政治評論家の不在
政治家の質が落ちた一因に政治評論家の不在もあるように思う。テレビの報道番組の進行役を芸能人が務めるようになり、コメンテーターにも芸能人が多数登場するようになる。特に芸人と呼ばれる人たちである。彼らは確かにタレントとして能力が高く、芸事だけでなく、例えば俳句や絵の才能までと多才な方は多い。場を盛り上げるには最適である。しかし、彼らが公共の電波を使ってまで、多くの国民に訴えるほど高い社会的教養を身に着けているかは疑問である。
テレビの報道番組に登場するコメンテーターは、そこで取り上げられるテーマに応じてそれぞれの専門家が登場する。刑事事件なら元刑事、自然災害には防災のプロ、飛行機事故なら元パイロット、政治問題は元新聞記者など、ジャーナリストと呼ばれる人たちだが、最近本格的に政治を論じられる政治評論家を見ない。
政治学者という人たちも居るようだが、学者は憲法学者をはじめ現実の生きた社会を論じるにはピント外れのことが多いように、政治学者もこれはという人材は見ない。政治などまさに人々が生きて呼吸している状態における政治の有り様を論じなくては意味がない。「干物で魚の生態を論じるようなもの」という喩えがあるが、お隣の軍拡国家が世界制覇を目論む中で、自衛隊や安保法制が違憲だからそんな法律は駄目と言うことは、生きた世界を見ていない証拠である。
私などが若い頃のテレビでは、細川隆元氏や「創価学会を斬る」の藤原弘達氏など良いコンビで、当時の政治の有り様を論破していた。
一方最近のテレビでは、昼のワイドショーによく登場する政治評論家氏の意見に驚かされたことがある。現職総裁陣営が、岸田さんや石破さんなどに総裁選に立候補するなら、その支援議員は閣僚人事などでは徹底的に排除するような発言を行っていることに対して、角栄さん時代の事例を挙げ、総裁選挙は権力闘争であり、対立派閥を徹底的に叩くのは昔から当然のことであり、「現職に対抗して立候補するなら、それなりの覚悟は必要でぐずぐず言うのはおかしい」という趣旨のご宣託である。結果として対立陣営支援者を排するのは仕方がないが、事前に口に出せば立派なパラハラである。
角栄氏時代には、この国に「パラハラ」なる言葉はなかった。昔は政治の世界に関わらず、企業でも各スポーツの競技団体のドン、指導者と選手の間でも当然ようにパラハラがあり、体罰があって、それを当然としてそれぞれの組織は運営されていた。企業では戦後の混乱期に三井三池闘争など深刻な労働争議が発生し、国家が共産主義化しても困るから資本家も権力者も一定以上の権力行使を控えていただけだ。
しかし、最近のスポーツ界の不祥事の多くは、協会幹部や指導者の低俗化(スポーツ界に限らないが、指導者層に人徳が欠如し権力と金に一層執着が強くなった)により、支配する者とされる側で格差が広がり、パラハラが横行するようになった。政党の運営にパラハラは無いなどというご宣託がまかり通る所に、政治の世界の後進性と、それを未だ当然とする政治評論家のレベルの低さをみるのである。
政治家の質が落ちた一因に政治評論家の不在もあるように思う。テレビの報道番組の進行役を芸能人が務めるようになり、コメンテーターにも芸能人が多数登場するようになる。特に芸人と呼ばれる人たちである。彼らは確かにタレントとして能力が高く、芸事だけでなく、例えば俳句や絵の才能までと多才な方は多い。場を盛り上げるには最適である。しかし、彼らが公共の電波を使ってまで、多くの国民に訴えるほど高い社会的教養を身に着けているかは疑問である。
テレビの報道番組に登場するコメンテーターは、そこで取り上げられるテーマに応じてそれぞれの専門家が登場する。刑事事件なら元刑事、自然災害には防災のプロ、飛行機事故なら元パイロット、政治問題は元新聞記者など、ジャーナリストと呼ばれる人たちだが、最近本格的に政治を論じられる政治評論家を見ない。
政治学者という人たちも居るようだが、学者は憲法学者をはじめ現実の生きた社会を論じるにはピント外れのことが多いように、政治学者もこれはという人材は見ない。政治などまさに人々が生きて呼吸している状態における政治の有り様を論じなくては意味がない。「干物で魚の生態を論じるようなもの」という喩えがあるが、お隣の軍拡国家が世界制覇を目論む中で、自衛隊や安保法制が違憲だからそんな法律は駄目と言うことは、生きた世界を見ていない証拠である。
私などが若い頃のテレビでは、細川隆元氏や「創価学会を斬る」の藤原弘達氏など良いコンビで、当時の政治の有り様を論破していた。
一方最近のテレビでは、昼のワイドショーによく登場する政治評論家氏の意見に驚かされたことがある。現職総裁陣営が、岸田さんや石破さんなどに総裁選に立候補するなら、その支援議員は閣僚人事などでは徹底的に排除するような発言を行っていることに対して、角栄さん時代の事例を挙げ、総裁選挙は権力闘争であり、対立派閥を徹底的に叩くのは昔から当然のことであり、「現職に対抗して立候補するなら、それなりの覚悟は必要でぐずぐず言うのはおかしい」という趣旨のご宣託である。結果として対立陣営支援者を排するのは仕方がないが、事前に口に出せば立派なパラハラである。
角栄氏時代には、この国に「パラハラ」なる言葉はなかった。昔は政治の世界に関わらず、企業でも各スポーツの競技団体のドン、指導者と選手の間でも当然ようにパラハラがあり、体罰があって、それを当然としてそれぞれの組織は運営されていた。企業では戦後の混乱期に三井三池闘争など深刻な労働争議が発生し、国家が共産主義化しても困るから資本家も権力者も一定以上の権力行使を控えていただけだ。
しかし、最近のスポーツ界の不祥事の多くは、協会幹部や指導者の低俗化(スポーツ界に限らないが、指導者層に人徳が欠如し権力と金に一層執着が強くなった)により、支配する者とされる側で格差が広がり、パラハラが横行するようになった。政党の運営にパラハラは無いなどというご宣託がまかり通る所に、政治の世界の後進性と、それを未だ当然とする政治評論家のレベルの低さをみるのである。