ふるさとの偉人「坪内寿夫」
半村良「億単位の男」1996年5月初版、株式会社集英社刊から、坪内氏の傑出した人生を辿る。
『生まれたのが大正3年。商船学校を卒業して南満州鉄道へ入社したのが昭和9年。結婚したのが昭和15年、満州で兵隊にとられたのが昭和20年の3月。ソ連が終戦ギリギリになって駆け込み宣戦布告をしたのが8月の8日。すぐ捕虜になってシベリアへ連れて行かれてそれきり抑留、強制労働。日本へ送り返されたのが昭和23年10月。劇場経営をはじめたのが翌年、昭和24年5月。映画の2本立て上映を日本で最初にはじめて、映画館を40館近くも増やして大儲け。その稼ぎっぷりを見込まれて、倒産した造船所の再建を引き受け、社長に就任したのが昭和28年、39歳の春。
坪内寿夫の人生を切れ目なしにかきつらねればこうなる。
回顧すればまさに昭和の激流をすっぱだかで泳ぎまわり、岸についたときは巨富を手にしていたという、奇跡的なラッキーボーイと見えなくもなかろうが、本当に運がよければ満州へは行かずにすんだかも知れないのだから、シベリアで強制労働をさせられることもなかっただろう。
彼が幸運に恵まれていたとすれば、シベリアから故郷松前(まさき)町へ帰って、松山市内で劇場経営をはじめたあたりに、それがあったと言えるようだ。・・・』<造船と観光(の章)>
『昭和20年代、日本再建連盟という政党があり、それを基盤に政界へ乗り出そうとしていた岸信介が、松山市で最初の集会を開いたとき、自己の主力館である松山グランド劇場を会場に提供したり、映画館の売上げをそのまま現金で岸のもとに運んだりして応援したのも、単に頼まれたからというだけでなく、坪内が自分の人生の新しい局面を模索していた時期に重なっていたのだ。・・・
資金の乏しい岸信介と会ってその人柄を知り、映画館の売上げを鷲づかみにして駆け付けた義侠心もあれば、スーパー・マーケットの方式を知ると、大阪のダイエーに先駆けて、いち早く松山市内に「主婦の店」チェーンを展開する(昭和32年春)など、新しいものに対する好奇心と果断な実行力を発揮する側面もある。
しかも「主婦の店」などは、一応の成功をおさめたあと、スーパー・マーケットがいかに周辺の零細小売業者を圧迫するかを知って、あっさり(3年後)撤退してしまう淡白さを持っている。
その上青雲の志に燃えて、至難と言われた来島船渠の再建に私財をなげうって突進する、開拓者精神にも恵まれていたのだ。・・・』<戦火と繁栄(の章)> つづく
( )内は本稿の筆者追記