武将ジャパン2024/05/05
漫画・アニメの大ヒットに続き、実写版映画からドラマへと人気が拡大し続けている『ゴールデンカムイ』。
同作品で中心となっているのがアイヌです。
『ゴールデンカムイ』には、現代人の我々がほとんど知ることのないアイヌの生活様式やアイヌ語、料理がたくさん出てきます。
北海道の独特な地名や単語がアイヌ語由来だったことにあらためて唸ったり、野草が食べられると驚いたり。
同じ日本に住んでいながら、その生活についてほとんど知る機会がなかったということにも、私は驚きました。
美味しいお料理や、生活の知恵は、作中のアシㇼパさんに教えてもらうこととしまして……。
本稿ではアイヌの歴史を学ぶ入口として、案内させていただければ幸いです。
アイヌの歴史 どこを起点とするか?
アイヌの歴史は、どこが始まりか?
これが結構迷いました。
石器時代から始めるというのもありなのですが、和人として書く以上、和人と接触が始まったところを起点とします。
したがって、中身は「アイヌと和人の交流史」になります。
ご了承ください。
文化的には、
・石器から鉄器に変わる
・土器が鍋に変わる
・竪穴式住居からチセに変わる
あたりから始めます。
居住地域は、
・北海道
・サハリン南部
・千島列島
となります。
北海道博物館内に復元されたアイヌの家屋チセ/photo by タクナワン wikipediaより引用
東アジア交易圏でのアイヌ
文字を記録しないアイヌの歴史をたどる場合、他国との交易や対立から見て行くことになります。
13世紀から14世紀初頭、中国の元王朝は周辺諸国へ出兵しました。
その中には、日本列島を襲った「元寇」も含まれているわけです。サハリンアイヌも元王朝を迎え撃ち、アムール川下流域まで侵攻しました。
元(モンゴル)の後、明王朝とは朝貢関係にありました。
明代というのは東アジアで交易が盛んになった時期です。
アイヌの居住地からも、当時、尊ばれていた朝鮮半島で作られた白磁等が出土します。アイヌは、明と津軽安藤氏と交易をしており、この交易圏に含まれていたのです。
実際、津軽安藤氏は、室町幕府にラッコや昆布を献上しています。
ラッコとは、なかなか驚きですよね。
長禄元年(1457年)、和人がアイヌの少年と口論になり、殺害してしまう事件が起こります。
これを契機に、アイヌが武力放棄(コシャマインの戦い)。
当時、北海道南部に12館あった和人の拠点の内、10カ所を陥落させました。
このとき、花沢館主・蠣崎季繁の客将であった武田信広が活躍し、アイヌを撃破します。信広は蠣崎氏の養子となり、蠣崎信広と名を変えるのでした。
信広から四代くだって蠣崎慶広の時代。
豊臣秀吉に拝謁し、本領安堵されると、徳川時代になって松前氏と名乗りを変更します。
松前慶広になったワケです。
アイヌとの交易を中心とした松前藩は、こうして生まれました。
米の生産を中心とした他藩とは違い、松前はアイヌとの交易が収入源という特殊な藩です。
こうした制度は「場所請負制」と呼ばれ、アイヌの人々を苦しめることになる制度でした。
砂金ゴールド・ラッシュとシャクシャインの戦い
徳川幕府の成立初期。
アイヌと和人の貿易は、アイヌ側が本州東北部を訪れる「城下貿易」というものでした。
交易品はアイヌ側が動物の毛皮、ワシの羽、魚、鳥。
対する和人側は米や木綿を提供します。
このカタチが逆転するのが、17世紀前半、北海道で砂金が取れると判明してからでした。
和人側が北海道へ押し寄せたのです。
狩猟採集で生きてきたアイヌの人々と、ゴールド・ラッシュに浮かれる和人たち。
両者の間に接触が増え、それに比例してトラブルも増加してゆきます。
和人はアイヌに不利な交易を行い、横暴な振る舞いをし、生活の基盤を脅かすようになったのです。
生活の基盤を乱されたアイヌたちは、ついに我慢の限界に達します。
1669年(寛文9年)。
一人の勇士・シャクシャインが立ち上がりました。
シャクシャインは、和人の船を焼き、松前藩を滅ぼし、城下貿易を復活させるのだ、とアイヌに呼びかけます。
蜂起に手を焼いた松前藩は、幕府に援軍を依頼。
シャクシャインはじめ首長を和睦すると呼び寄せ、謀殺してしまうのです。
ただ、この蜂起に意味がなかったわけではありません。
松前藩側は、アイヌの生活圏に踏み込まないことをルールとして決めました。
以来、和人が砂金や鷹狩りのためアイヌの生活圏に傍若無人に入り込むようなことは、なくなっていったのです。
また、日本海側のアイヌは、松前藩と交渉して城下貿易の復活にこぎつけました。
戦後処理により、シャクシャインの要求はある程度かなったことにはなります。
クナシリ・メナシの戦い
18世紀になると、ロシアの南下が始まります。
ロシアの支配下に置かれたアイヌは、厳しい重税が課されるようになり、暮らしは一層苦しくなりました。
北海道東部の生活を苦しめたのは、飛騨屋という商人でした。
松前藩は飛騨屋に莫大な借金をするものの、返す気はありません。
代わりに北海道北部のアイヌとの交易権を与えることにしたのです。
松前藩の借金を取り戻すべく、飛騨屋によるクナシリ・メナシのアイヌ搾取が始まりました。
漁場で働かせ、薄給で酷使。アイヌ女性に暴行したり妾にしたり、ときには惨殺することすらありました。
この搾取に怒り、1789年(寛政元年)、クナシリ・メナシの若いアイヌが蜂起。
飛騨屋関係者を殺害する事件が起こりました。
若者たちはなだめられ、この蜂起は終息します。
飛騨屋は態度が悪いとして、松前藩から交易権を没収されました。
元を辿れば、悪いのは松前藩なのですが、こちらはお咎めなしでした。
また、このころとなると幕府は蝦夷地警護の必要性を考えるようになりました。
蝦夷地に人を住まわせ、ロシアに対抗する必要性を感じるようになったのです。
和人による蝦夷地探険が盛んになるのも、このころからです(以下はその一人・最上徳内のまとめ記事となります)。
未開の時代に8度も蝦夷地(北海道)を探検した最上徳内って何者?
続きを見る
航海技術が発達し、世界が狭くなるような状況の中。
アイヌにも、その影響は厳しいカタチで及ぶようになるのです。
日本とロシアの狭間で
1853年(嘉永6年)の黒船来航以来、幕府は開国を迫られるようになりました。
アメリカに後れを取るなと、他の国も日本に来航します。
もちろんロシアもこの中に含まれています。
そして、それまでハッキリとは意識されていなかったことが、幕府の中で既成事実とされるようにされます。
アイヌが暮らす土地=アイヌモシリ(リは小文字)は、幕府の支配下にあるということです。
それはアイヌの人々にとって、まったく知らぬことでした。
幕藩体制が終わり明治8年(1875年)、明治新政府はロシアと「樺太千島交換条約」を結びます。
アイヌの人々が知らぬうちに、彼らの住むアイヌモシリが近代国家の枠に入れられていったのです。
サハリンに暮らすアイヌたちは、長いこと和人と結びつきが深い暮らしをしていたのに、突如、ロシア人とされてしまいました。
拒む者たちは、北海道へ移住させられました。
「せめて、故郷のサハリンが見える宗谷に暮らしたい」
彼らはそう願いますが、開拓使長官の黒田清隆は、石狩・対雁でなければ認めないと突っぱねます。
説得を任された松本十郎判官(現在の副知事)は、親しくしていたアイヌの心を裏切る辛さを記して、辞表を叩きつけました。
雁別に移住したサハリンアイヌに、さらなる悲劇が襲いかかります。
疱瘡(天然痘)で、移住した800名余りのうち、350名以上が亡くなったのです。
疱瘡は、日本でも幕末に導入された種痘により、予防が可能となっていました。
しかし、それはあくまで限られた人々のこと。
アイヌの人々は抵抗力がなく、多くの人々が犠牲になりました。
かつてアメリカ大陸の先住民は、移住者の持ち込んだ伝染病で激減しましたが、まったく同じ構造の悲劇が、アイヌの人々にも襲いかかったのです。
日本領となった北千島のアイヌも、多いに戸惑いました。
和人と関わりのなかった彼らが、突如日本国民にされたのです。しかも、彼らは強制的に色丹島に移住させられたのです。
色丹には、北千島にいたラッコや、トド、オットセイといった海獣がほとんどいませんでした。
移住を強制されたアイヌは、獲物が捕れないと、悲痛な嘆きを残したのです。
消えゆく文化
廃藩置県により、アイヌの人々を苦しめていた松前藩の場所請負制は終わりました。
代わって「開拓使」が置かれます。
この「開拓」という言葉も、一方的であります。
和人からすれば未開の地を切り拓くということになりますが、アイヌの人々にしてみれば、彼らの暮らして来た土地は豊かで自然の恵みにあふれ、切り拓くものではありません。
明治4年から10年の期限で置かれた「開拓使」。
移住してきた和人たちは、戊辰戦争で敗れた、会津藩はじめ奥羽列藩同盟の武士たちが中心です。
その中で、アイヌの風習を禁止する法律ができます。
当時の明治政府は、文明開化に躍起。
海外から見られて恥ずかしいと思われそうな風習は、片っ端から廃止するようにしたのです。
町の中から褌一丁で歩くような人々は消え、髷、お歯黒といったものが禁止されるのもこの頃です。
その流れが、アイヌにも及びました。
・農耕の奨励
・家焼きの風習廃止
・女性の口の周りの入れ墨禁止
・男性の耳環禁止
・日本語の推奨
アイヌの人々は、入れ墨をしなければ神が怒る、これでは結婚できないと嘆きました。
いくら和人が善意であると主張しても、そこには深い悲しみと困惑が残されたのです。
農耕奨励と表裏一体であったのが、土地の取り上げ、シカやサケを対象とした狩猟禁止令です。
1875年(明治8年)、シカ狩猟が禁止されました。
この禁止令には抜け穴があります。
600名までならば免許を得て狩猟ができたのです。しかし、どう考えても和人優先とされるに決まっています。
そして、アイヌの人々の智恵である毒矢も禁止されました。
1879年(明治12年)、日高地方でサケ漁が禁止。
1883年(明治16年)、十勝地方でサケ漁が禁止。
サケなんか取らないで農耕でもしろ、ということです。
しかし、それまでずっと生涯サケをとり続け、それで生きてきた人々にとって、あまりに過酷なことではないでしょうか。
漁禁止の影響で、餓死者すら出たとされます。
和人の町が出来てゆく過程で、アイヌが強制的に移住させられる事例も増えてきます。
同化という言葉で、アイヌの人々の文化や生活が失われてゆきました。
「北海道旧土人保護法」という枷
1886年に「北海道土地払下規則」が成立。
名目的には、面積を本州の投資家に格安で売り渡すことで、大々的な事業を可能にするということでした。
ただ、これは開拓者にとっては小作争議の原因となるもので、問題のあるものでして。
急ピッチな開拓は、もはや正攻法だけでは追いつけなくもなりました。
当時、北海道には、多くの監獄がありました。
囚人たちは劣悪な条件で労働に従事させられ、道路を作る土木工事に動員。過酷な労働の中、多くの囚人が命を落としてゆきます。
北海道のインフラ整備には、血が流れているとも言えます。
こうした囚人の中には、自由民権運動に関わった政治犯も、多数含まれていました。
そして1899年(明治32年)には「旧土人保護法」が成立――。
保護という名目ですが、実態はアイヌ文化の破壊であり、アイヌの人々の生き方を否定するような、強引なものでした。
当時の北海道で、和人の土地主は最大で10万坪以上、耕しやすい土地を保有できたのに、アイヌの土地保有は一戸1万5千坪まで。
しかもその土地には、農業には適していないものも含まれていました。
それまで狩猟採集に生きてきた人々に、無理矢理農業に従事させようとした上にこの待遇。
そもそも、与えられた土地と言いますが、アイヌモシリの土地は、アイヌの人々のものであったはずです。
それを与えるというのも、おかしな話です。
同時に、アイヌ専用の学校も作られました。
カリキュラムは和人のものと同様でありながら、一部の教科はありません。
結果として学校は、アイヌ文化を捨てさせることにつながりました。
民族の誇りを求めて
狩猟や文化を捨てさせられ、和人との融合を求められたアイヌの人々。
そんな中、自分たちのアイデンティティを求めた人がいました。
1923年に知里幸恵が『アイヌ神謡集』を出版。
アイヌ文化を伝える文学作品として、高く評価をされました。
惜しくも知里は、刊行の直前に夭折していますが、彼女の名を不朽のものとします。
違星北斗は、アイヌによるアイヌの復興を掲げ、短歌でその思いを表現しました。
彼の生涯も短いものでしたが、その思いは後世に残りました。
1930年(昭和5年)には、北海道アイヌ協会(現社団法人北海道ウタリ協会)が設立。
さらに1931年(昭和6年)になると、全道アイヌ青年大会も開催されます。
サハリンアイヌの日本国籍保持が認められたのもこのころ1933年(昭和8年)でした。
こうした動きを受け、旧土人保護法が改正されます。
農業だけではなく、漁業や家内工業も助成対象となり、アイヌと和人の混合教育が実施されるようになったのです。
しかし、「北海道旧土人保護法」は、戦後になっても残りました。
廃止に至るまでには、アイヌ民族初の国会議員である萱野茂氏の登場まで待たねばなりません。
1997年(平成9年)7月1日に、
◆アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(1997年(平成9年)法律第52号、アイヌ文化振興法)
が、国会にて全会一致で可決されました。
第一条より
「この法律は、アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的とする。」
この施行に伴い、やっと「北海道旧土人保護法」が廃止されたのです。
後記
この記事は、以前から読んでいた『ゴールデンカムイ』がアニメ化され、試し読みでファンが増えたタイミングで掲載しましょう、と私から頼んだ一本です。
自分から提案しておきながら、今回の記事はかなり悩むこととなりました。
『ゴールデンカムイ』を読んで、描かれたアイヌの文化、服飾、料理、狩猟、言語に魅了されました。
同時に気恥ずかしさや気まずさも感じました。
あの作品を読むまで、私はそうしたものを全く知らず、関心すらなかったからです。
遠い国の歴史を知ることにかけては夢中になっていたのに、自国のアイヌ文化をまったく知らなかったことに、いたたまれない気持ちになりました。
本稿は、書きながらいろいろと悩みました。
自分は和人であるということも、勝手に書いてよいのだろうか、と自問自答し続けました。
自分のような無知な人間だからこその見方がある、というような思い上がりは絶対に言うつもりはございません。
無知、無理解なゆえに誤った表現もあるかもしれません。
その場合は、ご指摘くださると幸いです。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/05/05/112419