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この国の風景6

2009年11月16日 | Weblog
この土地の風景

 私の住まいする千葉県市原市は、2007年には工業製品出荷額が5兆円を超えて、日本第2の工業都市だそうな。臨海部の工場群は確かに壮大で、その地は昭和30年代に遠浅の海岸を埋め立てたものだ。臨海部に青柳という地名が残るけれど、別名バカ貝と呼ばれた貝の名で、埋め立てられる前は遠浅の砂地で相当の水揚げを誇っていたとのことである。貝たちは、埋め立てされた時は逃げる暇もなく死んでいったのであろう。だから近くにこの貝の慰霊碑がある。

 市原市は海岸から内陸の養老渓谷まで奥まって、千葉県のほぼ中央部に位置するけれど、市の中央を東京湾に注ぐ養老川が流れており、その流域には豊かな農地が広がり、現在は幸水や豊水といった梨の名産地でもある。また特産のイチヂクは東京市場で他地方のイチヂクを制して一番高値で取引されると、地元の農家の青年から聞いた。勿論野菜や米作も盛んで、臨海部に近いJR内房線の五井駅から姉ヶ崎駅間の沿線でさえ豊かな緑に包まれた風景が望める。

 市原市はゴルフ場が多いことでも知られる。市の面積に占めるゴルフ場面積の割合が日本一と聞いたが、ゴルフをやらない私には縁が薄く真偽のほどは確認していない。ただ、私の住居の近くにも姉崎、立野と2つのカントリークラブがある。特に姉崎カントリーは、昔は東京読売ジャイアンツが忘年ゴルフか何かでよく利用していたと聞く、東京でも有名なカントリークラブであるらしい。

ここからの話は、私がこの地の工場勤めの折に工場有志で原稿を持ち寄った「葉脈」(1984年12月刊)という文集の中の榊由之氏の作品*3)を引用に近い形で参考にして綴る。

『その姉崎カントリーの大地主である切替家は、元々この地の豪族立野家であった。1180年、以仁(もろひと)王の命令を受けて挙兵した頼朝は石稿山の戦いに敗れ、主従7人で真鶴岬から小舟で現在の千葉県安房郡鋸南町*4)に上陸した。この地の豪族の支援を得て再起をはかった頼朝は、精鋭三百騎で北上し、現在の市原市立野に辿り着き、立野長右衛門宅に数日間滞在し兵をさらに強化する。出陣の際に頼朝が旗竿を気分一新と新品に取り換えたが、この由来から頼朝は後に立野家に「切替」の姓を与え、更に恩賞として、日の出から日没まで、牛を歩かせて出来た境内の土地を与えた。』

市原市を海沿いに下るお隣は袖ケ浦市であり、アクアライン、海ほたるにつながる木更津市がある。

『大和朝廷の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)は東郡の蝦夷征伐のため、相模の走水(はしりみず)から上総国へ渡ろうとした。軍船が海の真ん中に来た時、大嵐となり船は沈没寸前となる。この時、日本武尊の妃である弟橘姫(おとたちばなひめ)が、「海神の怒りをなだめ申さん」と海に飛び込み、夫の苦難を救った。ようやくのことで上総に着いた日本武尊は、亡き弟橘姫を偲んで、海原をみつめて去ろうとしなかった。「君不去(君去らず)」が後に「木更津」の地名となった。また、後に弟橘姫の袖が近くの海岸に流れ着いたことから、その地は「袖ケ浦」と呼ばれるようになった。』

*3)市原市とその周辺の古代からの逸話を紹介するもので、文集の中で秀逸の作品であり、すべてを紹介したいくらいであるが、エッセーの構成上、その一部のみ参考に編集させていただいたことをお断りします。
*4)鋸南町は、日本一の大仏(石像)を擁する日本寺やその展望の良さで有名な鋸山がある。
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