先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

<ふらの百景>21 勇振川の温水ため池 落流水織りなす構造美

2024-05-23 | アイヌ民族関連

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北海道新聞2024年5月22日 18:21(5月22日 19:07更新)

 皐月(さつき)の季節、田んぼに水を張り、田植えが終わった。この時期、山部自然公園太陽の里に隣接する勇振川温水ため池を「推し」の風景としたい。

 残雪の芦別岳と新緑の森を背景に、11段の遊水池から冷水が噴水状に吹き出し、一斉に落水する様が実に美しい。山部地区を代表する農業土木遺産の一つだ。

 当地区の米作りは大正中期にさかのぼる。造田の機運が高まったのは戦後で、用水確保のため金山ダムと用水路の建設が計画された。しかし完成に時間を要するため、先行して建造されたのが温水ため池だった。1958〜60年に3基を整備、勇振川温水ため池はサッカー場約3面分の面積を持つ最大の例だ。

 ・・・・・・・・

 アイヌ語由来の山部は「yam-pet(ヤムペッ、冷たい水)」の説もある。美しさの理由は先人の労苦と理にかなった構造美にあり、と言えそうだ。

 絵・イマイカツミ、文・沢田健(富良野市博物館学芸員)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1014982/


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日本画家大矢さん 置戸で27日トーク

2024-05-23 | アイヌ民族関連

五十嵐文弥 有料記事

北海道新聞2024年5月22日 18:05(5月22日 18:27更新) 

 【置戸】旧ふるさと銀河線置戸駅で絵画作品を展示しているNPO法人置戸ぽっぽ絵画館(細川昭夫理事長)は、27日午前11時から日本画家大矢十四彦(としひこ)さんを招きギャラリートークを行う。大矢さんが自作について語る。

 同絵画館は昨年、開館10周年を記念し、洋画家木原和敏さんのギャラリートークを行った。大矢さんはこれに続く第2弾となる。

 ・・・・・・

 10月25日まで開催の「大矢十四彦特別展」では、アイヌ民族の女性を描いた「ユーカラの詩」や、漁の様子を描いた「漁(すなど)る」など16点を展示している。

 細川さんは「活躍中の画家が語る貴重な機会」と来場を呼びかけている。無料。問い合わせは細川さん、電話0157・52・3742へ。

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1014959/


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<はなし抄>イスラエルのガザ攻撃は大量虐殺 早大文学学術院教授・岡真理さん

2024-05-23 | アイヌ民族関連

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北海道新聞2024年5月22日 10:42

おか・まり 1960年生まれ。東京外国語大アラビア語科卒、同大大学院修士課程修了。エジプト・カイロ大に留学。京都大人間・環境学研究科教授などを経て現職。著書に「アラブ、祈りとしての文学」「ガザに地下鉄が走る日」など。

■講演会「ガザ、いま再び~私たちはここに未来を植える~」から(5月18日、札幌市)

 3日前の5月15日は76年目のナクバ(大災厄)記念日です。1948年、パレスチナの民族浄化の上にイスラエルが建国され、パレスチナ人75万人が難民となりました。67年の第3次中東戦争で、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区も占領します。ガザは4千年の歴史があり、世界の諸文明が歴史を紡いだ舞台でした。札幌の3分の1の大きさで人口は230万人。ガザ市は札幌と同じ近代都市でしたが、今は壊滅的な状態です。

 イスラエルの占領への抵抗組織「ハマス」が主導する攻撃を受け、イスラエルによる大規模なガザ攻撃が始まった10月7日以来、死者は1カ月で1万人を超えました(5月18日現在、死者3万5千人以上)。ウクライナの民間人の犠牲者は2年間で1万人。ガザは若年人口が4割を占めます。14歳以下の子どもが1カ月で4千人殺されました。

 米国の独立系ウェブ報道が4月、大手紙ニューヨーク・タイムズがガザ報道で記者に「大量虐殺」「民族浄化」の用語使用を制限していたと伝えました。・・・・・・・・

・・・・・・

 イスラエルはハマスを暴力的なIS(イスラム国)と同じと宣伝しています。イスラエルのパレスチナ支配は、かつての日本のアイヌ民族やアジアへの支配と同じ、先住民の排斥を伴う「入植者植民地主義」と「占領」の暴力に他なりません。

 抵抗の暴力なら何をしても許されるわけではないですが、イスラエルの占領の暴力がなければ、ハマスもない、ということです。だから「ハマス対ユダヤ」という二項対立ではなく、日本人も歴史に学びガザを見るべきです。(構成・鈴木雅人)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1014768/


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<ウポポイ オルシペ>89 アイヌ語の海へ漕ぎだそう 聞いて話して自由に体験

2024-05-23 | アイヌ民族関連

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北海道新聞2024年5月22日 10:41

「イタク トマリ」の第1部と第2部の様子

 ゴールデンウイーク初日の4月27日から体験学習館別館3号館で「イタク トマリ」が始まりました。アイヌ語でイタクはことば、トマリは港の意味。ことばの港と題した「イタク トマリ」は、ウポポイのスタッフとクリエーターが生み出した、三つの体験で構成されたインスタレーションアートです。

 インスタレーションアートとは、場所や空間全体を作品として体験させる現代美術のジャンルです。第1部は〝聞く〟をテーマに、大小さまざまな五つのモニターから18個のことばが映像とともにシャワーのように流れてきます。

 第2部は〝話す〟をテーマに、大きな発光ダイオード(LED)ビジョンの前に置かれた三つのマイクを使い、ビジョンに浮かび上がることばを口にすることで映像を変化させます。八つのことばからランダムで一つが浮かび上がります。

 第3部は〝見つける〟をテーマに・・・・・・・

<文・山丸ケニ=民族共生象徴空間運営本部アイヌ語担当、写真・アイタケル>

 ◆「イタク」の「ク」は小さい字

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1014767/


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Vantage FoundationとTeach For Malaysia、教育を通じて先住民の子どもたちに力を与えるために協力

2024-05-23 | 先住民族関連

APF2024年5月22日

Vantage FoundationとTeach For Malaysia、教育を通じて先住民の子どもたちに力を与えるために協力

【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202405221097-O2-4L4F7s6Z】

シンガポール、2024年5月22日 /PRNewswire/ -- Vantage Foundationは、教育を通じてマレーシアの先住民族Orang Asliコミュニティに力を与えるため、Teach For Malaysia(TFM)とのパートナーシップを発表しました。この提携は、世界中の社会から疎外されたコミュニティが直面する目に見えない課題にスポットライトを当てるというVantage Foundationの使命を強調するものです。

【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202405221097-O1-omAczGB0】

Vantage Foundationは、Orang Asliの生徒の教育的課題に取り組むTFMのイニシアチブに戦略的支援を提供し、彼らの意識を高め、潜在能力を最大限に発揮できるようにすることを目指します。

「Teach For Malaysiaとのパートナーシップは、インクルーシブ教育と、社会から疎外されたコミュニティ、特にOrang Asliが成長できるようにすることへの当社のコミットメントを浮き彫りにしています」とVantage Foundationのエグゼクティブディレクター、Steven Xieは述べました。

教師の採用、訓練、支援におけるTFMの専門知識は、社会的流動性とインクルーシブ教育の促進というVantage Foundationの使命と一致しています。両者は共に、制度的障壁を取り除き、Orang Asliコミュニティに力を与えることを目指しています。

「教育を通じて子供たちに力を与えるため、Vantage Foundationと協力できることを嬉しく思います」とTeach For Malaysiaの成長担当ディレクター、Fam Li Yingは述べました。「当社は、マレーシアのすべての子どもたちが質の高い教育を受けられるようになるというビジョンを実現したいと考えています。」

インパクトのある一例は、バヌンの学校で教鞭をとるShawn Stanlyです。Shawnの革新的な教授法は、想像力が豊かになり、夢が形になるような没入型の学習環境を作り出しています。彼のアプローチは、生徒と馴染みのない概念とのギャップを埋め、学ぶことへの愛情を育みます。

例えば、Shawnは教室を飛行機の内装に変えて生徒たちを魅了しました。空の旅を体験したいという生徒の憧れに触発されたShawnは、生徒の視野を広げるために「フライトシミュレーション」を作成しました。Shawnはパイロットに扮し、教室を飛行機のコックピット間に合わせの窓用プロジェクター付きに変えました。ヘリコプターを使って、パリやヒマラヤといった目的地へ向かうAir Banunのバーチャルな旅へと生徒たちを案内し、その道中で興味深い事実を共有しました。

「この経験は、彼らの心を村の外の世界に開きました 」とShawn は振り返り、彼の教育に対する情熱が明らかです。「それは単なる仕事ではなく、天職なのです」と彼は笑顔で付け加え、教育を通じてOrang Asliコミュニティに力を与えるという彼の決意を強調しました。

Vantage FoundationとTeach For Malaysiaのパートナーシップは、マレーシアにおける教育の公平性と社会正義に向けて大きく前進するものです。両者は協力と専門知識を通じて、マレーシア全土のOrang Asalの生徒たちの生活を変えることを目指しています。

Teach For Malaysiaの取り組みについては、https://teachformalaysia.org/をご覧ください

Vantage Foundationについて

Vantage Foundationは、UN Refugee Agency(UNHCR)とNEOM McLaren Extreme Eチームの支援により、2023年に英国のMcLaren Technology Centreで発足した独立慈善団体です。詳細は、www.vantage.foundationをご覧ください

(日本語リリース:クライアント提供)

PR Newswire Asia Ltd.

【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202405221097-O3-94JkG8nc】

https://www.afpbb.com/articles/-/3520514?cx_part=top_category&cx_position=1


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「ジャー」とは?ドレッドにする意味は?レゲエに詳しくなくても読めば映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』を楽しめる9つのポイント

2024-05-23 | 先住民族関連

ダイヤモンド 2024.5.22 6:15

長谷川幸光:ダイヤモンド社編集委員/クリエイティブディレクター

経営・戦略

ネクストリーダーの道標

ジャマイカのナイン・マイルにあるボブ・マーリーの生誕地と霊廟 Photo:TalbotImages/gettyimages

映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』の日本公開が始まり、話題となっている。ジャマイカとの歴史的・文化的なつながりがほとんどないにもかかわらず、日本は「アジアにおけるレゲエ大国」といわれるほどレゲエの人気が高い国でもある。一方で本作は、日本に住む我々には理解が難しい描写も多い。そのため、ジャマイカの歴史と政治、ラスタファリズムの思想、ボブ・マーリーの人間関係など、映画鑑賞前に押さえておきたいポイントを9つに絞って解説する。ネタバレはないが、前知識なしで鑑賞したい人は、鑑賞後に読んでみてほしい。(ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光)

ポイント(1)ジャマイカの歴史
スペイン支配下で先住民が絶滅

 南米大陸の北に位置するカリブ海。ここに浮かぶ島々の中にジャマイカがある。北はキューバが、東はハイチやドミニカ共和国がある。

 ジャマイカは豊かな自然に囲まれた小さな島国で、もともと、南米からカヌーで渡ってきたとされるインディアン、タイノ族やカリブ族が住んでいた。「ジャマイカ」という国名は、先住民の言葉で「泉の地」を意味する「ザイマカ」が由来するという。これがスペイン、イギリスと統治国が変わるうちに、「ハマイカ」→「ジャメイカ」と呼び名が変遷し、現在の国名である「ジャマイカ」となった。

 ジャマイカには、現在のジャマイカ人の前に先住民が住んでいた。1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸(正確にはカリブ諸島)を「発見」、そして1494年の第2回航海においてジャマイカ島へ上陸。1509年、ジャマイカをスペイン領とし、この地にサトウキビ畑をつくって、先住民を奴隷として働かせた。

 その過酷さや、スポーツとうたった拷問など、非人道的な仕打ちに耐えきれずに自殺する先住民も続出した。酷使や虐殺、自殺、持ち込まれた疫病などによって先住民が絶滅すると、スペインは西アフリカから黒人奴隷を「輸入」し、新たな労働力を確保する。現在のジャマイカの黒人の祖先たちだ。

 1655年、イギリスがジャマイカへ侵攻すると、スペインは少し戦った後、あっさりとジャマイカを手放してしまった。1670年、マドリード条約により、ジャマイカは「正式」にイギリス領となる。

 イギリスは、港町のポート・ロイヤルをジャマイカの首都とした。ポート・ロイヤルはヨーロッパの大貿易港と並ぶほど栄えるが、一方で、海賊たちの本拠でもあった(ちなみに、ディズニー映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズの第1作『呪われた海賊たち』の物語は、ポート・ロイヤルから始まっている)。

 1692年、ジャマイカ大地震が発生し、街の大半が海に沈んでしまう。そのため、その北に位置するキングストンを首都とした。現在のジャマイカの首都だ。

ポイント(2)ジャマイカの政治
殺人も多発する二大政党の争い

 イギリス統治下の時代、ジャマイカの黒人たちは、何度も反乱を起こし、中には1865年の「ジャマイカ事件」のような、数百人規模の大規模な暴動もあった。

 イギリス領西インド諸島での奴隷解放運動の高まりによって、1834年に奴隷制廃止令が発令し、それに基づいて1838年に奴隷制度が廃止。ジャマイカの奴隷は解放され、選挙権も得たはずだったが、多くの黒人は変わらず極貧の生活を強いられた。また、選挙の投票も高額で、投票できるのはほとんどが白人であり、事実上、黒人には参政権のない状態だった。そのため、黒人の身分はほぼ奴隷時代のままだった。

 1938年、民主社会主義を掲げる人民国家党(PNP/People's National Party)が設立。イギリス領カリブ圏諸国の最古の政党といわれている。また、1943年には、労働条件の改善などの社会改革を求めるジャマイカ労働党(JLP/Jamaica Labour Party)が設立される。現在、この2つがジャマイカの二大政党であり、期間は違えど交互に政権が入れ替わる状態が続いている。映画ではこのあたりもポイントとなってくる。

 1959年に、ジャマイカはイギリスから自治権を獲得し、1962年、ついに独立を果たす。ただ、主権国家とはいえ、イギリス連邦の加盟国のため、独自の元首を持たず、今もイギリス国王を国家元首とする。現在はイギリス国王のチャールズ3世がジャマイカ国王を兼位しているものの、実権をほとんど持たず、象徴的な存在であるため、実質的にジャマイカのトップは、ジャマイカ総督ということとなる。

 2011年10月、JLPよりジャマイカ政治史上最年少(当時39歳)のアンドリュー・ホルネスが首相に就任。しかし、その直後の12月の総選挙ではPNPが勝利し、シンプソン=ミラーが首相に就任する。2016年2月の総選挙で野党JLPが僅差で勝利し、ホルネス政権が返り咲く。2020年9月の総選挙でも与党JLPが勝利し、ホルネス首相が再任。現在に至る。

 なお、この二大政党の支持者たちの対立は苛烈で、選挙期間中に観光客などがジャマイカ二大政党のイメージカラー(JLPは緑、PNPはオレンジ)の衣服を着用していると、襲撃などのトラブルに遭う可能性があり、日本の外務省もWebサイト等で注意喚起している。

ポイント(3)ボブ・マーリーの誕生
白人と黒人の間に生まれたことを悩む

 本映画の主人公であるボブ・マーリーは、1945年、丘陵部のセント・アン教区内のナイン・マイルズという村で生まれた。

 父親の名はノーバル・マーリー。ジャマイカに住む白人で、イギリス海軍の西インド諸島連隊で将校を務めていた。また、建設会社のオーナーでもあった。

 ノーバル・マーリーは、自身の担当地域に住むセデルラと出会い、間もなくセデルラは子を身ごもった。のちのボブ・マーリーだ。ノーバル・マーリーの家は代々、黒人嫌いで有名だったらしく、また、2人は40歳以上も年が離れていたことから、セデルラの母親は2人の結婚をひどく反対した。しかし、ノーバル・マーリーが馬に乗って現れ、セデルラの母親に直接、2人の結婚を申し込むと、これを認めたという。しかし黒人との結婚に腹を立てた家族と関係がこじれ、挙式後、ノーバル・マーリーは、首都のキングストンへ働きに出て行った。

 1945年に誕生したノーバルとセデルラの子は、父親の兄弟の名前をもらって「ロバート」と名づけられた。セデルラはミドルネームに「ネスタ」をつけた。ネスタには「使者」という意味があるらしい。ロバートは、英語圏では「ボブ」の愛称で呼ばれることが多い。そのため、ロバート・ネスト・マーリーは、「ボブ・マーリー」と呼ばれるようになる。

 ボブ・マーリーという名前だけでも、白人とジャマイカ黒人という人種や文化の違いが込められているように、ボブは若い頃、自身のアイディンティティに悩み、苦しんだ。家族を放ったらかしにしてほとんど現れない父親を恨み、生い立ちに口を閉ざし、「自分や一族はアフリカから来たのだ」と語るようになった。その謎に満ちた一面から、神秘的な雰囲気をまとうようになっていく。

 1955年、父が70歳で亡くなると、両家の縁は切れ、セデルラとボブは、キングストン郊外のスラム、トレンチタウンの公営地で住み始める。トレンチタウンは多くのレゲエミュージシャンを輩出し、ボブもこの街での生活が強く印象に残ったようで、ボブの歌の中でも頻出する。現在も治安が劣悪なエリアであり、観光客が近づくのは大変危険とされる。

ポイント(4)レゲエの誕生
カリブの音楽の中でもっとも世界へ普及

 レゲエはジャマイカのソウル・ミュージックだ。バーを宣伝するために音楽を大音量で流したことから、現在のレゲエのスタイルが始まったといわれている。

 もとは、宗主国のヨーロッパの音楽の要素と、黒人音楽といわれる、ゴスペルやジャズ、R&B、ロックといったさまざまな音楽の要素に、熱く燃えるような、アフリカのドラムの響きが加わり、原型が形作られていった。

 そして、アップテンポな「スカ」(1950年代後半にブーム)、スカからテンポを落とした「ロックステディ」(1966年頃からブーム)を経由し、ロックステディからさらにテンポを落とした「レゲエ」が1960年代後半に生まれた。2拍目と4拍目をドラムで強く打つ独特のリズムと、けんか腰で挑戦的な歌詞が特徴だ。

 ジャマイカの二大音楽レーベル、「スタジオ・ワン」のコクソン・トッドと、「トレジャー・アイル」のデューク・リード(つねに銃を2丁携帯し、ギャング集団を護衛につけた武闘派だった)はどちらもバーを経営していて、自分のレーベルの曲を中心に、ライバルに負けないように大音量で流した。

 サウンドシステムにもとてもこだわった。サウンドシステムというのは、巨大なスピーカーを備えた音響機器そのものをさすこともあれば、DJやミュージシャンたちの集団をさすこともある。ときには機材を車に積み込んで島内を巡り、屋外ディスコのようにガンガン音楽を流してレコードを売って回った。なお、レゲエのDJは「セレクター」や「dee jay」とも呼ばれ、マイクで話しながら曲を流すことも多い。

 レゲエは、貧困や差別、政治的抑圧を訴えかけたり、ラスタ(後述)の思想にも影響を受けたりと、社会的なメッセージが込められるようになっていった。

 初めは、ジャマイカに住む白人たちはレゲエに対し、「無教養な黒人の音楽」「単調な西インド諸島の音楽」とさげすんだ。白人だけでなく、否定的な態度を示す黒人も多かったが、次第にジャマイカの若者を中心に広まり、やがてボブたちによって、世界中で受け入れられるようになっていった。

 なお、カリブ全体でもっとも人気の高い音楽は「ソカ」であり、レゲエというわけではない。しかし、レゲエはカリブが生んだ音楽の中で、もっとも世界に広まった音楽といえる。宗主国だったイギリスからヨーロッパやアメリカに広がり、アフリカでも音楽好きのみならず、ラスタに共感して聞く人も多い。不思議なことに、ジャマイカとの歴史的・文化的なつながりがほとんどないにもかかわらず、アジアにおけるレゲエ大国といわれるほど、日本でも人気が高い。

 レゲエをベースとしたインストゥルメンタルの「ダブ」や、ノリがよく情熱的・官能的な歌詞が特徴の「ダンスホール・レゲエ」といったジャンルも生まれている。

ポイント(5)ボブ・マーリーの交友関係
平和のための音楽と政治利用される音楽

 10代のボブは、幼なじみのバニー・ウェイラーと、トレンチタウンに住み始めてから出会ったピーター・トッシュと出会い、音楽活動を本格化。6人組の「ザ・ティーンエイジャーズ」を結成する。ボブは母親が歌っていたゴスペルに影響を受けており、独特な歌詞とハーモニーを売りにしたボーカルグループとして注目される。その後、「ザ・ウェイリング・ウェイラーズ」、そして「ザ・ウェイラーズ」へと名称を変更した。

 1963年、スタジオ・ワンから発表した「Simmer Down」が大ヒット。この頃、同じくスタジオ・ワンに在籍していたグループのメンバー、リタ・アンダーソンと出会い、結婚する。

 曲がヒットしてもミュージシャン側にはほとんどお金が入ってこず、アメリカの自動車工場のライン工やレストランの皿洗いなどをして生活費を工面していた。ジャマイカに帰国後、稼いだ資金で自らレーベルを開始するが、すぐに経営難となって消滅した。

 その間も次々と曲を発表するが、この頃、バンドの音楽に大きな影響を与えることとなる人物たちと出会う。スタジオ・ワンのエンジニアであり、ミュージシャンのリー・“スクラッチ”・ペリーと、そのスタジオバンドのザ・アップセッターズだ。ザ・アップセッターズのメンバー2人がザ・ウェイラーズに加わり、彼らの音楽の完成度が飛躍的に高まった。

 音楽プロデューサーと反りが合わなかったとか、ボブを前面に押し出す方針に気が乗らなかったとか、諸説あるようだが、1974年、ピーター・トッシュが脱退。続いてバニー・ウェイラーも脱退してしまう。ボブはメイン・ボーカルとなり、ザ・ウェイラーズはメンバーを交代しながらバックバンドを務め、「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ」という編成ができあがる。

 ボブは、スティービー・ワンダーの慈善コンサートに参加し、これに感化されて、1976年に「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を開催することにした。二大政党の対立が激化しており、政治を巡っての銃殺事件も日常茶飯事に起きていた。子どもたちでさえ標的にされ、それを見かねた多くの医師が国を離れた。そのため、音楽でジャマイカ国内に笑顔をもたらそうと企画したチャリティコンサートだった。

 しかし開催日が近づくにつれて脅迫が相次ぐ。政府が協賛し、しかも与党のPNPがコンサート開催の直後に総選挙を行うことを発表。彼らが制作したジャマイカ賛歌「スマイル・ジャマイカ」が繰り返しラジオで流れた。当然、PNPに敵対するJLPの支持者は、コンサートは与党の宣伝のために開催されると思い込んだ。ボブは戸惑い、開催に否定的なメンバーもいた。

 そして開催の2日前、事件が起こった。武装した6人がリハーサル中のボブたちを襲撃し、マネージャーのドン・テイラーに5発撃ち込まれる。ボブも左胸に撃ち込まれた。建物の外で車に乗っていたリタも撃たれ、頭部に命中した。しかし、ガラスを通ったこととドレッドヘアが、弾の勢いを弱めた。幸い3人とも命に別条はなく、ボブは2日後のコンサートにも出演。傷のためギターを弾くことはできなかったが、約90分のライブを完遂した。

 その後、このままジャマイカにいては命を落としかねないと考えたボブは、イギリスへ活動の拠点を移し、しばらく制作活動に注力する。当時流行していたパンクシーンも直接、体験した。その頃ジャマイカでは、政党間の抗争の激化、市民戦争、軍部によるクーデターなどが現実味を帯び始め、内乱に陥る寸前だった。そこに、ジャマイカから2人の人物が訪ねてくる。敵対しているはずの、PNPのガンマンであるバッキー・マーシャルと、JLPの幹部のクローディー・マソップだ。

 なお、オリジナルメンバーのピーター・トッシュは、ザ・ウェイラーズ脱退後も、レゲエの重要人物として活躍し続けたが、1987年に強盗に射殺されてしまう。相手は幼なじみだった。バニー・ウェラーは、米グラミー賞の最優秀レゲエアルバム賞を3度受賞するなど多くの功績を残し、2021年、73歳で病没した。ダブのパイオニアでもある、リー・ペリーは、近年までミュージシャン、プロデューサーとして活躍し、世界中のさまざまなミュージシャンに影響を与えた。日本にも熱狂的なファンが多く、何度も来日している。2021年、85歳で死去した。

ポイント(6)ボブ・マーリーと子どもたち
ボブ・マーリー家はレゲエ界のロイヤルファミリー

 ボブが21歳、リタが19歳のときにリタと結婚。結婚時、リタは娘を育てており、ボブは養子として迎え入れた。ボブとリアの間には4人の子ができたほか、ボブはリタ以外の複数の女性とも子をもうけている。また、リタもボブ以外の男性と子をもうけ、ボブはその子も養子に迎えている。

 ボブには、養子含め公式には11~12人、それ以外にも7人の子どもがいるとされる。その中には歌手として活躍する子も多く、「レゲエ界のロイヤルファミリー」と呼ばれている。ボブとリタは(互いの男女関係について何度もトラブルはあったようだが)離婚せずに、生涯、夫婦であり続け、すべての子を大切に育てたという。

ポイント(7)ラスタファリ運動
ボブ・マーリーの曲が世界中で愛されている理由

 レゲエミュージックが好きな人は、「ラスタ」「ラスタファーライ」や「ジャー」といったことばが曲の中にちりばめられていることを知っているだろう。これらの言葉は「ラスタファリ」という宗教的な概念に基づく。

 この概念が非常にややこしいのである。さまざまな説が入り乱れている上に、日本に住んでいる私たちの感覚では理解が難しい。本作の中でもこの概念に基づく描写が多く登場するので、「?」となるシーンもあるだろう。

 ラスタファリの発祥は、1924年にカリブ海のアンギラ出身者によって書かれた『ホーリー・ピビィ』という本が「黒人の聖書」として広まり、ラスタファリの誕生へとつながったという説や、黒人指導者のマーカス・ガーヴェイ(1887年~1940年)が提唱したという説などがあり、よくわかっていない。ただ、ボブの妻のリタは自伝の中で、ラスタファリは20世紀初頭にガーヴェイが始めたと語っているので、ボブたちがガーヴェイから多大な影響を受けたことは間違いない。

 ガーヴェイはボブと同じセント・アン出身で、ニューヨークへ渡り、「世界黒人地位改善協会」を設立。黒人としての誇りを持とう、黒人たちはアフリカへ帰還しよう、と主張した。そして「アフリカの王が、世界の植民地を解放する」「救世主が現れてアフリカ大陸を統一し、奴隷として世界中に離散した黒人たちを約束の地であるアフリカへと導いてくれる」と予言する。この救世主を「ヤハウェ」と呼んだ。

 ヤハウェとは、旧約聖書や新約聖書における、唯一絶対の創造神のことであり、短縮して「ヤー(ジャー)」と呼ぶ。「Hallelujah(ハレルヤ)」は、ヘブライ語で「ヤーをたたえよ」という意味。レゲエの曲に多く登場する「ジャー」という言葉は、黒人を導く神を誉め讃えているのだ。

 アフリカのエチオピアは、1894年~1896年、植民地化を狙うイタリアと戦い、これを撃退した(第1次エチオピア戦争)。1935年~1936年、復讐心に燃えるイタリアは再度、エチオピアに侵攻し、エチオピアをイタリア領とした(第2次エチオピア戦争)。しかし、第2次世界大戦勃発後の1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐すると、再びエチオピアは独立、軍の近代化を進める。

 こうした背景(国として長い歴史を有すること、欧州相手に勝利したこと、アフリカ諸国の中でほとんど植民地化されなかったこと、エチオピア皇帝が再び返り咲いたことなど)が影響して、「ガーヴェイの予言は的中した」「エチオピア皇帝こそが、ガーヴェイが予言した王だ」「エチオピア皇帝は我々をアフリカへと導いてくれる救世主だ、神(ジャー)の化身だ」と、多くのジャマイカ人へガーヴェイの思想は波及していった。

 このエチオピア皇帝の名はハイレ・セラシエ1世(1930年4月に即位)といい、本名を「ラス・タファリ」という。そこからラス・タファリを崇拝する人々を「ラスタファリアン」「ラスタ」と呼ぶようになっていく。

 ラスタは、体を一種の聖堂とみなし、旧約聖書の「レビ記」の教えを守り、髪を切ったり、くしを入れたり、ひげを剃ったりすることはしない。頭髪を自然に成長するままとし、伸びた髪はまとめて「ドレッド・ロックス」と呼ばれる髪形にする。

「ドレッド」という言葉は「ひどい」という意味があり、植民地時代のジャマイカで、支配者に対するラスタの抵抗、つまり、「ひどいやつら」への抵抗を体現した髪形といわれているが、「(見るものが恐れるほど勇敢なジャマイカの戦士たちが)勇ましい」「(自然や聖なる存在を)畏れる」といった意味だという意見もある。

 ラスタの中にもさまざまなタイプがいるが、基本的に菜食主義であり、大麻を神聖な植物とする。当初、怪しい異端の宗教として嫌われ、警察も取り締まった。しかしボブの登場で、ラスタの文化は急速に大衆の支持を獲得していった。

 なお、ラスタの人たちは「ラスタファリズム(ラスタファリ教)」と呼ばれることを好まない。自分たちが実践しているのは宗教ではなく、あくまで「ラスタファリ」という、心の状態や生き方そのものなのだと考える。

 聖書を原理主義的に解釈する者の中に、同性愛を否定する者もいるが、ボブの歌にはそのような記述は見当たらない。また、黒人以外を認めないという極端な黒人至上主義者もいるが、白人と黒人との間に生まれたボブは人種の優劣を主張することはしていない。差別されている黒人の地位を向上させ、どの人種もフラットな立場にする、それがボブの願いであり、彼の曲が世界中で現代にいたるまで愛されている理由であろう。

ポイント(8)ボブ・マーリーの最後
死因はがん、国葬が執り行われた

 1977年、ボブはヨーロッパツアー中にサッカーをしていた(ボブはサッカーの熱狂的なファンであり、よくコンサート前にサッカーをして体力をつけていた。技術も相当高く、プロ・サッカー選手になることも真剣に考えていた時期があったという)。その際、足の親指を負傷し、ツアーが終わった後も治るどころか悪化し、膿んでしまう。

 気分がすぐれない日が続き、医者に検査してもらったところ、膿からがん細胞が検出される。医者は足の一部をすぐに切断することを勧めたが、敬虔なラスタであったボブは、体に刃物を当てることに強い抵抗を示し、これを拒否した。

 足を切断せずに爪をはがして応急処置を行うことで、一時的に体調はよくなったが、1980年に再び悪化。放射線療法を開始し、治療のためドレッドも抜け落ちたが、すでにがんは全身に転移していた。1981年5月11日、家族に見守られながら息を引き取った。36歳だった。

 遺体は5月19日にジャマイカへ送られ、21日にキングストンで国葬が行われた。リタは抜け落ちたドレッドをカツラにして、それをボブの頭にかぶせたという。葬儀の前には、ザ・ウェイラーズのメンバーによる演奏が行われた。ひつぎはその後、ボブの故郷のナイン・マイルズに運ばれ、ジャマイカの全人口の約半数もの人々が村を訪れ、弔慰を示した。

ポイント(9)押さえておきたい曲

「One Love」
1965年に発表。「手を取り合って、楽しくやろう」というラスタの基本哲学を反映した曲。初めて発表されたのは1965年、ボブが所属していたコーラスグループのアルバムにおいてだった。その後、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの1977年のアルバム『Exodus』に収録され、1984年にシングルとして発売された。カーティス・メイフィールドが在籍したインプレッションズの「People Get Ready」のメロディを一部引用しているため、1977年以降、「One Love/People Get Ready」と併記されている。 

「No Woman, No Cry」
トレンチ・タウンでの貧しい生活の体験をもとにした名曲。ザ・ウェイラーズの1974年のアルバム『Natty Dread』に収録。その後、1975年7月にイギリス・ロンドンのライシアム・シアターで行われたコンサートのライブ音源をシングルとして発売したところ、大ヒット。ジャマイカ以外で初めてヒットした曲となった。数多くのミュージシャンにカバーされている。なお、この曲の作詞・作曲は「ヴィンセント・フォード」とクレジットされている。ヴィンセントは、ボブのトレンチタウン時代の友人で、貧しかったために病気の治療を受けられず足を失い、車椅子での生活を送っていたという。ヴィンセントはトレンチタウンで炊き出し所を営み、当時、路上生活をしていたボブも、彼の炊き出しによって飢えずにすんだ。その感謝を込めて、彼に印税が入るようにクレジットしたというエピソードがあるが、真相は定かではない。レゲエというのは、何気ない会話から生まれたり、1曲ができるまでに非常に多くの人が関わったりすることは珍しくないので、権利関係が複雑になることも多い。

「Exodus」
襲撃事件後、イギリスへ渡ってレコーディングした1977年のアルバム『Exodus』に収録された曲。Exodusとは、旧約聖書の「出エジプト記」のことで、モーゼに導かれたイスラエルの民がエジプトから旅立つ記述と、ラスタの人々がアフリカに帰ることを結びつけている。

「Get Up, Stand Up」
1973年のアルバム『Burnin’』に収録された曲。権利のために立ち上がれ、自由のために戦い続けよう、と呼びかける。全員が同じメロディを一斉に歌うチャント(キリスト教の教会の儀式のときに歌われる聖歌)のように、同じメッセージが繰り返される。コンサートの最後に歌われることが多かった。

「Punky Reggae Party」
1970年代、イギリスでパンクのムーブメントが起こる。パンクの代表格、セックス・ピストルズやクラッシュのメンバーは、レゲエへのリスペクトを公言し、ボブたちもまたパンクに刺激を受け、それに応える曲をつくった。クラッシュのアルバム『Complete Control』をプロデュースしたばかりのリー・ペリーと一緒に制作した曲。

「War」
1976年のアルバム『Rastaman Vibration』に収録された曲。人種差別がなくなるまで、基本的人権が平等に保障されるまで、アフリカ大陸に平和が訪れるまで、戦い続ける、という歌詞で、過激に聞こえるが、国際連合でハイレ・セラシエ1世がアフリカ諸国の独立を訴えた演説をもとにしている。

参考文献:

『BOB MARLEY songs of freedom』(ブルース・インターアクションズ、監修:リタ・マーリー監修、写真:エイドリアン・ブート、文・クリス・サレウィッチ、訳:中江昌彦)

『ボブ・マーリー』(偕成社、著者:マーシャ・ブロンソン、訳:五味悦子)

『ボブ・マーリーとともに』(河出書房新社、著者:リタ・マーリー+ヘッティ・ジョーンズ、訳:山川真理、越膳こずえ、島田陽子)

『ボブ・マーリィ キャッチ・ア・ファイア』(音楽之友社、著者:ティモシー・ホワイト、訳:青木誠)

『ボブ・マーリー レゲエの伝説』(晶文社、著者:スティーヴン・デイヴィス、訳:大橋悦子)

映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』

■監督:レイナルド・マーカス・グリーン

■出演:キングズリー・ベン=アディル、ラシャーナ・リンチ

■脚本:テレンス・ウィンター、フランク・E ・フラワーズ、ザック・ベイリン、レイナルド・マーカス・グリーン

■全米公開:2024年2月14日

■日本公開:2024年5月17日

■原題:Bob Marley: One Love

■配給:東和ピクチャーズ

https://diamond.jp/articles/-/344000


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ビショップス大学生ら白老へ アイヌ民族文化など学ぶ

2024-05-23 | 先住民族関連

苫小牧民報2024/5/22配信

 カナダのビショップス大学に在籍する先住民族の学生や教員ら9人が17~19日、白老町に滞在し、白老アイヌ協会との交流やポロト湖畔の散策、たき火を囲んだ昼食を堪能した。平取町なども訪れ、26日に帰国する予定。  一行は、カナダの先住民ク…

この続き:401文字

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https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/139118/


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音楽と温泉のコラボ満喫 カルルス文化祭「ジャズと民謡」【登別】

2024-05-23 | アイヌ民族関連

2024.05.22室蘭民報

宴会場で民謡を楽しむ参加者たち

 カルルス温泉文化祭「ジャズと民謡」(同実行委員会主催)が19日、登別市カルルス町のカルルス温泉鈴木旅館で開かれた。昼と夜の部で計100人が参加し、多彩な音楽と温泉のコラボレーションを楽しんだ。

 民謡と津軽三味線の「紀伊なつみ&仲野魅斗」、室蘭と東京、福井の音楽家によるジャズバンド「温泉にゃんこカルテット」、阿寒湖アイヌコタンの姉妹ユニット「Kapiw&Apappo」が出演。

 津軽三味線とドラムの即興セッションなどもあり、参加者は手拍子や拍手をしながら、音楽に熱中。カルルス特製弁当や登別産ホップ100%の地ビールなどにも舌鼓を打った。

 実行委員長で市地域おこし協力隊の新村のりこさんは「参加者の皆さんが音楽に引き込まれながら、飲んだり食べたりくつろいでいる光景が見られてうれしかった。心と体を温めてもらえたら」と振り返った。

 鈴木旅館の鈴木寿一代表取締役は「カルルス温泉を知ってもらうためには良い取り組み。とても感謝しています」と話していた。

https://hokkaido-nl.jp/article/34028


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抜海駅100周年祝う 6月23日 記念式と記念碑除幕式

2024-05-23 | アイヌ民族関連

稚内プレス2024 年 5 月 22 日

 今年で開駅100年を迎える抜海駅の記念式典と記念碑除幕式などが、6月23日午前11時から駅近郊や抜海漁港などで行われる。実行委員会の伊東幸事務局長は「和気あいあいと純粋に記念行事を楽しみましょう」と参加を呼び掛けている。
 抜海駅は1924年6月25日開業。日本最北端の木造の駅舎として知られ訪れるファンもいるが、来年3月末で廃止される方向にある。
 式典はクラウドファウンディングで集まった約230万円を資金に駅近くに建設される記念碑前で行われ、駅舎で記念撮影をし、午前11時49分の稚内行きの列車を見送ったあと抜海漁港に移動し生ビールや海産物など楽しみながらトンコリ(アイヌの伝統楽器)演奏など聴く懇親会が催される。
 伊東さんによると、現時点で関係者や鉄道ファンら60人ほどが参加する予定。「100周年にかけて100人でお祝いしたい。天気が良ければ漁港から利尻富士を望むことができます」と話していた。
 参加費は2000円申し込みはstation100@bakkai.comまで。
 名前、人数、住所、連絡先のほか、交通手段も記載すること。締め切り6月17日。

https://wakkanaipress.com/2024/05/22/69898/


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北米大陸最高峰「デナリ」で日本人死亡 滑落か 米アラスカ州

2024-05-23 | 先住民族関連

NHK 2024年5月22日 14時39分

アメリカのアラスカ州にある北アメリカ大陸最高峰の「デナリ」、かつて「マッキンリー」と呼ばれた山で、札幌市の日本人男性が遺体でみつかり、一帯を管理する国立公園局は登山中に滑落したとみています。

アメリカ国立公園局によりますと、アラスカ州にある標高6190メートルの北アメリカ大陸最高峰の山「デナリ」で20日、山岳レンジャーが日本人男性の遺体を収容したということです。
そして亡くなった男性は、札幌市の40代の「T.Hagiwara」さんだとしています。
男性については、今月19日に家族から数日にわたって連絡がとれないという通報があり、捜索の結果、標高およそ5200メートルの地点で発見されたということです。
国立公園局は、単独で登山中、急な斜面で滑落し、衛星通信機器のデータから16日に滑落したとみられるとしています。
「デナリ」はかつて「マッキンリー」と呼ばれていましたが、2015年にアメリカ政府が地元の先住民族が使っていた現在の名前に変更しました。
この山は、世界的な冒険家の植村直己さんが1984年に消息を絶った山としても知られています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240522/k10014457241000.html


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6月2日・日テレ系全国ネット「中京テレビ開局55年 沸騰!地球アツベンチャー」MC林修らが見どころ語る

2024-05-23 | 先住民族関連

中日スポーツ2024年5月22日 

 中京テレビ(名古屋市)は、もはや温暖化ではなく「沸騰化」した地球を取り巻く状況を現地取材した「中京テレビ開局55年 沸騰!地球アツベンチャー 日本の未来を探す旅」を制作、6月2日午後4時から日本テレビ系全国28局ネット放送する(一部ネット局は放送時間が異なる)。

 日本メディア初取材となったブラジル・アマゾンの集落で自給自足の生活を送る先住民たちが意外な手段で危機に立ち向かう。日本国内ではCO2削減やカーボンニュートラルにつながる技術が身近な場所でも生かされはじめ、今までになかった「新しい光景」や「未来への光」を生み始めている。暑い地球の現実を見つめるアドベンチャーを通し、誰かに話したくなる未来の話が満載。

 【温暖化の影響は雪国でも…水に飲み込まれる村】アラスカ・ニュートック村(旅人:緒形敦)一面氷の世界の中にポツンとある村。永久凍土が溶け出しもろくなった土壌の侵食や地盤沈下が深刻化。将来的に村そのものが、水に飲みこまれなくなってしまうと言われる。国の政策で約16キロ南東のネルソン島マータービックへの移転が決定し、もともと300人いた住民も今では100人ほどに減少。今もニュートック村で暮らし、厳しい生活を強いられるユピック族の様子と、未来のための選択に密着した。

 【アマゾンを守るデジタル戦士 存亡の危機に直面した先住民の村】ブラジル・アマゾン(旅人:阿部凜)先住民の集落、アウアナー村を日本メディアとして初取材。日本の面積のおよそ14倍、地球の光合成の2割を担うともいわれる〝地球の肺〟アマゾン。しかし近年、乱開発に伴う放火や乾燥によって引き起こされる自然発火などにより、森林火災が多発している。森で自給自足の生活を送ってきた先住民の生活は存亡の危機に…。その危機から脱するため先住民たちが使っていたのは、驚きの最新技術だった。

 【脱炭素に一番近い島】鹿児島県・屋久島(旅人:アリアナさくら)1993年に「ユネスコ世界自然文化遺産」に日本で初めて登録された屋久島。有名映画の舞台にもなり、森林が約9割を占める自然豊かな島。森林資源を使った脱炭素サイクル、電気自動車、水力発電など「未来が見える生活」とは? このほか、日本国内からは新たなエネルギー水素で動くクルーズ船「HANARIA」や、とんこつスープが燃料の宮崎県「あまてらす鉄道」などを紹介する。

 スタジオ収録を終えたMC・林修、ゲストの伊集院光、山之内すずが番組の感想を語った。

 林修「アラスカ、ブラジル、屋久島と、ロケの規模が想像以上にすごくて。これだけの迫力ある映像、しかも我々が知らなかった、かつ、知るべき映像をしっかり見ることができて、衝撃的でした。特にアラスカは、現実にこのようなことが起きているという部分をリアルに教えてくれた。最終的には自分の生き方を改めて考え直そうという気持ちになる、そんな番組です」

 伊集院光「『永久凍土って、永久じゃないの?』『熱帯雨林で“雨”が少ないってどういうこと?』という部分に、この番組を見た人はみんなびっくりすると思います。〝俺が知っている言葉と違うぞ〟っていう感覚。また今回のアマゾン取材は、いわゆる観光向けでなく、撮影許可を取るのも難しいくらいに普段入れないところに行って、そんな現地の人たちがスマホのアプリを使っていることが、今のリアルだと感じました。〝地球アツベンチャー〟と聞いて、報道かバラエティーかどっちかな? と最初は様子見でしたが、両方だからこそ刺さるものがある。両方の見方で楽しむことが出来る番組です」

 山之内すず「これまで当たり前だと思っていたことが、ここまで当たり前じゃなくなっているんだという。ここまでリアルな現状を知ることはなかなかないと思い、衝撃的なことばかりでした。特に驚いたのは、真っピンクの沼ですね。そして若手の俳優さんの素顔が見えるのも、番組の楽しみ方の1つだなと思います。阿部凜さんが二十歳の誕生日をアマゾンで迎えるのは衝撃でした。また、アリアナさくらさんのInstagramをずっとフォローしていますが、あんなにふわふわした子とは知らなかったので、素顔を知れてすごくうれしかったです」

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/6月2日-日テレ系全国ネット-中京テレビ開局55年-沸騰-地球アツベンチャー-mc林修らが見どころ語る/ar-BB1mOVY8?ocid=BingNewsSearch


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緑の羽根、赤い羽根…政治家の左襟でなびく「羽根」の意味、「募金するならクラファン」の時代に羽根募金どうなる?

2024-05-23 | 先住民族関連

JBress5/22(水)

 ある時期になると、色鮮やかな羽根を襟に着けている人がいます。とくに政治家や役所の職員に多いかもしれません。少し前は岸田文雄首相ら政府の要人が「緑の羽根」を上着の左襟に着けている姿がニュースで映し出されていました。緑の羽根は国土緑化期間に合わせて「緑の募金」に寄付をした証ですが、実は羽根募金にはさまざまな種類があります。それぞれの羽根はどんな意味を持っているのでしょうか。過去の歴史も振り返りながら、専門記者グループのフロントラインプレスがやさしく解説します。

【図】緑、赤、黒、水色…ぞれぞれなんの「羽根募金」?

 (フロントラインプレス)

■ 緑、赤、青、黒…それぞれ何の募金? 

 まずは、下の図を見ていただきたいと思います。緑、赤、青、黒、水色、黄色、白、オレンジ。たくさんの羽根の種類があり、それぞれの募金の意味と実施団体をまとめたものです。あなたが知っているものは、いくつあるでしょうか。

 新緑まぶしい今の時期に目立つのは「緑の羽根」です。

 緑の羽根募金は森林の育成など国土の緑化を推進するための募金で、毎年春(1月15日~5月31日)と秋(9月1日~10月31日)に全国一斉に募金活動が行われます。今年は4月中旬に緑の羽根着用キャンペーンが行われ、岸田首相ら閣僚がしばらく緑の羽根を着用していました。左襟に緑の羽根を付けた閣僚らの様子を、ニュース番組などで観た人もいるかもしれません。

 緑の募金が始まったのは、敗戦から間もない1950年のことです。米軍の空襲により、日本の都市部は壊滅的な被害を受け、復興のためには大量の木材が必要とされていました。また、それまでの乱伐もたたり、全国には千葉県のおよそ3倍、150万ヘクタールもの荒廃地が広がっていたと言います。

 敗戦の混乱で国家財政も乏しかった時代です。「緑を復活させるためには国民一人ひとりの力が必要」という機運が高まり、政府主導で国土緑化推進員会が結成されました。これが現在の公益社団法人・国土緑化推進機構の前身です。

 それから75年。天皇皇后両陛下が出席する年1回の「全国植樹祭」は春の恒例行事となり、募金活動は全国で行われるようになりました。

 国土緑化推進機構の資料によると、近年は毎年20億円前後の寄付が個人や企業から集まっています。これを元にした国内事業の実績を見ると、直近の2022年には苗の植え付け・配布が201万本、森林の整備面積が1600ヘクタール余り。森林育成に携わるNPO団体などへの交付は8612件だったと報告されています。

■ 最古の「赤い羽根」、戦災孤児などへの支援が原点

 緑の羽根と同様に古い歴史を持つのが「赤い羽根」共同募金です。毎年10月~12月が全国一斉の募金期間。かつてほどではないものの、秋から冬になると、上着の襟に赤い羽根を付けた人が大勢見られるようになります。

 赤い羽根は緑の羽根よりも3年早い1947年に始まりました。当時の目的は、戦争で親を失った戦災孤児、東南アジアや中国など日本本土以外からの引き揚げ者らに対する支援に充てるためでした。戦争の被害は本来、国家予算を充てるべきですが、やはり敗戦後の厳しい予算事情がそれを許さなかったようです。初年度の募金総額は約6億円で、現在の貨幣価値に換算すると、1200億~1500億円だったと言われます。

 1951年になると、赤い羽根共同募金は社会福祉法(当時は社会福祉事業法)に規定されました。各都道府県に設立された共同募金会は、募金活動および寄付金の分配を通じた福祉事業を担います。

 「中央共同募金会」は各地の募金会の連絡調整や企画・広報を行う団体として位置づけられました。戦争の傷跡が癒えてくると、赤い羽根共同募金の使途も次第に多角化。2022年の使途は生活困窮者支援、災害時支援、いじめ防止、ヤングケアラー支援、子ども食堂など暮らしに関するあらゆる分野に広がっています。

 ただ、赤い羽根共同募金の募金総額は近年、減り続けています。ピークだった1995年度の約266億円。これに対し、2022年度は約168億円に留まり、100億円近くも減らしました。中央共同募金会は「過去76年間の募金実績は総額で1兆円を超す」としていますが、減少傾向に歯止めは掛かっていません。

■ そもそも、なぜ「羽根」なのか? 

 羽根募金には、このほか水難遺児を支援するための「水色の羽根」(公益社団法人・漁船海難遺児育英会)、児童養護施設の子どもたちを支援する「オレンジの羽根」(一般財団法人・日本児童養護施設財団)などがあります。

 役割を終えて、姿を消したものもあります。1959年9月に始まった「黒い羽根」募金で、炭鉱事故で死傷した家族を支援したり、石油へのエネルギー転換の中で失業した炭鉱労働者を支えたりする目的でした。発祥は筑豊炭田を抱えた福岡県。当時の県知事が本部長となり、1960年3月までの運動終了までに全国から募金約3800万円が寄せられたほか、うどん、粉ミルクなどの支援物資も届けられました。

 「黒い羽根」の「黒」は、石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれていたことにちなんだものです。募金の期間がちょうど「赤い羽根」共同募金と重なっていたことから、赤い羽根と区別し、炭鉱関係者の救済という使途を明確にする狙いで「黒い羽根」を選んだとされています。

 ところで、募金をした証に色の付いた羽根を渡すという習慣はなぜ生まれたのでしょうか。

 赤い羽根募金の中央共同募金会によると、共同募金は1913年に米国で始まった「Community Chest(地域の貯金箱)」が発祥。その米国ではかつて、先住民族がさまざまな色の羽根を頭などに着ける習慣を持っていました。赤い羽根は「勇者」や「善行」の証であり、そこから募金の証として「赤い羽根」を使うことになったと言われています。ただ、現在は世界43カ国に広がった共同募金でも赤い羽根を使うのは日本だけだそうです。

■ クラファン時代の存在意義は? 

 敗戦の混乱期から始まった羽根募金は、数々の問題点も指摘されてきました。ここに紹介した羽根募金についても、過去、募金を横領して職員が刑事罰を受けた例はいくつも存在します。また、実施団体の経理が不透明ではないかとの疑問や、団体の事務経費が高すぎて寄付としての効率が悪いとの指摘も繰り返されています。

 とくに学校や保護者会、あるいは町内会などを通じて回ってくる「募金のお願い」は長年、大きな議論を呼んできました。本来、寄付は自発的なものであるはずなのに、町内会のお知らせでは「1世帯500円」のように金額が事前に指定されているケースが珍しくない、事実上の強制ではないか、といった内容です。新聞の「読者の声」欄などで、こういった疑問に関する意見が飛び交ったこともありました。

 一方、近年では寄付の舞台は、地域・学校などからネットを使ったクラウドファンディングに移ってきました。クラファンは募金を集める段階で使途が具体的に示されており、集めてから具体的な交付先が決まる「赤い羽根」のようなスタイルではありません。

 単にスマホが浸透したというだけでなく、自分の寄付が何に使われるのか詳細にわかる点もクラファンの優位性でしょう。さまざまな色の羽根募金の将来は、こうした使途の明確化と深く関係しているのかもしれません。

 フロントラインプレス

「誰も知らない世界を 誰もが知る世界に」を掲げる取材記者グループ(代表=高田昌幸・東京都市大学メディア情報学部教授)。2019年に合同会社を設立し、正式に発足。調査報道や手触り感のあるルポを軸に、新しいかたちでニュースを世に送り出す。取材記者や写真家、研究者ら約30人が参加。調査報道については主に「スローニュース」で、ルポや深掘り記事は主に「Yahoo! ニュース オリジナル特集」で発表。その他、東洋経済オンラインなど国内主要メディアでも記事を発表している。

フロントラインプレス

https://news.yahoo.co.jp/articles/c6172efe6001c795ea60b79b0325e56dfc74647f


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牡丹社事件の古戦場で史跡碑除幕 周屏東県長「平和の信念世界に伝える」/台湾

2024-05-23 | 先住民族関連

中央フォーカス台湾5/22(水) 17:42配信

石門古戦場の史跡碑の除幕式に臨む原住民族委員会の曽智勇主任委員(左から8人目)、屏東県の周春米県長(中央)ら(同委提供)

(屏東中央社)南部・屏東県牡丹郷で22日、牡丹社事件(台湾出兵)で大規模な戦闘が起きた県定史跡、石門古戦場の史跡碑の除幕式が行われた。出席した周春米(しゅうしゅんまい)県長は、屏東の恒春半島を起点に世界に向けて平和の信念を伝えると語った。

牡丹社事件は1871年に台湾南東部に漂着した宮古島民54人が台湾原住民(先住民)族パイワン族に殺害されたのを受け、74年に日本軍が南部に侵攻し、恒春半島一帯で約半年にわたり占領体制を敷いた一連の出来事。

周県長は、事件は言語や文化の違いによる誤解によって起きたとの見方を示し、これまでの150年間には当事者やその子孫らが平和のために積極的な交流や相互理解、相互尊重に努めてきたと振り返った。

また原住民族委員会の曽智勇主任委員(大臣)は、引き続き原住民族の移行期の正義の取り組みを進め、各族の言葉や文化を育み、集落とのつながりを深め、国際的な視野を持たせるなど、相互に尊重する美しい社会の実現に向けて努力すると意気込んだ。

除幕式では同郷クスクス(高士)集落のシャーマンが祈りをささげ、地元の団体が団結や協力、平和、共存のメッセージを伝える劇を演じた。日本の対台湾窓口機関、日本台湾交流協会高雄事務所の奥正史所長や沖縄県宮古島市の大城裕子教育長、同市議会議員らも出席した。

(黄郁菁/編集:齊藤啓介)

https://news.yahoo.co.jp/articles/e07e155c03eb6538bff5756eae727de293782a70


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