、翌日配達のネット通販Amazonで購入した。
検索中に何気なくアナウンサーの本と入力したら、たった4日間の付き合いだったが強烈な印象が残って忘れもしなかった「僕がナニワのアナウンサー(寺谷一紀著)」が出てきたので同時に注文した。
山本氏は初任地が福島で、特に局外の仕事(ラジオやTV中継)の時には技術屋の方が圧倒的に多くしかも年配者の我々は彼に限らず暗黙の了解の下で社会人としての教育係りも勤めたが、新人の中でも彼は既にその必要も無く、何故か名前ではなく“トラさん”と愛されて、先は大物?と誰もが予測していた。
寺谷氏とは平成天皇即位の礼パレードTV中継の時、全コース中継に23台の中継車と要員も全国から集められて実施したが、福島からは中継車と共に参加して東宮御所青山通りの前後150m程の区間を東北技術混成チームのTD(技術現場のチーフ)として関り、彼はPD(放送現場のチーフ)で、当時局歴2~3年の東京報道部勤務で、新採の赴任先は地方局と決まっていたから初めからの東京勤務は余程のエリートだったのだろう。
そんな彼と初対面の時は一声で自分が苦手な関西人しかも大阪人と分り困惑してしまったが、我々宿泊先の夕食時の居酒屋まで訪ねて来て親睦を図るなど、全てに於いて今までに無かったチームワーク作りを重視していた彼に感服、本番では全員がミスも無く歴史の一こまに関る事が出来た。
その後彼は大阪に転勤してNHKスペシャルドキュメンタリー番組などを制作していたが、取材先での体験から地域に密着したアナウンサーの必要性を感じて自らアナウンサーに転向した。その後東京アナウンス室転勤三度目の命令に抵抗して退職、以後フリーとなり自らのプロダクションを設立して大学講師や関西の民放で活躍中の様子だ。
本はNHK時代の同僚の失敗談や裏話で始まる体験談が赤裸々に綴られて、失敗談の一部は自分も類似なものに遭遇したりしていて、あまりの面白さに一気に読んでしまった。
仲間の本はこれで23冊になった。