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地方創生 第4回

2021年09月10日 | ブログ
続、ふるさとの偉人「坪内寿夫」

 坪内寿夫は、わたくしの故郷でもある愛媛県松前町で生まれたが、父親が町に芝居小屋を転じたと思われる映画館を持っており、シベリアから帰国後はまず映画館の経営から始めたのは成り行きであろう。小学生の頃、町で空前絶後の葬儀があったが、後に坪内の父親の葬儀だったと気づいた。

 来島船渠(後の来島ドック)の再生に成功した坪内は、本格的な事業家として活躍の場を広げる。われわれ地元民にも良く知れた実績に奥道後開発があった。記録によれば1961年とあるが、私が中学に進学した(1960年)頃、すでに中学校の図書室に坪内から寄贈の「坪内文庫」があった。

 この度、半村良「億単位の男」を読み返して知るのだが、大阪から別府への瀬戸内海航路を持つ関西汽船の再生にも関わっている(1971年)。関西汽船は小学校の修学旅行で松山から別府までの船旅でも乗船したのでなつかしい。

 坪内の名が中央政財界まで深く轟いたのは、佐世保重工の再生である。佐世保重工業は元の海軍工廠である。「億単位の男」によれば、戦後の朝鮮動乱の特需景気で一時潤ったが、その後受注競争に敗れて昭和29年ころには傾きかけた。その時救済したのが当時大洋漁業の社長であった中部健吉だった。しかし、その後大洋漁業が国際的な捕鯨禁止のあおりを受けて経営を悪化させる。そこで、当時大洋漁業の顧問をしていた白洲次郎が、日銀松山支店長の紹介で坪内を訪ね、佐世保の会長職と引き換えに中部の持つ佐世保重工株を引き受けて欲しいと依頼したのだ。坪内は初対面で白洲の人物に惚れ、即引き受けたという。

 しかし、佐世保の株を引き受けながら、坪内に経営権が移ったわけではなかった。当時佐世保は日本鋼管や新日鉄が深く関与しており、資本金1億7000万円のローカルな船会社の社長に経営権を譲りたくなかったのだ。ところが1年後、造船業界に欧州共同体との経済摩擦が生じて、どうしようもない経営危機に陥った。

 坪内を二階に上げて梯子を外した日本鋼管、新日鉄そして日商岩井などは人員整理で退職させる社員の退職金の支払いや第一勧銀からの融資の保証も断り逃げ出した。当時の福田赳夫総理や日本商工会議所の永野重雄や宮家からの要請もあり、坪内は身銭を切って経営に乗り出すしかなかった。昭和53年(1978年)のことである。

 そして4年後200億円以上あったという累積赤字を解消して再建に成功する。『坪内が極端なまでにその財力を利用されており、そのために破滅をまぬがれた側が、坪内を利用したにもかかわらず、自己の利益を求めて一片の恩義さえ感じず、逆に坪内の行為を乗っ取り屋の所業と罵り、企業を破滅に追いやった自分たちの失敗を糊塗しようとした事実がある。

 多分これこそが資本主義社会における通弊であり、雇われマダム的なサラリーマン社長にとっては、至極当然な生き方なのだろうが、その裏切り、背信の連続を耐えて、彼らを見返すほどの成功をかちとった坪内の生き方と対比してみると、今日の日本の社会がベルリンの壁崩壊と同じように、その基盤を根底から崩壊させはじめている原因の究明に役立つはずである。』「億単位の男」本文より


  本稿は半村良「億単位の男」1996年5月初版、株式会社集英社刊を参考に構成しています。なお、文脈上敬称を略させていただきました。


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