坪内寿夫のふるさと創生
前稿で、大阪から別府の瀬戸内海航路を持つ関西汽船に触れた。関西汽船は昭和30年代後半、別府温泉を中心に城島高原などにホテル、ゴルフ場、遊園地を建設し、関西の客を松山などに降ろさず、別府で総取りする計画を立ち上げた。当時坪内は地方発展のカギは航空便との思いが強く、関西汽船の動向など気にしていなかった。
しかし、まだ当時は多くの人を一度に運べる汽船の威力は大きかった。この関西汽船の思惑は坪内の拠点松山市にとっては青天の霹靂であり、市長や市議会、銀行などが坪内に泣きついてきた。
坪内は付き合いのあった電通の吉田秀雄に相談する。「松山を有名な温泉地にするには何年でなんぼ金をかければええんじゃ」と問うた。吉田は「無名の地を宣伝したら、年間10億かけるとして15年はかかるじゃろう。それでも十分でないかも知れない」と答えたものの、無名が有名になる見積もりを出させた初めての男の器量に只ならぬものを感じたという。
吉田は坪内に密かにアドバイスする。「作家の機嫌をとって、松山のことを書かせろ。それなら安うて宣伝になる」吉田から紹介されて、坪内が今東光や柴田錬三郎と親しくなったきっかけである。
当時、健全娯楽としてゴルフに目を付けていた坪内は、来島どっくと奥道後の中間地点、海の見える場所にゴルフ場建設を始める。坪内は、自分でボールを打つ前にゴルフ場を作った珍しい男となるのだが、それを聞いた吉田がそのゴルフ場を「作家専門」にするよう提案し、今東光は雑誌の小さなコラム欄ではあるがそのことを書いた。反響は素晴らしく、柴田など毎月作家連中を引き連れて来松し、岡本太郎も数えきれないくらい来たという。
ゴルフ場が縁で坪内と親しくなったゴルファーの青木功は、後に日経新聞の「私の履歴書」に坪内のことを書いて大いにリスペクトしている。
さらに今東光は、NHKが「おはなはん」という連続ドラマを計画していることを聞きつけ、本来徳島県が舞台の当ドラマを、愛媛県の大洲に持ってこさせることを坪内に進言する。徳島市は戦災で古い町並みが失われていたことや、費用の面で難色を示していたことなどの事情もあったようだが、いずれにしてもこの朝ドラは大洲市を舞台に、1966年(昭和41年)から翌年に掛けての1年間の平均視聴率が45.8%という、当時としても驚異的数字を叩き出した。主役を務めた樫山文枝や、その夫役の高橋幸治を記憶している方も多かろう。
「おはなはん」の余勢をかって、NHKと親しくなった坪内は、大河ドラマ「空と雲と虹と」、「花神」の実現に貢献する。「空と雲と虹と」は瀬戸内の海賊の頭領藤原の純友を描いており、「花神」は伊予宇和島藩で蒸気船を建造した村田蔵六(大村益次郎)の物語で、ヒロインのシーボルトの娘は宇和島に居た。結果、道後温泉は俄然有名になり、関西汽船の城嶋高原は大打撃を受けた。
近年、NHK大河ドラマの舞台には、全国からオファーが絶えないそうだが、その先駆けとして坪内は、ここでも名を残すことになったのである。
本稿は半村良「億単位の男」1996年5月初版、株式会社集英社刊を参考に構成しています。なお、文脈上敬称を略させていただきました。