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この国の風景2

2009年11月04日 | Weblog
この国のかたち

 「この国のかたち」は勿論司馬遼太郎先生の文芸春秋の巻頭エッセーのタイトルで、後に単行本となり、文庫化されて今も書店の棚を飾っている。文芸春秋の巻頭エッセーは田中美知太郎先生の時代から読みついでいるので、司馬先生のものも毎月必ず読んでいた筈であるが、今回あらためて文庫本を読んでほとんど覚えていないことに愕然とした。というより、「こんなに難しかったかな」というのが正直な感想である。

 司馬先生のエッセーのタイトルを自分のエッセーのタイトルにも転用するところが、いかにも身の程知らずではあるけれど、先生のエッセーのように自分もこの国を見つめ直してみようと思ったのだ。しかしながら「かたち」を捉えるためには、この国を三次元で捉える必要がある。そんな教養も文章力もない。

司馬先生の作品に「空海の風景」という小説があった。「風景」とされた司馬先生の想いは、その小説の“あとがき”にあるように『空海は私には遠い存在であったし、その遠さは、彼がかつて地球上の住人だったということすら時に感じがたいほどの距離感である』に込められているのではないかと思う。司馬先生にしてしかり、凡夫凡庸のわが身が、何かを少しでも捉えようとするなら、せいぜい二次元の「風景」がよかろう。その想いでこの語彙も借用することに決めた。そして出来たのが、「この国の風景」という今回のわがエッセーのタイトルである。

司馬先生の「この国かたち」の第1話はそのまま「この国のかたち」。『日本人は大陸から儒教や仏教を取り入れながら、ひとびとのすべてが思想化されてしまったというような歴史をついにもたなかった。これは幸運といえるのではあるまいか。そのくせ、思想へのあこがれがある。思想とは本来、血肉となって社会化されるべきものである。日本にあってはそれは好まれない。そのくせに思想書を読むのが大好きなのである。こういう奇妙な  得手勝手な  民族が、もしこの島々以外にも地球上に存在するなら、ぜひ訪ねて行って、その在りようを知りたい。』とある。

自由経済を標榜しても、所詮市場原理主義などは日本人の血肉にはそぐわない。それを目指した政治家などありはしない。為にする批判によって、新政権の政策を正当化することがこの国を危うくさせている。「ほんとうの優しさをもつことのできる人は、しっかりした心構えのある人きりだ。優しそうに見える人は、通常、弱さだけしかもっていない人だ。そしてその弱さは、わけなく気むづかしさになり変わる」(ラ・ロシェフコオ)*2)。この“人”を“政党”と読み替えて、この国の風景を眺めてみる必要があるのではないか。


*2)堀英彦「人生旅行」大和出版販売(株)昭和48年5月初版から引用
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