ダイヤモンド 2024.5.22 6:15
長谷川幸光:ダイヤモンド社編集委員/クリエイティブディレクター
経営・戦略
ネクストリーダーの道標
ジャマイカのナイン・マイルにあるボブ・マーリーの生誕地と霊廟 Photo:TalbotImages/gettyimages
映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』の日本公開が始まり、話題となっている。ジャマイカとの歴史的・文化的なつながりがほとんどないにもかかわらず、日本は「アジアにおけるレゲエ大国」といわれるほどレゲエの人気が高い国でもある。一方で本作は、日本に住む我々には理解が難しい描写も多い。そのため、ジャマイカの歴史と政治、ラスタファリズムの思想、ボブ・マーリーの人間関係など、映画鑑賞前に押さえておきたいポイントを9つに絞って解説する。ネタバレはないが、前知識なしで鑑賞したい人は、鑑賞後に読んでみてほしい。(ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光)
ポイント(1)ジャマイカの歴史
スペイン支配下で先住民が絶滅
南米大陸の北に位置するカリブ海。ここに浮かぶ島々の中にジャマイカがある。北はキューバが、東はハイチやドミニカ共和国がある。
ジャマイカは豊かな自然に囲まれた小さな島国で、もともと、南米からカヌーで渡ってきたとされるインディアン、タイノ族やカリブ族が住んでいた。「ジャマイカ」という国名は、先住民の言葉で「泉の地」を意味する「ザイマカ」が由来するという。これがスペイン、イギリスと統治国が変わるうちに、「ハマイカ」→「ジャメイカ」と呼び名が変遷し、現在の国名である「ジャマイカ」となった。
ジャマイカには、現在のジャマイカ人の前に先住民が住んでいた。1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸(正確にはカリブ諸島)を「発見」、そして1494年の第2回航海においてジャマイカ島へ上陸。1509年、ジャマイカをスペイン領とし、この地にサトウキビ畑をつくって、先住民を奴隷として働かせた。
その過酷さや、スポーツとうたった拷問など、非人道的な仕打ちに耐えきれずに自殺する先住民も続出した。酷使や虐殺、自殺、持ち込まれた疫病などによって先住民が絶滅すると、スペインは西アフリカから黒人奴隷を「輸入」し、新たな労働力を確保する。現在のジャマイカの黒人の祖先たちだ。
1655年、イギリスがジャマイカへ侵攻すると、スペインは少し戦った後、あっさりとジャマイカを手放してしまった。1670年、マドリード条約により、ジャマイカは「正式」にイギリス領となる。
イギリスは、港町のポート・ロイヤルをジャマイカの首都とした。ポート・ロイヤルはヨーロッパの大貿易港と並ぶほど栄えるが、一方で、海賊たちの本拠でもあった(ちなみに、ディズニー映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズの第1作『呪われた海賊たち』の物語は、ポート・ロイヤルから始まっている)。
1692年、ジャマイカ大地震が発生し、街の大半が海に沈んでしまう。そのため、その北に位置するキングストンを首都とした。現在のジャマイカの首都だ。
ポイント(2)ジャマイカの政治
殺人も多発する二大政党の争い
イギリス統治下の時代、ジャマイカの黒人たちは、何度も反乱を起こし、中には1865年の「ジャマイカ事件」のような、数百人規模の大規模な暴動もあった。
イギリス領西インド諸島での奴隷解放運動の高まりによって、1834年に奴隷制廃止令が発令し、それに基づいて1838年に奴隷制度が廃止。ジャマイカの奴隷は解放され、選挙権も得たはずだったが、多くの黒人は変わらず極貧の生活を強いられた。また、選挙の投票も高額で、投票できるのはほとんどが白人であり、事実上、黒人には参政権のない状態だった。そのため、黒人の身分はほぼ奴隷時代のままだった。
1938年、民主社会主義を掲げる人民国家党(PNP/People's National Party)が設立。イギリス領カリブ圏諸国の最古の政党といわれている。また、1943年には、労働条件の改善などの社会改革を求めるジャマイカ労働党(JLP/Jamaica Labour Party)が設立される。現在、この2つがジャマイカの二大政党であり、期間は違えど交互に政権が入れ替わる状態が続いている。映画ではこのあたりもポイントとなってくる。
1959年に、ジャマイカはイギリスから自治権を獲得し、1962年、ついに独立を果たす。ただ、主権国家とはいえ、イギリス連邦の加盟国のため、独自の元首を持たず、今もイギリス国王を国家元首とする。現在はイギリス国王のチャールズ3世がジャマイカ国王を兼位しているものの、実権をほとんど持たず、象徴的な存在であるため、実質的にジャマイカのトップは、ジャマイカ総督ということとなる。
2011年10月、JLPよりジャマイカ政治史上最年少(当時39歳)のアンドリュー・ホルネスが首相に就任。しかし、その直後の12月の総選挙ではPNPが勝利し、シンプソン=ミラーが首相に就任する。2016年2月の総選挙で野党JLPが僅差で勝利し、ホルネス政権が返り咲く。2020年9月の総選挙でも与党JLPが勝利し、ホルネス首相が再任。現在に至る。
なお、この二大政党の支持者たちの対立は苛烈で、選挙期間中に観光客などがジャマイカ二大政党のイメージカラー(JLPは緑、PNPはオレンジ)の衣服を着用していると、襲撃などのトラブルに遭う可能性があり、日本の外務省もWebサイト等で注意喚起している。
ポイント(3)ボブ・マーリーの誕生
白人と黒人の間に生まれたことを悩む
本映画の主人公であるボブ・マーリーは、1945年、丘陵部のセント・アン教区内のナイン・マイルズという村で生まれた。
父親の名はノーバル・マーリー。ジャマイカに住む白人で、イギリス海軍の西インド諸島連隊で将校を務めていた。また、建設会社のオーナーでもあった。
ノーバル・マーリーは、自身の担当地域に住むセデルラと出会い、間もなくセデルラは子を身ごもった。のちのボブ・マーリーだ。ノーバル・マーリーの家は代々、黒人嫌いで有名だったらしく、また、2人は40歳以上も年が離れていたことから、セデルラの母親は2人の結婚をひどく反対した。しかし、ノーバル・マーリーが馬に乗って現れ、セデルラの母親に直接、2人の結婚を申し込むと、これを認めたという。しかし黒人との結婚に腹を立てた家族と関係がこじれ、挙式後、ノーバル・マーリーは、首都のキングストンへ働きに出て行った。
1945年に誕生したノーバルとセデルラの子は、父親の兄弟の名前をもらって「ロバート」と名づけられた。セデルラはミドルネームに「ネスタ」をつけた。ネスタには「使者」という意味があるらしい。ロバートは、英語圏では「ボブ」の愛称で呼ばれることが多い。そのため、ロバート・ネスト・マーリーは、「ボブ・マーリー」と呼ばれるようになる。
ボブ・マーリーという名前だけでも、白人とジャマイカ黒人という人種や文化の違いが込められているように、ボブは若い頃、自身のアイディンティティに悩み、苦しんだ。家族を放ったらかしにしてほとんど現れない父親を恨み、生い立ちに口を閉ざし、「自分や一族はアフリカから来たのだ」と語るようになった。その謎に満ちた一面から、神秘的な雰囲気をまとうようになっていく。
1955年、父が70歳で亡くなると、両家の縁は切れ、セデルラとボブは、キングストン郊外のスラム、トレンチタウンの公営地で住み始める。トレンチタウンは多くのレゲエミュージシャンを輩出し、ボブもこの街での生活が強く印象に残ったようで、ボブの歌の中でも頻出する。現在も治安が劣悪なエリアであり、観光客が近づくのは大変危険とされる。
ポイント(4)レゲエの誕生
カリブの音楽の中でもっとも世界へ普及
レゲエはジャマイカのソウル・ミュージックだ。バーを宣伝するために音楽を大音量で流したことから、現在のレゲエのスタイルが始まったといわれている。
もとは、宗主国のヨーロッパの音楽の要素と、黒人音楽といわれる、ゴスペルやジャズ、R&B、ロックといったさまざまな音楽の要素に、熱く燃えるような、アフリカのドラムの響きが加わり、原型が形作られていった。
そして、アップテンポな「スカ」(1950年代後半にブーム)、スカからテンポを落とした「ロックステディ」(1966年頃からブーム)を経由し、ロックステディからさらにテンポを落とした「レゲエ」が1960年代後半に生まれた。2拍目と4拍目をドラムで強く打つ独特のリズムと、けんか腰で挑戦的な歌詞が特徴だ。
ジャマイカの二大音楽レーベル、「スタジオ・ワン」のコクソン・トッドと、「トレジャー・アイル」のデューク・リード(つねに銃を2丁携帯し、ギャング集団を護衛につけた武闘派だった)はどちらもバーを経営していて、自分のレーベルの曲を中心に、ライバルに負けないように大音量で流した。
サウンドシステムにもとてもこだわった。サウンドシステムというのは、巨大なスピーカーを備えた音響機器そのものをさすこともあれば、DJやミュージシャンたちの集団をさすこともある。ときには機材を車に積み込んで島内を巡り、屋外ディスコのようにガンガン音楽を流してレコードを売って回った。なお、レゲエのDJは「セレクター」や「dee jay」とも呼ばれ、マイクで話しながら曲を流すことも多い。
レゲエは、貧困や差別、政治的抑圧を訴えかけたり、ラスタ(後述)の思想にも影響を受けたりと、社会的なメッセージが込められるようになっていった。
初めは、ジャマイカに住む白人たちはレゲエに対し、「無教養な黒人の音楽」「単調な西インド諸島の音楽」とさげすんだ。白人だけでなく、否定的な態度を示す黒人も多かったが、次第にジャマイカの若者を中心に広まり、やがてボブたちによって、世界中で受け入れられるようになっていった。
なお、カリブ全体でもっとも人気の高い音楽は「ソカ」であり、レゲエというわけではない。しかし、レゲエはカリブが生んだ音楽の中で、もっとも世界に広まった音楽といえる。宗主国だったイギリスからヨーロッパやアメリカに広がり、アフリカでも音楽好きのみならず、ラスタに共感して聞く人も多い。不思議なことに、ジャマイカとの歴史的・文化的なつながりがほとんどないにもかかわらず、アジアにおけるレゲエ大国といわれるほど、日本でも人気が高い。
レゲエをベースとしたインストゥルメンタルの「ダブ」や、ノリがよく情熱的・官能的な歌詞が特徴の「ダンスホール・レゲエ」といったジャンルも生まれている。
ポイント(5)ボブ・マーリーの交友関係
平和のための音楽と政治利用される音楽
10代のボブは、幼なじみのバニー・ウェイラーと、トレンチタウンに住み始めてから出会ったピーター・トッシュと出会い、音楽活動を本格化。6人組の「ザ・ティーンエイジャーズ」を結成する。ボブは母親が歌っていたゴスペルに影響を受けており、独特な歌詞とハーモニーを売りにしたボーカルグループとして注目される。その後、「ザ・ウェイリング・ウェイラーズ」、そして「ザ・ウェイラーズ」へと名称を変更した。
1963年、スタジオ・ワンから発表した「Simmer Down」が大ヒット。この頃、同じくスタジオ・ワンに在籍していたグループのメンバー、リタ・アンダーソンと出会い、結婚する。
曲がヒットしてもミュージシャン側にはほとんどお金が入ってこず、アメリカの自動車工場のライン工やレストランの皿洗いなどをして生活費を工面していた。ジャマイカに帰国後、稼いだ資金で自らレーベルを開始するが、すぐに経営難となって消滅した。
その間も次々と曲を発表するが、この頃、バンドの音楽に大きな影響を与えることとなる人物たちと出会う。スタジオ・ワンのエンジニアであり、ミュージシャンのリー・“スクラッチ”・ペリーと、そのスタジオバンドのザ・アップセッターズだ。ザ・アップセッターズのメンバー2人がザ・ウェイラーズに加わり、彼らの音楽の完成度が飛躍的に高まった。
音楽プロデューサーと反りが合わなかったとか、ボブを前面に押し出す方針に気が乗らなかったとか、諸説あるようだが、1974年、ピーター・トッシュが脱退。続いてバニー・ウェイラーも脱退してしまう。ボブはメイン・ボーカルとなり、ザ・ウェイラーズはメンバーを交代しながらバックバンドを務め、「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ」という編成ができあがる。
ボブは、スティービー・ワンダーの慈善コンサートに参加し、これに感化されて、1976年に「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を開催することにした。二大政党の対立が激化しており、政治を巡っての銃殺事件も日常茶飯事に起きていた。子どもたちでさえ標的にされ、それを見かねた多くの医師が国を離れた。そのため、音楽でジャマイカ国内に笑顔をもたらそうと企画したチャリティコンサートだった。
しかし開催日が近づくにつれて脅迫が相次ぐ。政府が協賛し、しかも与党のPNPがコンサート開催の直後に総選挙を行うことを発表。彼らが制作したジャマイカ賛歌「スマイル・ジャマイカ」が繰り返しラジオで流れた。当然、PNPに敵対するJLPの支持者は、コンサートは与党の宣伝のために開催されると思い込んだ。ボブは戸惑い、開催に否定的なメンバーもいた。
そして開催の2日前、事件が起こった。武装した6人がリハーサル中のボブたちを襲撃し、マネージャーのドン・テイラーに5発撃ち込まれる。ボブも左胸に撃ち込まれた。建物の外で車に乗っていたリタも撃たれ、頭部に命中した。しかし、ガラスを通ったこととドレッドヘアが、弾の勢いを弱めた。幸い3人とも命に別条はなく、ボブは2日後のコンサートにも出演。傷のためギターを弾くことはできなかったが、約90分のライブを完遂した。
その後、このままジャマイカにいては命を落としかねないと考えたボブは、イギリスへ活動の拠点を移し、しばらく制作活動に注力する。当時流行していたパンクシーンも直接、体験した。その頃ジャマイカでは、政党間の抗争の激化、市民戦争、軍部によるクーデターなどが現実味を帯び始め、内乱に陥る寸前だった。そこに、ジャマイカから2人の人物が訪ねてくる。敵対しているはずの、PNPのガンマンであるバッキー・マーシャルと、JLPの幹部のクローディー・マソップだ。
なお、オリジナルメンバーのピーター・トッシュは、ザ・ウェイラーズ脱退後も、レゲエの重要人物として活躍し続けたが、1987年に強盗に射殺されてしまう。相手は幼なじみだった。バニー・ウェラーは、米グラミー賞の最優秀レゲエアルバム賞を3度受賞するなど多くの功績を残し、2021年、73歳で病没した。ダブのパイオニアでもある、リー・ペリーは、近年までミュージシャン、プロデューサーとして活躍し、世界中のさまざまなミュージシャンに影響を与えた。日本にも熱狂的なファンが多く、何度も来日している。2021年、85歳で死去した。
ポイント(6)ボブ・マーリーと子どもたち
ボブ・マーリー家はレゲエ界のロイヤルファミリー
ボブが21歳、リタが19歳のときにリタと結婚。結婚時、リタは娘を育てており、ボブは養子として迎え入れた。ボブとリアの間には4人の子ができたほか、ボブはリタ以外の複数の女性とも子をもうけている。また、リタもボブ以外の男性と子をもうけ、ボブはその子も養子に迎えている。
ボブには、養子含め公式には11~12人、それ以外にも7人の子どもがいるとされる。その中には歌手として活躍する子も多く、「レゲエ界のロイヤルファミリー」と呼ばれている。ボブとリタは(互いの男女関係について何度もトラブルはあったようだが)離婚せずに、生涯、夫婦であり続け、すべての子を大切に育てたという。
ポイント(7)ラスタファリ運動
ボブ・マーリーの曲が世界中で愛されている理由
レゲエミュージックが好きな人は、「ラスタ」「ラスタファーライ」や「ジャー」といったことばが曲の中にちりばめられていることを知っているだろう。これらの言葉は「ラスタファリ」という宗教的な概念に基づく。
この概念が非常にややこしいのである。さまざまな説が入り乱れている上に、日本に住んでいる私たちの感覚では理解が難しい。本作の中でもこの概念に基づく描写が多く登場するので、「?」となるシーンもあるだろう。
ラスタファリの発祥は、1924年にカリブ海のアンギラ出身者によって書かれた『ホーリー・ピビィ』という本が「黒人の聖書」として広まり、ラスタファリの誕生へとつながったという説や、黒人指導者のマーカス・ガーヴェイ(1887年~1940年)が提唱したという説などがあり、よくわかっていない。ただ、ボブの妻のリタは自伝の中で、ラスタファリは20世紀初頭にガーヴェイが始めたと語っているので、ボブたちがガーヴェイから多大な影響を受けたことは間違いない。
ガーヴェイはボブと同じセント・アン出身で、ニューヨークへ渡り、「世界黒人地位改善協会」を設立。黒人としての誇りを持とう、黒人たちはアフリカへ帰還しよう、と主張した。そして「アフリカの王が、世界の植民地を解放する」「救世主が現れてアフリカ大陸を統一し、奴隷として世界中に離散した黒人たちを約束の地であるアフリカへと導いてくれる」と予言する。この救世主を「ヤハウェ」と呼んだ。
ヤハウェとは、旧約聖書や新約聖書における、唯一絶対の創造神のことであり、短縮して「ヤー(ジャー)」と呼ぶ。「Hallelujah(ハレルヤ)」は、ヘブライ語で「ヤーをたたえよ」という意味。レゲエの曲に多く登場する「ジャー」という言葉は、黒人を導く神を誉め讃えているのだ。
アフリカのエチオピアは、1894年~1896年、植民地化を狙うイタリアと戦い、これを撃退した(第1次エチオピア戦争)。1935年~1936年、復讐心に燃えるイタリアは再度、エチオピアに侵攻し、エチオピアをイタリア領とした(第2次エチオピア戦争)。しかし、第2次世界大戦勃発後の1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐すると、再びエチオピアは独立、軍の近代化を進める。
こうした背景(国として長い歴史を有すること、欧州相手に勝利したこと、アフリカ諸国の中でほとんど植民地化されなかったこと、エチオピア皇帝が再び返り咲いたことなど)が影響して、「ガーヴェイの予言は的中した」「エチオピア皇帝こそが、ガーヴェイが予言した王だ」「エチオピア皇帝は我々をアフリカへと導いてくれる救世主だ、神(ジャー)の化身だ」と、多くのジャマイカ人へガーヴェイの思想は波及していった。
このエチオピア皇帝の名はハイレ・セラシエ1世(1930年4月に即位)といい、本名を「ラス・タファリ」という。そこからラス・タファリを崇拝する人々を「ラスタファリアン」「ラスタ」と呼ぶようになっていく。
ラスタは、体を一種の聖堂とみなし、旧約聖書の「レビ記」の教えを守り、髪を切ったり、くしを入れたり、ひげを剃ったりすることはしない。頭髪を自然に成長するままとし、伸びた髪はまとめて「ドレッド・ロックス」と呼ばれる髪形にする。
「ドレッド」という言葉は「ひどい」という意味があり、植民地時代のジャマイカで、支配者に対するラスタの抵抗、つまり、「ひどいやつら」への抵抗を体現した髪形といわれているが、「(見るものが恐れるほど勇敢なジャマイカの戦士たちが)勇ましい」「(自然や聖なる存在を)畏れる」といった意味だという意見もある。
ラスタの中にもさまざまなタイプがいるが、基本的に菜食主義であり、大麻を神聖な植物とする。当初、怪しい異端の宗教として嫌われ、警察も取り締まった。しかしボブの登場で、ラスタの文化は急速に大衆の支持を獲得していった。
なお、ラスタの人たちは「ラスタファリズム(ラスタファリ教)」と呼ばれることを好まない。自分たちが実践しているのは宗教ではなく、あくまで「ラスタファリ」という、心の状態や生き方そのものなのだと考える。
聖書を原理主義的に解釈する者の中に、同性愛を否定する者もいるが、ボブの歌にはそのような記述は見当たらない。また、黒人以外を認めないという極端な黒人至上主義者もいるが、白人と黒人との間に生まれたボブは人種の優劣を主張することはしていない。差別されている黒人の地位を向上させ、どの人種もフラットな立場にする、それがボブの願いであり、彼の曲が世界中で現代にいたるまで愛されている理由であろう。
ポイント(8)ボブ・マーリーの最後
死因はがん、国葬が執り行われた
1977年、ボブはヨーロッパツアー中にサッカーをしていた(ボブはサッカーの熱狂的なファンであり、よくコンサート前にサッカーをして体力をつけていた。技術も相当高く、プロ・サッカー選手になることも真剣に考えていた時期があったという)。その際、足の親指を負傷し、ツアーが終わった後も治るどころか悪化し、膿んでしまう。
気分がすぐれない日が続き、医者に検査してもらったところ、膿からがん細胞が検出される。医者は足の一部をすぐに切断することを勧めたが、敬虔なラスタであったボブは、体に刃物を当てることに強い抵抗を示し、これを拒否した。
足を切断せずに爪をはがして応急処置を行うことで、一時的に体調はよくなったが、1980年に再び悪化。放射線療法を開始し、治療のためドレッドも抜け落ちたが、すでにがんは全身に転移していた。1981年5月11日、家族に見守られながら息を引き取った。36歳だった。
遺体は5月19日にジャマイカへ送られ、21日にキングストンで国葬が行われた。リタは抜け落ちたドレッドをカツラにして、それをボブの頭にかぶせたという。葬儀の前には、ザ・ウェイラーズのメンバーによる演奏が行われた。ひつぎはその後、ボブの故郷のナイン・マイルズに運ばれ、ジャマイカの全人口の約半数もの人々が村を訪れ、弔慰を示した。
ポイント(9)押さえておきたい曲
「One Love」
1965年に発表。「手を取り合って、楽しくやろう」というラスタの基本哲学を反映した曲。初めて発表されたのは1965年、ボブが所属していたコーラスグループのアルバムにおいてだった。その後、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの1977年のアルバム『Exodus』に収録され、1984年にシングルとして発売された。カーティス・メイフィールドが在籍したインプレッションズの「People Get Ready」のメロディを一部引用しているため、1977年以降、「One Love/People Get Ready」と併記されている。
「No Woman, No Cry」
トレンチ・タウンでの貧しい生活の体験をもとにした名曲。ザ・ウェイラーズの1974年のアルバム『Natty Dread』に収録。その後、1975年7月にイギリス・ロンドンのライシアム・シアターで行われたコンサートのライブ音源をシングルとして発売したところ、大ヒット。ジャマイカ以外で初めてヒットした曲となった。数多くのミュージシャンにカバーされている。なお、この曲の作詞・作曲は「ヴィンセント・フォード」とクレジットされている。ヴィンセントは、ボブのトレンチタウン時代の友人で、貧しかったために病気の治療を受けられず足を失い、車椅子での生活を送っていたという。ヴィンセントはトレンチタウンで炊き出し所を営み、当時、路上生活をしていたボブも、彼の炊き出しによって飢えずにすんだ。その感謝を込めて、彼に印税が入るようにクレジットしたというエピソードがあるが、真相は定かではない。レゲエというのは、何気ない会話から生まれたり、1曲ができるまでに非常に多くの人が関わったりすることは珍しくないので、権利関係が複雑になることも多い。
「Exodus」
襲撃事件後、イギリスへ渡ってレコーディングした1977年のアルバム『Exodus』に収録された曲。Exodusとは、旧約聖書の「出エジプト記」のことで、モーゼに導かれたイスラエルの民がエジプトから旅立つ記述と、ラスタの人々がアフリカに帰ることを結びつけている。
「Get Up, Stand Up」
1973年のアルバム『Burnin’』に収録された曲。権利のために立ち上がれ、自由のために戦い続けよう、と呼びかける。全員が同じメロディを一斉に歌うチャント(キリスト教の教会の儀式のときに歌われる聖歌)のように、同じメッセージが繰り返される。コンサートの最後に歌われることが多かった。
「Punky Reggae Party」
1970年代、イギリスでパンクのムーブメントが起こる。パンクの代表格、セックス・ピストルズやクラッシュのメンバーは、レゲエへのリスペクトを公言し、ボブたちもまたパンクに刺激を受け、それに応える曲をつくった。クラッシュのアルバム『Complete Control』をプロデュースしたばかりのリー・ペリーと一緒に制作した曲。
「War」
1976年のアルバム『Rastaman Vibration』に収録された曲。人種差別がなくなるまで、基本的人権が平等に保障されるまで、アフリカ大陸に平和が訪れるまで、戦い続ける、という歌詞で、過激に聞こえるが、国際連合でハイレ・セラシエ1世がアフリカ諸国の独立を訴えた演説をもとにしている。
参考文献:
『BOB MARLEY songs of freedom』(ブルース・インターアクションズ、監修:リタ・マーリー監修、写真:エイドリアン・ブート、文・クリス・サレウィッチ、訳:中江昌彦)
『ボブ・マーリー』(偕成社、著者:マーシャ・ブロンソン、訳:五味悦子)
『ボブ・マーリーとともに』(河出書房新社、著者:リタ・マーリー+ヘッティ・ジョーンズ、訳:山川真理、越膳こずえ、島田陽子)
『ボブ・マーリィ キャッチ・ア・ファイア』(音楽之友社、著者:ティモシー・ホワイト、訳:青木誠)
『ボブ・マーリー レゲエの伝説』(晶文社、著者:スティーヴン・デイヴィス、訳:大橋悦子)
映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』
■監督:レイナルド・マーカス・グリーン
■出演:キングズリー・ベン=アディル、ラシャーナ・リンチ
■脚本:テレンス・ウィンター、フランク・E ・フラワーズ、ザック・ベイリン、レイナルド・マーカス・グリーン
■全米公開:2024年2月14日
■日本公開:2024年5月17日
■原題:Bob Marley: One Love
■配給:東和ピクチャーズ
https://diamond.jp/articles/-/344000