先住民族関連ニュース

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米先住民の大量死は17世紀の寒冷化に影響した? アマゾンで検証

2021-05-18 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック 2021.05.1
二酸化炭素の急減「オービス・スパイク」と森林再生の関係を調査、最新研究
CO2の激減とは無関係?
 このことから、少なくともアマゾンでは、先住民が大量死し始めて以降の森林再生は、小氷期の原因のひとつとなったCO2濃度の減少にあまり寄与しなかったのではないかとブッシュ氏は考えている。「大気中のCO2濃度を顕著に変化させるためには、アマゾンの広大な地域が一斉に変化しなければなりません。過去のどの時期にもそのような変化は見られず、森林の変化は空間的にも時間的にも分散しています」
 だからといって、現在進行しているアマゾンの森林破壊を心配する必要はないということにはならない。「現在の火災や森林破壊ははるかに大規模で、アマゾンがCO2の吸収源ではなく供給源となる転換点に到達する恐れは、残念ながら極めて現実的だと思います」とブッシュ氏は憂慮する。(参考記事:「アマゾン盆地、実は温暖化を助長している可能性、研究」)

ギャラリー:アマゾン孤立部族の暮らし 写真33点(写真クリックでギャラリーページへ)
ブラジルの先住民アワ族の5家族が、森へ一泊旅行に出かけていく。彼らはブラジル政府の先住民当局が作った入植地ポスト・アワ村に定住するようになったが、森を恋しく思っており、こうした旅行をすることによって、伝統的な暮らしとのつながりを保っている。ブラジル政府が先住民に対して現在のような非接触政策をとるようになったのは、1987年以降のことだ。(PHOTOGRAPH BY CHARLIE HAMILTON JAMES)
 香港大学の地理学者アレクサンダー・コッホ氏は、先住民の大量死と小氷期との関連を示唆する2019年の論文の筆頭著者だ。「花粉のデータからは、特定の場所の森林が再生したかどうかしかわかりません」と氏は指摘する。今回新たに発表された研究は、米大陸全体について言及した2019年の論文の「主な仮説を反証するものではない」と氏は考えている。
 コッホ氏は、今回の研究は重要な貢献をしていると評価しながらも、植民地化によって人口が大幅に減少したメキシコ、中米、アンデス山脈に比べて、アマゾンがCO2濃度にもたらした影響は限定的だったのではないかと考えている。「アマゾンの大部分はヨーロッパ人が進出するのは困難で、病気や植民者の影響を比較的受けにくかったのでしょう」。氏の分析では、CO2吸収量の増加のうち、アマゾンでの増加分は全体の4%にすぎなかったとしている。
 一方のマクマイケル氏は、「ヨーロッパ人は徐々にアマゾンに進出していったのです」と話す。メキシコやアンデス山脈には、ヨーロッパ人の到来直後に大量死が起こった証拠が多く残る。アマゾンの先住民に最大の打撃がもたらされたのは、それよりも後だったのかもしれない。
紛争と病気ですでに人口が減っていた
 多くの場所では森林の再生が、ヨーロッパ人の到来より何百年も前に起きていたという新しいデータを根拠に、ブッシュ氏とマクマイケル氏は、アマゾンの人口はヨーロッパ人の米大陸到来よりもずっと前にピークに達していたのではないかと考えている。そして、この地域の人口が減少し、以前より少ない水準で安定したことで、森林は、人間の活動が最も盛んだった頃の状態から回復することができたのではないかと推測している。
 考古学的証拠を用いて人口の増減を研究してきた英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)の考古学者マヌエル・アロヨ・カリン氏も同意見だ。氏は今回の研究には関わっていない。氏は、「ヨーロッパ人による植民地化の結果として先住民集団が崩壊したことは、民族史的な証拠が明確に示しています」と指摘する一方で、自身の研究もまた、アマゾン先住民の人口がピークに達したのは「その何世紀も前だった可能性」を示唆していると認める。
 では、ヨーロッパの侵略者がまだ来ていない時代に、なぜアマゾン先住民の人口が減少したのだろうか? ブッシュ氏とマクマイケル氏が論文中で指摘しているのは、西暦1000〜1200年の間に、隣接するアンデス山脈で紛争が増えていたことを示す「割れた頭蓋骨」や「防御柵」などの証拠が見つかっている点だ。他の研究者も、1200年以降になると、アマゾンの集落の要塞化を示す証拠が増えると報告している。(参考記事:「かつてのアマゾンに大量の集落、従来説覆す」)

「これは、人々が分散せずに特定の地域に集まり、守りを固める方向に再編されたことを示しています」とブッシュ氏は指摘し、人々が避けた辺境地域で、森林が回復したのではないかと話す。
 また、アンデス山脈では1000〜1300年の間に結核が流行した証拠があり、それが交易を通じてアマゾンに広がった可能性もある。米バンダービルト大学の人類学者ティフィニー・タン氏は、「アマゾンの人々が、波乱の時代を経験した高地アンデスの隣人たちと同じような問題に直面していたのではないか、というのは妥当な考え方です」と話す。氏はアンデスの人々を襲った激動について研究しているが、今回のアマゾンの研究には参加していない。
 低地の湖の堆積物に含まれる花粉のデータと、高地での病気や暴力に関する証拠を統合するのは、挑戦的な課題だとタン氏は言う。「だからこそ私たちは、考古学データが豊富に残る地域からより良い環境データが得られることを期待していますし、その逆も期待しているのです」
 古生態学者のブッシュ氏とマクマイケル氏も、同じ方向を目指している。「私たちは今、考古学者と一緒に研究をしています。次は、彼らが調べている遺跡の近くの湖に行って、何がわかるか調べたいと思っています」
文=TIM VERNIMMEN/訳=三枝小夜子
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/051700235/?P=2

<ウポポイ オルシぺ>15 探究展示 テンパテンパ 物と伝承者 触れて感じて

2021-05-18 | アイヌ民族関連
北海道新聞 05/17 05:00
 博物館の基本展示室は、「私たちのことば」など六つのテーマに分かれていますが、その「すきま」の位置に、サケ、シカなどのブルーグリーンのサインがついた、少し風変わりな展示コーナーがあります。「探究展示 テンパテンパ」というコーナーです。
 そこには、サケの解体模型と料理カード、昔のコタン(集落)のジオラマ、素材や刺繍(ししゅう)まで再現されたミニサイズの着物、シカのぬいぐるみ、むかしの家が組み立てられる模型など、18種類の体験ユニットが用意されています。引き出しを開けると、イタ(盆)、マキリ(小刀)、ラッコの毛皮など、関連した実物の資料が出てきます。
 「テンパテンパ」は「さわってね」という意味のアイヌ語です。探究展示は(コロナ禍でなければ)ほぼ全てがさわって体験できる展示物です。見た目は子ども向けに見えるかもしれませんが、大人の方にもいろんな体験をしていただき、情報を持ち帰っていただけるように設計しています。
 探究展示のユニットや、引き出しの中にある新しい民具は、アイヌ文化の伝承者の方々に、この展示のために制作していただいたものです。実際に資料、「モノ」にさわっていただくことで、その背後には技術の伝承を長く続けておられる「ヒト」がいることを感じていただきたいと考えています。そして、展示室の展示資料や事柄、「コト」とつなげて体験していただけるように、博物館のエデュケーター(教育担当学芸員)も博物館の「ヒト」として、そのお手伝いをしたいと考えています。(笹木一義=国立アイヌ民族博物館研究主査)

 新型コロナウイルスの感染防止のため、5月現在、探究展示はさわって体験していただくことができませんが、エデュケーターによる解説・対話を行っています。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/544448

マンハッタンのオープンカフェで人種差別を考えてみた

2021-05-18 | 先住民族関連
JBpress 2021/05/17 12:00
日本人の眼
 ニューヨークはワクチン接種がエネルギッシュに進み、COVID-19による制限が緩和されてきている。マスク着用の義務も緩やかになり、秋にはブロードウェー公演も再開される見込みがついてきた。賑わいのなくなったタイムズスクエアには、ショービジネス関係者専用のワクチン接種会場ができている。
 さて、久しぶりにマンハッタンのオープンカフェでマスクをしながらも春の日差しを浴びていると、昨年の緊急事態宣言が出てからの日々がスライドショーのように脳裏を過ぎていく。私も含めWork from Home(在宅勤務)が続くなか、曜日の感覚もあいまいになるBlursdayといわれる状態から脱している人たちの表情は明るく、交わされている会話もハ長調である。まるで長い冬眠からようやく覚醒している感がある。
 そんな人たちの顔は実にバラエティに富んでおり、ピープルズ・ウォッチングが好きな私にとってマンハッタンは格好の場所である。しかし、春を愛でている心のなかには澱のようなものがある。その澱はニューヨークに住み始めて30年あまり、いやそれ以前から心のどこかに存在し、それとじっくり対峙してみたい欲求にかられながらも、それがあまりにも恐ろしく、複雑で、センシティブで、エクスプローシブであるがゆえに、意識的に遠ざけていたようだ。それとは、日本では日常的に見聞きすることのない”人種差別”である。
 今まで私自身も被害者になったことがあるし、また、無意識だけれど加害者になっていたであろうとも思う。1982年にリリースされたスティーヴィー・ワンダーとポール・マッカートニーの”EBONY and IVORY"という曲は、白人と有色人種をピアノの黒鍵と白鍵にたとえた、ふたつのキーがあるから完全なハーモニーができるという内容だ。思い出す人も多いだろう。あれから約40年、かなしいかな完全なハーモニーはまだ出来上がっていない。
 私がカリフォルニアの大学院にいた1970年代、ルームメイトはイラン人だった。そのころ、イラン人学生がテヘランのアメリカ大使館を占拠する事件があり、キャンパス内ではイラン人留学生だけでなく他のアラブ諸国の学生までも、イスラム教徒であるというおおざっぱな理由で一括りにされた。そして、白人学生を中心としたハラスメントが彼らに向けて多く発生した。
 あるときルームメイトの彼は、イランから持ってきた細長い形をしたナッツを私にくれながら、我々はこれを”日本人の眼”と呼ぶんだ、と口に運びながら言った。続けて日本人の眼は細いからね、と屈託なく笑った。しかし、私は笑えなかった。なんだか行き場のない憤りを感じたことを覚えている。ジョークとして放った言葉かもしれないが、その悪意の不在(Absence of Malice)の言葉を言い続けて拡散すれば、それがノーマルとなるという恐ろしい法則を見つけたからだ。
 今回も前大統領の稚拙で思慮のない、一国を名指しで非難する言葉が不運にもSNSでノーマライゼーションを加速させ、COVID-19で精神的不安と経済的に追い詰められている人たちの行き場のない憤りの導火線に火をつけた。改めて現代のコミュニケーションの形態は”両刃の剣”であると自覚させられた。
Black Lives Matter NOW
 建国以来アメリカは、人種差別と民主主義の親和しない二つを内包し続けている。1960年代は黒人差別に対する運動があり、公民権運動を語るうえで特別な時代であった。これは大きなエポックメイキングになっただけでなく、人種の壁を越え、政治家、宗教家、アーティストなど様々な人々が声を上げる契機となった。そんななか、東部のユダヤ系の若者もその運動の支援のため南部に向かう。この時点では、紀元132年、ハドリアヌス帝ローマ軍とのバル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)に負けて以来、様々な国で迫害を受け続けていたユダヤ系の住民と、黒人社会が結びつくと思われた。
 しかし現在、ユダヤ系の人たちは差別を受けながらもその社会的地位を確立し、経済的にも豊かである。一方で、黒人社会はそのようにはならなかった。”おいてけぼり”感や失望感、孤立感をひきずりながら今に至っている。スパイク・リー監督の代表作『マルコムX』(1992年製作)では、この部分を鋭く描写していた。
 まだ記憶に新しい南部の人種隔離政策や、マーティン・ルーサー・キング牧師事件などのセンセーショナルな映像は、一定の効果を生み出し黒人差別問題は一応の前進をみたものの、人々の心にはあまり深く定着せず、火種を残したままになったように感じる。
 コロナワクチン接種が加速している今でも、この国にはAnti-vaxxerと呼ばれる狂信的なワクチン反対論者がいる。また一部の黒人層がもつVaccine Hesitancy(ワクチン接種に対するためらい)は、過去に起きた「タスキギー事件」が理由だと言われている。これはアラバマ州に住む黒人399名が、梅毒に罹患していることを知らされず治療もされず、その経過観察のためだけにアメリカ公衆衛生局が主導した、人体実験(1932年から1972年まで実施)だ。日本で知る人の数少ない悍しい事件である。
 そして2019年、インディアナポリス起きた白人警官による黒人男性死亡事件をきっかけに、今までよりも力強いBLM(Black Lives Matter)運動が始まった。それまで心の片隅にしかなかった人種差別への関心が高まり(とはいっても、他国に比べると人種差別に関するセンシティビティは高いと思うが)、今まで以上に人種差別撲滅のための様々な行動がなされてきている。しかしながら相変わらず、黒人が白人警官に射殺される事件は後を絶たない。
黄禍再び。アジア系住民へのヘイトクライム
 今までアメリカという国のなかで、少なくともニューヨークは様々な人種のデリケートなバランスを保ちながら運命共同体を構成できている、と考えていた。ところが黒人差別問題だけではなく、COVID-19パンデミック以降、多くの都市でのアジア系住民へのヘイトクライムやハラスメントを、連日のようにメディアは報じている。アジア系アメリカ人同盟(AAF)によると、昨年のヘイトクライムはニューヨーク市だけで約500件の報告がされているけれど、立件されたのはわずか30件ほどだという。
 40年近く住んでいるこの国で、しかも多くの人種が住み暮らすニューヨークで、ここまであからさまに暴力や暴言でアジア系住民を攻撃する不幸な出来事を、私はかつて見たことも経験したこともなかった。不幸にも前大統領が政治の道具としてつくり上げた”チャイナウィルス“や”カンフル”(カンフーとインフルエンザでつくった造語)は、黒人社会よりはるかに小さいアジア系住民社会をさらに脆弱な存在にしている。
 近年、中国本土からの移民が急増している。が、それでも黒人社会やヒスパニック系社会と比較すれば、まだマイノリティのほんの一部である。これまでもアジア系への差別や偏見はあったし、侮蔑する言葉も存在していた。アジア人被害者は周りを気にして届け出ない。波風立てないという態度であり、問題とされなかったのも事実である。さらに最近は、今世紀最大の地政学上の挑戦と言われる米中関係も悪化し、アジア系へのヘイトクライムを助長している。またさらに胸が痛むことは、加害者や容疑者の多くに人種偏見を受けてきた人たちがいることである。
 マンハッタンの住民にとって、中国をはじめ日本、ベトナム、タイ、韓国などの料理は日常生活の一部である。街角にはあらゆる国のフードトラックに行列ができている。それぞれの故国や祖国にちなんだパレードやお祭りがあり、人種を超えそれを楽しんでいる。そんな街でヘイトクライムは起こっている。ダブルスタンダードと簡単に言い捨てるには、問題が大きすぎる。
 社会が危機に直面しているとき、人々はうろたえ行き場のないフラストレーションを感じる。混乱するのは当たり前のことである。しかし、国家権力はその社会不安を真正面から受け止る努力をせず、スケープゴートとしてアジアの一国を選んだのだ。その国を故国や祖国とするアメリカ国民がいることをマイノリティのごく一部であるがゆえに、無視することは許されてはならない。
 ようやくこの不幸なヘイトクライムの急増で、アジア系住民が声を上げだしたことは大きな一歩であり、こんごも、この声を発し続けることを忘れてはならない。この国は声を上げないものに耳を貸そうとはしないのだから。
社会不安での人種差別+負の情報拡散=ヘイトクライム
 1980年代、日米貿易摩擦の下での日本車排斥運動では、不幸にも中国系アメリカ人男性が日本人に間違えられ殺害された。このデトロイトの事件だけでなく、ロサンゼルスの大暴動では、韓国系住民の地域をも巻き込んだ。9.11では、アラブ系住民がヘイトクライムの被害にあったことを記憶している人は多いと思う。19世紀末から20世紀初頭、西海岸では中国人や日本人労働者の排斥法が可決されているし、そのあとの日系アメリカ人の強制収容も歴史に刻まれている。
 ここで少々意地の悪い話をする。1918年から1920年、最初のH1N1亜型感染の報告がされたのはアメリカの陸軍基地だった。第一次大戦中のスペインは情報統制下になく、初期にスペインからこの感染拡大の情報がもたらされたために、”スペイン風邪”と呼ぶようになったのだ。もしそのとき、今のような情報伝達システムがあったとしたら”スペイン風邪”などとは呼ばれずに、最初の症例が報告された地に因んで”アメリカ風邪”とされていただろう。
 COVID-19パンデミックのなか”イギリス変異株”などと国名を使ったことは正しかったのであろうか? つい最近になってアメリカ国内ではその名称を”B117”と変更している。日本でも同様の動きがあると聞く。少し心が軽くなった人も少なくないと思う。
入植者とマイノリティ
 先住民、そのあと入ってきた入植者たち、そして入植者たちが強制的に連れてきた人々との関係性が人種差別の温床だ。今さらながらアメリカが抱える白人と有色人種との確執を知らされる。白人入植者は、その数と知恵で圧倒し先住民をいとも簡単にマイノリティに追いやったのだ。
 アメリカンインデイアンはいまだにインデイアン居留地で暮らす人たちが多い。貧困や薬物中毒の問題に悩んでいる。アラスカ州周辺に住み暮らすイヌイットと呼ばれる先住民族も同様である。日本人には最もなじみ深いハワイは元王国である。ハワイ語でハオレと呼ばれる白人がパワーでアメリカの一部にしたといっても過言ではない。
 『Hawai’i 78』は、卓越した才能で知られるハワイ州出身アーティストIZこと、
Israel Kamakawiwoʻole(イズラエル・カマカヴィヴォオレ)の代表曲のひとつ。失われた美しいハワイに対するあふれる愛を感じる名曲だ。IZは、かつてのハワイ王や女王が変わり果てた現在のハワイの姿を見たらどう思うだろう、と静かに嘆く。本当のハワイを取り戻そう、と歌う。心が痛むのは私だけではないと思う。
 人種差別はアメリカの特異な問題なのか? いや、決してそうではない。人種差別は宗教がからみ、さらに問題を複雑化させている。旧宗主国の無謀ともいえる国境の線引きでなどで生じた、様々な問題も世界には存在している。
 中国のウイグル族に対する処遇は、人権問題として国際外交に大きく取り上げられている。ミャンマーにおけるロヒンギャもそうである。韓国では、中国出身の朝鮮族の人たちへの世間の風当たりは強いと聞く。アフリカにおいても複数の部族による集合体であるため、一つの国家を信条的に確立できず内紛を起こすという例がいくつもある。日本も沖縄やアイヌ民族、在日朝鮮半島系(北も南も)、中国系と、様々な問題が多かれ少なかれ存在している。
 途上国の若者が”実習生”として日本で仕事をしているが、そこでも差別が存在するようである。南アメリカに目を向ければ、パタゴニアの先住民は、ヨーロッパからの入植者がもたらした病気により、免疫力がないためほとんどの種族が滅びている。南アメリカ・フエゴ諸島の南端の島々に存在し、日本人とおなじモンゴロイドのDNAをもつヤーガン族もまた、私が訪れた2016年、純潔な血統をもつ人としては老女がひとり残っているだけと聞いた。
 ヨーロッパに目を向けると、古くから存在するユダヤ系の人たちや、ロマ(ジプシーとされる集団のなかで、主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族)と呼ばれる人たちへの迫害や偏見があった。ドイツでは30年ほど前から、労働力不足を補うため大量にトルコ系の移民を受け入れた。結果、現在ではフランクフルト駅前はトルコ料理のレストラン街となっている。また近年、中東の国々の紛争は多くの難民を発生させた。北欧やヨーロッパの国では多くの難民を受け入れ、人種問題が表面化し政治的アジェンダとなっている。
 外国人のスキルや労働力を受け入れることで経済が維持される。難民を受け入れることが当たり前となっている世界では、ホモジーニアスな社会であるがゆえに安易に成立してきた、NORM(社会の標準的規範)の維持が難しくなっているのではないだろうか。
エキゾチック
 少し話はそれるが、ひとつの民族が別の民族を支配しようとするにはいろんな方法がある。そのなかで、いちばん簡単なものは言葉であろう。先住民の言葉をなくしてしまうことだ。現在アメリカンインデイアンで、それぞれの種族の言葉をつかえる人はどれくらいだろう? ハワイでは、学校でハワイ語を教えることを法律で禁止していた時期があった。ハワイではなくサンドウィッチ諸島と、ハワイ諸島の旧称で言われたら全く違うイメージを描いてしまう。さいわいハワイはハワイ語の地名が多く残されており、その地名の意味を知ることで文化をより深く理解することができる。
 ニューヨークでも、マンハッタン、ポキプシー、ロンコンコマなど、先住民の言葉が使われているところが残っているが、ニューヨークという地名も含め入植者の祖国への思いからか英語名がほとんどである。日本はどうであろう。やまと人は北方民族や琉球王国に対してはどうだったのであろう?
 アメリカのテレビや映画でも多くのばあいアジア系の俳優はエキゾチックな存在として配役され、ハワイやチャイナタウンのロケや戦争映画、マーシャルアーツの作品は別として、日常のシーンで登場することはあまりなかった。エキゾティックとロマンティックを結びつけるとポジティブなイメージになるのかもしれない。とてもシニカルなものの見方だろうけれど、エキゾティックと思うとき、それは”コンキスタドール”の眼で見ているのではと私は心配になる。
 最近テレビ番組でもアジア系映画の人気もあってアジア系俳優が主人公の番組が多くなった。また、BLMに始まった人種差別に対する運動と呼応して、テレビのCMでも白人以外俳優の登場が目立って多くなってきた。これが一過性のものでなくニューノーマルになることを期待したい。
Americanness
 移民のことに話を戻そう。どんな国に移民するばあいでも、その国に第一歩を踏んだときからサヴァイヴァルが始まる。その手段として自己本能的に同じ故国をもつ人に頼り、助け合う互助組織ができるのは自然な成り行きだ。リトルトーキョー、コリアンタウン、チャイナタウン、などアジア系が密に暮らす街ができる。ユダヤ系でもイタリア系でもそれは同じある。が、アジア系住民のなかには、英語になじまないが故に出身地の文化や言葉に固執し、自分がいま住んでいる国のことには関心を示さず、自分たちが持ち込んできたマナーや習慣をそのままこの国で通そうとする人もいる。
 マズローの理論では、「安全の欲求を満たされていないのに他人にかまっていられない」というレベルなのだから仕方がない、と科学的なジャッジを下されるかもしれない。が、それでは共生社会は成り立たなくなる。移民としての歴史が浅いアジア系の人々のなかには、自分はアメリカ人であるが、”Americaness”(アメリカ人らしさ)とは何か、と潜在的な悩みをもつ人が少なくない。とくに移民二世では、両親の故国と自分が生まれたアメリカとの板挟みになっていると感じる、と多くのアジア系の友人から聞いた。
アガペー
 市内バスの車中で周りを気にせず大声で話をするくせに、注意されると英語ができないふりをする。そんなエトランゼに出くわすことがある。こういう出来事が、気が付かないうちに心のなかにバイアスのかかったモノの見方を、記憶として蓄積させるのかもしれない。センシティビティの欠如は、ほかの人種を含め長くこの地に住んでいる人たちとの間に軋轢を生むことになる。
 When in Rome, do as Romans do.<郷に入れば郷に従え>という、使い古された言葉の意味を今一度考える必要もあるように思う。これは既存のものにすべて盲従するということではない。人種差別に関するセンシティビティやリテラシーの向上を考え、今一度多民族国家であるということを認知することで互いの文化、習慣や宗教を尊重し、”折り合い”を付けていくしかないのではないのだ。それがアメリカ”合衆国”であり、Americanであると信じたい。
トランスフォーメーションからくるパラダイムシフト
 最近DX をはじめトランスフォーメーションという言葉がいろんなところで使われている。
 アメリカの白人社会には、永年にわたり構築したNORM(標準、基準)のなかで快適に暮らし、マイノリティは、そのNORMのなかでおとなしくしていればいいと考える白人至上主義者が存在する。他民族共生社会の国が成熟する過程では、いままでの多数派のただの”習慣“と受け取られることになってくる。しかし人々は、そういったNORMでつくられた目に見える権威にしか目を向けない危険性がある。そして”進化”しないNORMは差別を生む火種となる可能性がある。今まで気持ちのうえでマジョリティであった人たちにとって、数のうえからも”声が大きくなるマイノリティ“は脅威と感じていると思う。その昔、故国を捨ててこの国にやってきたときの移民の精神は、今の移民であっても変っていないことに気づいていないのだ。
 あらゆる面で世界は大きく、そして驚くほどのスピードで変わっている。必要なのは、ゆく先を長期に見据えたものの考え方だ。アメリカは、夢のような目標を掲げる人たちを受け入れ、応援する社会である。そしてそれを支えていくのは多様性である。いろんな価値観やモノの見方をもち、文化、言語や宗教も違う人たちがそれを支えているのである。アメリカはこのまま人種差別を深刻なまま放置し続け、その結果多様性を受け入れる力を失うことが、どれほど致命的になるかを知っているはずだ。過去の大多数が構築したNORMに拘泥するあまり、変革を恐れることは死滅を意味するとさえ感じる。
 社会心理学に、”in group"と”out group”という考え方がある。我々はいとも簡単に自分がグループに属することで安心を得る。反面、自分とは違うグループを理解もせず、違うという理由だけで主体的に判断し簡単に敵対行動をとり、怒りのはけ口にする。それが現在の人種差別という社会の“ひび”を深くしている。我々自身が相対的に相手を見て理解することが、その“ひび”を埋めていく解決の大きな契機になるはずだ。
 この街は世界に類のない多民族都市になり、人々はコスモポリタンになりつつあった。これからも進み続ける変革のためには、幼いころから相対的なモノの見方を養い司法のコントロールでなく、相手の痛みを理解するという根気のいる、根源的なことから始めなければならないと強く思う。
WHAT A WONDERFUL WORLD
 マンハッタンのカフェで春の日差しを浴びながら、沈思にふけったこの話はここで擱筆したいと思う。私は恐ろしく大きな人種差別に対してまだまだ理解が浅く、人種差別という人権侵害に対して具体的に明快な解決策を出せてはいない。ただこの問題に対する所感を述べるに終わったが、問題意識を心のどこかにもちながら声を上げ、行動に反映させるという当たり前のことをしようと思う。なんだか気持ちの沈む話が多かったが、我々の住むこの世界は現実的に、人種差別を肯とする人々こそマイノリティである。我々ひとり一人の心のなかに差別に対する敏感なレーダーを稼働し続けることが、人類が素晴らしいと思う世界の礎の一つになると信じたい。
 イランから来た友人が発した、”日本人の眼”に関するコメントにへこんだ私であったが、それには後日談がある。ある日私は高熱でベッドから起き上がれない状況だった。そのとき、同じ研究をしていたウガンダの友人に研究室へ行けないと話した。彼は独裁者イディ・アミンから逃れ、命からがらアメリカの大学院で極貧生活しながら勉強していた。私の部屋にやってきた彼が手に持っていたものは、ウガンダの部族に古くから伝わる様々なハーブを煎じた薬であった。おかげで、私はたちまちのうちに回復した。そしてその材料を探すのを手伝ったのは、件のイラン人の友人であった。
 ルイ・アームストロングの代表曲の一つである“What a Wonderful World”を私はこれからも大切に心のなかで歌い続けたい。
(沼田 隆一)
https://news.goo.ne.jp/article/jbpress/world/jbpress-65197.html

室蘭撮影映画「モルエラニの霧の中」坪川監督ら来函【函館】

2021-05-18 | アイヌ民族関連
函館新聞 2021.05.17
映画の見どころや撮影秘話を語る坪川監督(左)と出演した市民キャスト
 室蘭市で撮影した映画「モルエラニの霧の中」の坪川拓史監督(49)と出演した市民キャストを招いたトークイベントが15日、上映中の函館市民映画館シネマアイリスで開かれた。
 同作は、NPO法人室蘭映画製作応援団の製作で、2014~18年に全編を室蘭で撮影。多くの市民キャストが参加し、7話連作形式で移ろう季節と街の風景、人々の人生を描いた。「モルエラニ」はアイヌ語で「小さな坂道を下りた場所」という室蘭の語源とされ、坪川監督は「アイヌ語の響きが美しく、タイトルにした。海の温度が違う内浦湾と太平洋に囲まれ、名物にすればいいくらい霧が流れ込んでくる」と話した。
 市民キャストの竹野留里さん(21)は撮影時は中学生。オーディションで江差追分を披露したことがきっかけで出演が決まった。「中学生の時はずっと室蘭の何がいいのだろうと思っていたが、映画に出て魅力や人の温かさを強く感じた。少しでも伝わってほしい」と話した。坪川監督が所属するバンドのライブを客として訪れてスカウトされたという橋本麻依さん(39)は「会いたい人や大切な場所を思い出したりするきっかけになる映画。私も通り過ぎていた場所に愛着やドラマを感じるようになった」と話した。
 また、村田博さん(65)は「よくもこんな奇跡的な映画に我々のような素人が参加させてもらえたと今は思うが、当時は無我夢中だった。今後もこの映画の巣立ちにご協力いただければ」と話した。
 大杉漣さん、小松政夫さんら出演したプロの俳優たちも、室蘭になじもうと、撮影のない時間にも出歩く姿が見られたという。坪川監督は「漣さんは『映画は船旅。大変なことはあるけど絶対いつかすてきな港に着くから』と言ってくれていた。やっと映画館という港に着いたのに」と完成した作品を観ることなく亡くなった関係者への思いにも触れた。
 同館での上映は20日まで。問い合わせは(0138・31・6761)へ。
http://www.hokkaido-nl.jp/article/21684

チリ、新憲法つくる男女均等議会誕生へ 先住民枠も 国民投票で実現

2021-05-18 | 先住民族関連
毎日新聞 2021/5/17 10:58(最終更新 5/17 17:17) 有料記事 496文字
 南米チリで15、16の両日、新憲法の草案をつくる議員155人を選ぶ制憲議会選が行われ、16日開票された。男女がほぼ半数になる規定で、世界に例を見ない男女均等の議員の手による憲法が生まれる見通し。現地メディアが報じた。制憲議会選は、昨年10月の国民投票で約8割が新憲法制定に賛成したことを受けて実施された。
 制憲議会議員は候補者1300人以上の中から選ばれる。17人の先住民枠も設けられている。性別や民族による差別や不均衡をなくす内容の新憲法が期待されている。
この記事は有料記事です。 残り266文字(全文496文字)
https://mainichi.jp/articles/20210517/k00/00m/030/033000c

緊急事態宣言16日発令 帯広市、公共施設の大半休館へ

2021-05-17 | アイヌ民族関連
北海道新聞 05/16 05:00
 北海道に緊急事態宣言が発令される16日を前に、休業やイベント中止の動きが十勝管内で広がってきた。帯広市は15日、図書館や動物園など公共施設の大半を原則として17日から31日まで閉館すると発表した。新型コロナウイルス感染の再拡大による事態の急変に戸惑いの声も出ている。
 帯広市が同期間に閉館するのは、ほかに児童会館、とかちプラザ、各種体育施設、市民ギャラリーなど。各種行事や講座も中止する。帯広競馬場は17~31日のばんえい競馬を無観客開催とする。小中学校は休校せず、学校行事は縮小や延期を検討し、体育祭や運動会も行う方向で協議する。
 道立帯広美術館は17~31日の休館を決定。道立十勝エコロジーパーク(音更町)も17~31日、屋内施設やキャンプ場などを休業する。浦幌町立博物館は16日の講座「写真・映像に見る1950年代釧路地域のアイヌの踊り」を延期した。
 帯広中心部の屋台村「北の屋台」を運営する北の起業広場協同組合は16~31日を全店休業すると決めた。8月13日に予定された第70回勝毎花火大会も主催者が中止を決めている。
 管内で新型コロナの流行が再拡大したのは大型連休明けから。事態の急展開に戸惑いも広がる。帯広市緑ケ丘公園の「みどりと花のセンター」で15日に予定された「みどりと花のフェスタ」は中止。来場した帯広・東小4年の北川太陽君(9)は「友達ともなかなか遊べないから楽しみにしていたのに」と残念がる。
 公園を散策していた帯広市の無職山崎正昭さん(71)は「ワクチン接種のめども立っていないので急な感染拡大は怖い」。小学生の息子がいる市内のパート従業員山形康子さん(39)は「(例年6月開催の)運動会はどうなるのか」と不安そうに語った。(三島今日子、水野薫、椎名宏智)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/544263

私の台湾研究人生:「戒厳令は死に体に」——民主進歩党の誕生で台湾政治に新しい風

2021-05-17 | 先住民族関連
ニッポンコム 2021.05.16
1986年3月、筆者は日本国香港総領事館の専門調査員を辞して家族とともに帰国し、4月から東京大学教養学部外国語学科の助教授に採用された。それから2010年に早稲田大学政治経済学術院に移るまでここ通称東大駒場で教鞭を執ることになった。日本の論壇に台湾問題を提起するなかで、台湾で結党されたばかりの民進党から訪日団を迎えることになった。
香港から帰国、東大教養学部助教授になる
東大駒場では、一、二年生には中国語を、教養学科アジア分科に進学した三、四年生には「アジアの政治」といった科目名で台湾政治論を講義した。「台湾政治論」といっても、もちろん出来上がったものがあったわけではない、講義しながら自分のそれを作り上げていくというのが実情だった。
翌年からは、大学院総合文化研究科地域文化研究専攻の担当にもしていただいて、以後台湾研究を志す台湾人留学生の指導にあたることになった。しばらくして少数ながら日本人の学生もやってきた。最初の指導院生は台湾先住民族タイヤル族の青年林文正さんだった。これが当時の法律で義務付けられていた漢人式の公式の名前で、民族名はイバン・ユカンだと彼は名乗った。その後1990年代の法改正で民族名を公式の名前として届けてよいことになり、彼は今、Iban Nokan(漢字表記、伊凡・諾幹)と名乗っている。先住民族の名前ほど彼らが「諸帝国の周縁」を生き抜いてきたことを物語るものはない。Iban Nokanさんはその後、陳水扁政権で総統指名・立法院承認で任命される考試院の委員を、蔡英文政権(第一次)で行政院政務顧問を務めるほか、各種先住民族政策立案の諮問機関などで活躍している。
当時は政治的民主化の進展とともに台湾では学術の自由の情況も急速に改善して、台湾研究には一種の歴史的熱気が湧き上がっていた。今振り返れば、私は学生ととともにその熱気の中にいた。当時東大で台湾研究をしている人は、台湾文学の動向に着目し始めていた文学部中国文学科の藤井省三さんだけだったし、文学部は本郷キャンパスにあったので、東大駒場キャンパスでは私一人だった。その後もずっとそうで、私が離任したらゼロになった。
そんなわけだから、私の大学院ゼミは周囲の同僚からみたらちょっと変な熱気のあるグループだったのかもしれない。ただ、ちゃんと語学さえ教えていれば、後は好きにやってよいというモードの職場だったのはたいへんありがたかった。
「死に体」となった戒厳令と民進党の結成
前にも触れたように、私は香港誌の『九十年代』(月刊)を購読するとともに、80年代初めからいわゆる「党外雑誌」の『八十年代』系列(康寧祥系)と『前進』系列(林正杰台北市議会議員系)を購読していた。「系列」というのは長期戒厳令下の検閲で雑誌がしばしば発禁処分に遭うので、一つが発禁になっても次が出せるように別の名称の雑誌を当局に登録しておいたからである。これを「スペアタイヤ(備胎)」と称した。
助教授になって初めての夏休みも終わりに近づく頃自宅に届いた『前進』系列の『前進廣場』のページをめくって驚いた。林正杰の「収檻送別」活動の様子が、写真とともに大々的に報道されていた。『前進』主宰者の林正杰は、同誌の報道が国民党高官を誹謗(ひぼう)したとの疑いで懲役1年半の有罪判決を受けたが、林は控訴しないで入獄することになり、その「送別会」を台北の公園で行うと、支持の民衆が街頭に溢れ自然発生的なデモとなってしまった。そして同じ事が、西部平原の各都市で12日間にわたって繰り広げられた。交通整理の警官は出動していたが、当局はこれを取り締まることができなかった。『前進廣場』に掲載されていた写真では、林正杰が何とパトカーの屋根に登ってハンドマイクで演説している様子が写っていた。「戒厳令は死に体になっている」。まさにこの言葉でその写真の光景を受け止めたことを今でも鮮明に覚えている。

(出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、202頁 )(筆者提供)
野党結成まであと一歩だった。後で分かったことだが、「十人小組」と呼ばれるようになるグループがすでに密かに新党結成準備を始めていた。この年の12月には立法委員と国民大会代表の「増加定員選挙」が行われる予定であった。「党外」は再び「選挙後援会」を組織し、その候補推薦大会を台北の圓山大飯店で開催したが、その最中に政党結成準備に当たっていた人々が突然「民主進歩党」(民進党、the Democratic Progressive Party: DPP)の結成を提案し、異議無く採択された。林正杰が支持者に見送られて入獄した次の日のことであった。
確かに戒厳令は「死に体」だった。蒋経国は結局新党の存在を容認するしかなく、まもなく関連法令を定めて新規政党結成を制限付きで合法化し、戒厳令も解除するという方針を打ち出した。権威主義体制のいわゆる「ブレークスルー」が台湾でも始まった。戒厳令体制を重要な支えの一つとする国民党一党支配体制に風穴が開いたのである。生まれたばかりの民進党は、準合法政党として86年末の「増加定員国会選挙」に臨んで国内デビューを果たした。
もちろん私も三度目の「選挙見物」に出かけた。1983年に意外な落選に見舞われた康寧祥は立法委員に返り咲いた。台北市議会議員だった旧知の謝長廷は立法院進出をはかったが果たせなかった。一説に「最後の立候補」を訴えた康寧祥に票が集まりすぎたのが落選の一因という。これが中選挙区制において結成したばかりでしっかりした政党組織を持てない「党外」の苦しいところであったと言えよう。
国民党一党支配体制下に野党が結成されたということで日本のマスコミも注目したらしく、帰国すると早速、週刊『朝日ジャーナル』で現代中国研究家の加々美光行氏、共同通信の坂井臣之助氏との鼎談(ていだん)に呼ばれた。その時の私の発言の一部が当時の同誌編集長筑紫哲也氏の目にとまったらしく、掲載号目次下の「今週の紙面から」欄に日本の台湾観に関して「いわゆる経済合作の対象、観光の対象を除いた台湾をどう見るか。そこのレベルの交流が少ない。そのアンバランスはグロテスクでさえあるということを何回も台湾へ行って感じます」との私の発言が引かれていた。
民進党の初の「政党外交」
台湾の権威主義体制のブレークスルーを日本政府や外務省が当時どう見ていたのか、私には知る由もないが、アメリカの動きは速かった。民主党系の国際関係民主協会(the National Democratic Institute for International Affairs)が民進党をその主催のシンポジウムに招待した。民進党はこれを機に21人の大型訪問団を組織してアメリカと日本を回り、新党に対する国際的認知を獲得しようとした。一行は2月初め訪米、2週間にわたり全米各地を廻ったあと、15人が2月17日に来日し19日まで日本の政党、学界、マスコミなどと精力的に接触した。確か東京到着早々17日の夕方ではなかったかと思うが、池袋のプリンスホテルで記者会見が開かれるというので私も出かけた。当時の党内急進派「新潮流」のリーダーの一人と目されていた若き日の邱義仁氏(現台湾日本関係協会会長)と初めて言葉を交わしたのを覚えている。
そしてその翌朝、当時東京外国語大学に客員教授で来ていたパリス・チャン教授の仲介で訪問団の一部メンバーを東大駒場に迎えることとなった。現代中国研究者の通称「二水会」と称する勉強会(横浜市立大学の矢吹晋教授主宰)に出席する形で座談会を開いたのである。当時まだ大学院生だった黄英哲さん(現愛知大学教授)が一行の案内役を務めてくれた。
この座談会の模様は、二水会のメンバーでもあった『中央公論』の近藤大博さん(当時編集長)のお世話で、同誌の4月号に「台湾 民主進歩党の挑戦」と題して執筆させていただいた。近藤さんが私の記事につけてくれた「台湾の政治に新しい風が吹いている/台湾は変貌し、新たな転換期に入っている/その渦中にいる人々が日本にやってきた」というリード文が、この時私が日本の世論に伝えたかった感触をよく現していたと思う(※1)。
座談会出席の民進党側メンバーは次の6氏であった。( )内には当時の年齢、党内役職、議員職などの公職を付記した。
張俊雄(49歳、党中央執行委員、立法委員)
康寧祥(48歳、党中央常務委員、立法委員)
尤清(44歳、党中央常務委員、立法委員)
謝長廷(41歳、党中央常務委員、台北市議会議員)
蘇貞昌(39歳、党中央常務委員、台湾省議会議員)
廖學廣(33歳、党中央評議員、台北県議会議員)
後に民進党が成長して民主選挙を通じて政権党にまでたどり着いたことを知っている今日の眼からすると、相当の大物が参加してくれていたことになる。張、謝、蘇の三氏は陳水扁政権(2000-08年)の行政院長(首相に相当)、蘇氏は現蔡英文政権でも行政院長を務める。謝氏が1996年初回総統選挙で民進党の副総統候補となったことはすでに触れた。2008年には民進党の総統候補となったが敗れた。現政権下では台湾の駐日代表を務めている。康寧祥氏は、その後党内での地位は後退したが、李登輝政権下で監察委員を務め、陳政権では一時国防部副部長や総統府国家安全会議秘書長を務めた。
ただ、当時の急進派であった新潮流派系統の人は入っていない。私と二水会側では出席メンバー選定には全く関与していないし、訪問団側でどういう判断があったのか分からないが、座談会を通じて発信されたのが、民進党穏健派の見解であったとは言えるだろう。
(※1) ^ 座談会の詳しい内容は当日も参加した坂井臣之助氏が起こしてくれたテープから私が翻訳・編集して『中国研究月報』470号[1987年4月]に「台湾の新野党・民主進歩党は語る」と題して坂井氏と連名で発表した。
「国民党と同じなのは機関の名称だけだ」
前記『中央公論』の記事には、座談会の際に撮影された当日の6氏の表情を示す写真を掲載している。
なかなかの面構えである。決然とした面持ちの中に緊張感が漂う。こうした表情から発せられた、静かだがこれもまた決然とした彼等の発話が、当日の座談会の雰囲気を作り上げていたという印象が今でもある。
彼らの緊張感は、ほとんどが初対面の日本の学者とジャーナリストの前で話したことに由来するものではなかったかと思う。発言した複数のメンバーが、われわれの党は生まれてまだ4カ月あまりの「とてもベイビーな党」で、国民党の法律ではまだ合法化されていない存在であることに注意を喚起していた。私は、彼らの新党党内での職掌や党組織の名称をとりあげ、彼らが反対しているはずの国民党と同じではないかとの質問をぶつけたが、それには国民党がわれわれに「人民団体」として登録せよと迫り、新党の存在を矮小(わいしょう)化しようとしているから故意にそうしたのだとの答えが返ってきた。
新党の前途はまだ不確実性に満ちていた。後知恵からすれば1986年の民進党結成容認や87年の戒厳令解除は結果的には後戻りできない政治的自由化措置であったように見えるのだが、法的には「政党は国土の分裂(台湾独立を指す)を主張してはならない」とする制限付きの自由化であった。新党を潰してしまえる手がかりは存在し続けていた。民進党の法的地位が最終的に安定するのは、これらの制限が無効となる1992年の第二次憲法修正まで待たねばならなかったのである。
私はと言えば、台湾の権威主義体制のブレークスルーにより以後に展開していく初回総統選挙実現までの民主化の十年の台湾政治のダイナミズムをどのように見ていくのか、それを単なる時事的観察の積み上げに終わらせるのではなく、学術的な政治研究としてどのように実現していくのか、そういう課題を突きつけられていたのである。
バナー写真=「党外選挙後援会」の席上で民主進歩党結成が決議された場面。議長席で立ちあがって司会しているのが游錫堃[現立法院長]、右端立って発言しているのが謝長廷、この時彼が民主進歩党という党名を提案した。出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、206-207ページ(筆者提供)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01087/

急増中「宗旨・宗派は問いません」が示す1200年以上続いた枠組みの崩壊

2021-05-17 | アイヌ民族関連
プレジデントオンライン 2021/05/16 09:15
現在、日本国内の仏教宗派には曹洞宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、浄土宗など167ある。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「仏教が日本に入ってきたのは6世紀。歴史の中で各宗派の勢力は変化してきました。近年は『宗旨・宗派を問いません』というケースが増え、仏教の枠組みも変わりつつある」という――。
■なぜ「宗旨・宗派は問いません」が増えたのだろうか
近年、「宗旨・宗派は問いません」などとうたう、納骨堂や永代供養墓が増えてきた。しかし、この表現はアバウトだ。「宗旨」と「宗派」は本来同義だ。この場合、おそらく「宗旨=○○宗」と「宗派=○○派」とを分けていると思われる。
つまり分かりやすくいえば、「仏式の場合、お墓はそれぞれの決まった宗派のお寺に納めてもらうのが慣例ですが、うちの納骨堂はどの宗派の方でも納められます」ということになる。これまで納骨に際しては、「宗派しばり」が当たり前だったのだ。
だが、日本の仏教宗派の成り立ちや、どのような違いがあるのかについては、じつに複雑怪奇だ。
6世紀に日本に仏教が入ってきた当初は、「ひとつの仏教」だった。それが、鎌倉時代初期までに8宗(南都六宗に加えて天台宗、真言宗)に別れた。さらに、鎌倉時代に法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、日蓮が日蓮宗、栄西が臨済宗、道元が曹洞宗を開くなどし、いわゆる鎌倉新仏教が誕生する。
以後、その弟子筋らによって、さらに細かく分派していく。昭和初期までに「13宗56派」にまで膨らんでいる。それが1939(昭和14)年、宗教団体法が施行されて公認制となり、「13宗28派」にまとめられた。戦後は、さらに分派が進み、現在でも増減を繰り返している。
では、直近でどれだけの宗派が存在するのか。国から認められた包括法人(仏教宗派、令和2年)はなんと167(前年比マイナス1)もある。
このなかで最大の宗派は、およそ1万4600カ寺もの末寺を抱える曹洞宗である。次いで約1万300の末寺がある浄土真宗本願寺派。3位は真宗大谷派(約8600カ寺)、4位は浄土宗(約7000カ寺)、5位は日蓮宗(約5100カ寺)――となっている。
曹洞宗の規模がずば抜けて大きいのは、派閥に別れていないからである。派閥の全てを包括すれば、浄土真宗(主に10派)系が全体で約2万1000カ寺と曹洞宗を抜いて圧倒的勢力となる。
■「地元で強い」日本の各地でトップの仏教の宗派は何か?
しかし、日本全国まんべんなくそれぞれの宗派が分布している、というわけではない。地域によって、かなりばらつきがある。それは「真宗王国」「禅宗王国」「法華(日蓮宗)王国」などという表現でたとえられることもある。
改めて北から見ていこう。
北海道・東北に教線(布教の範囲)を拡大したのは曹洞宗だ。その理由について、『曹洞宗宗勢総合調査報告書 2015』では、
〈現在の曹洞宗寺院の多くは、15世紀中頃以降に開創されたものが大多数を占めるが、それは当時、新興勢力として台頭してきた在地領主である『国衆』が領有する発展途上の村落に展開した。商工業が発展し、多くの人々を引き寄せる都市部においては、他派の教線が入り込んでいたためであり、曹洞宗寺院はその間隙を縫って、その数を飛躍的に増加させていった歴史的経緯がある〉
としている。
本州の最北端にある青森県下北半島のパワースポット恐山(菩提寺)も、曹洞宗寺院だ。
北海道は江戸時代までは蝦夷地と呼ばれて、アイヌの住む土地だった。そもそも北海道は仏教の歴史は浅いが、江戸時代に幕府がロシアの南下政策に危機感を抱いて「蝦夷三官寺」を開いたのが最初である。蝦夷三官寺とは、浄土宗の有珠善光寺(伊達市)、天台宗の等澍院(様似町)、臨済宗南禅寺派の国泰寺(厚岸町)だ。いずれも現存している。
明治時代に入って、布教が本格化し、現在道内には2300もの寺がある。これは北海道開拓のための移民の心の拠り所、供養の場として寺が開かれたからだ。永幡豊『北海道における仏教寺院の分布について』によると、北海道開拓民の多くは東北6県(41.4%)、北陸4県(26.3%)が占めていた。曹洞宗王国の東北と真宗王国の北陸からの大量移民の影響を受け、現在、北海道では曹洞宗が全体のおよそ20%、浄土真宗系が43%という分布になっている。
■東京都は浄土宗寺院が多く、千葉県では日蓮宗寺院が多い
東京都を含めた首都圏の仏教勢力はどうか。
戦国時代、各地の戦国大名の庇護を受けた寺院が、その地域で力を持つようになった。たとえばこの頃、江戸に入った徳川家康は東京・芝の増上寺の存応に深く帰依し、菩提寺にした。そのことで増上寺は徳川歴代の墓所となり、江戸では浄土宗寺院が勢力を拡大する。現在でも都内には浄土宗寺院が多い。
家康のブレーンだった天台宗の僧、天海が3代将軍家光の時代に創建した寛永寺も同様に将軍家の菩提寺となり、江戸時代は関東では浄土宗と天台宗の勢威が高まった。
また、千葉県では日蓮宗寺院が多い。それは日蓮の直弟子日進が法華経寺を拠点にして、上総や下総で大布教を展開した影響が考えられる。
北陸は浄土真宗を開いた親鸞の嫡流、蓮如が15世紀に越前吉崎に赴き、布教の本拠地としたことで、まさに「真宗王国」になっている。
■なぜ、京都には曹洞宗のお寺が少ないのか
日本を代表する仏都、京都。寺の数の上では3000カ寺余りで愛知県や大阪府のほうが多いが、なんといっても主要教団だけで大本山の寺院が36もあるのが特徴だ。
浄土宗総本山知恩院、東西本願寺、臨済宗妙心寺派妙心寺、同天龍寺派天龍寺、東寺真言宗総本山東寺などである。そのため、こうした大本山傘下の寺院が比較的まんべんなく分布している。
その京都にあって、あえていうならば、曹洞宗寺院が少ない。これは、京都五山(臨済宗)勢力に、曹洞宗勢力が洛外へと押し出されたとも考えられる。
■広島や山口、島根は浄土真宗、山口は浄土真宗本願寺派
中国地方に目を転じれば、広島県や山口県、島根県では浄土真宗勢力が強い。山口県にはおよそ1400の寺院があるが浄土真宗本願寺派寺院が600カ寺を占める。これは戦国時代、毛利元就が真宗門徒の結束の強さに怯え、また、利用しようとして真宗寺院を庇護したからである。
四国の高知県や、九州の宮崎県、鹿児島県はそもそも寺院数が極端に少ない。高知県約360カ寺、宮崎県約340カ寺、鹿児島県約480カ寺である。
これは明治維新の時、日本仏教界が受けた最大の法難である「廃仏毀釈」の影響だ。廃仏毀釈とは新政府が出した神仏分離令に端を発した仏教への迫害のこと。鹿児島県では寺院が1つ残らず打ち壊され、宮崎県や高知県でも大方の寺院が消滅した。
廃仏毀釈の影響は凄まじく、約9万カ寺あった寺院がわずか数年の間に半減したとも言われている。今でも鹿児島県、宮崎県、高知県では寺院が少ないのは廃仏毀釈の影響である。
特に鹿児島県では江戸時代の寺院分布が完全にリセット。廃仏毀釈の嵐が止んだ後、この寺院空白地帯において浄土真宗が大布教を実施。現在、鹿児島県内では8割以上が浄土真宗系寺院となっている。
■1200年続いた宗派の枠組みが崩壊の局面にある
以上のように日本仏教の歴史を俯瞰してみるだけでも、地域の信仰のあり方の一端を垣間見ることができる。詳しくは拙著『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)をご一読いただければ、日本における仏教構造が理解いただけることだろう。
冒頭のように、都会で「宗旨・宗派は問わない納骨堂」が増えているということは、1200年以上続いてきた宗派の枠組みが、いままさに崩壊の局面にあるという裏返しなのかもしれない。
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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)など多数。近著に『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(朝日新聞出版)。浄土宗正覚寺住職、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。
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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)
https://news.goo.ne.jp/article/president/bizskills/president_46025.html

マッチョ文化に挑む メキシコ先住民の女子ソフトボールチーム

2021-05-17 | アイヌ民族関連
AFPBB News 2021/05/16 09:00

© ELIZABETH RUIZ / AFP メキシコ・キンタナロー州ホンゾノート村で行われた「ピステの戦士」チームとの試合で、ボールを打つ「小悪魔」チームの選手(2021年4月3日撮影)。
【AFP=時事】中米メキシコ・ユカタン(Yucatan)半島の乾いたグラウンドに勢ぞろいした女性たちは、刺しゅう入りの伝統衣装に裸足といういで立ち。マヤ系先住民の彼女らはバットとソフトボールを手にし、男女差をめぐる固定観念と、この国のマッチョ文化に挑んでいる。
 ロッカールームも、端正な芝生もないホームグラウンドは、メキシコ南東部キンタナロー(Quintana Roo)州のマヤ系先住民の居住地、ホンゾノート(Hondzonot)村にある。チームは、名付けて「小悪魔(Diablillas)」だ。
 試合の観客は、ほとんどがビール片手の男たち。過酷な直射日光を避け、木陰の石の上に座っている。
 チームが最初にぶつかったのは、性差別の壁だった。「あの人たち、女性がプレーできるなんて思っていなかったんです。でも、男性と同じくらい、いや、それ以上にできることを見せてきました」とキャプテンのファビオラ・マイ(Fabiola May)さん(29)は誇らしげだ。「今では、夫たちもたくさん応援してくれます。私たちを批判する人もまだいるけれど、気にしていません」
 選手の多くは母であり、主婦だ。手工芸品を売って暮らしを立てている女性もいる。だが、新型コロナウイルスの感染拡大はメキシコにも大打撃を与え、他の商売と同じく、儲けは大きく減っている。
■「切っても切れない」民族衣装
 試合前、マイさんはマヤ語で最後の指示を選手らに与えた。
 その日の対戦チームは、隣接するユカタン州の村ピステ(Piste)から来た「ピステの戦士(Guerreras de Piste)」だ。やはりマヤ系の女性たちだが、ズボンにTシャツ、スニーカーという装いだ。
 対して、20人の「小悪魔」たちは裸足でプレーすることを選んでいる。その方がずっと楽だし、身に着けた鮮やかなウィピル同様、このチームらしさが出ている。手縫いで刺しゅうを施したウィピルは、何世代も引き継がれてきた民族衣装だ。
「ウィピルをユニフォームに決めたのは、私たちから切っても切れない、マヤ人であることの証しだから」と言うフアナ・アイ・アイ(Juana Ay Ay)さん(37)。スミレの刺しゅう入りのウィピルを着ている。
 数か月かけて出来上がる伝統衣装は、キンタナロー州の暑さを過ごしやすくしてくれる。
「小悪魔」軍はさらにイヤリングやメークをして、グラウンドに立つ。彼女たちにとって、すべての試合は祝祭なのだ。
■「私たちにはできる」
 アマチュアのチーム「小悪魔」は3年前、ホンゾノ―トの村役場が地元女性を対象にしたスポーツ振興を図って生まれた。公的な支援はなくなっていったが、選手たちのソフトボール熱は止まなかった。
 初めはテニスボールや借り物の用具を使用していたが、今では自前の用具がそろっている。憧れのプロ野球チーム、メキシコシティ・レッドデビルズ(Mexico City Red Devils)から贈られたものだ。
「小悪魔」の試合はすべて親善試合。メキシコにプロの女子ソフトボールリーグはないが、創設する話はある。
 東京五輪では初めてソフトボール競技に女子代表が出場する。チーム構成は、ほとんどが米国で生まれ米国でプレーしているメキシコ系の選手だ。
 世界野球ソフトボール連盟(World Baseball Softball Federation)の女子ランキングで、メキシコは米国、日本、カナダ、プエルトリコに続く5位。
 ソフトボールがメキシコに根付いてから1世紀以上たつが、「小悪魔」はこのスポーツの今後の成功に貢献したいと願っている。
 彼女らが住む地域社会は、長年直面している困難に加え、コロナ禍によって観光や建設業界で多くの仕事が奪われた。
「小悪魔」はガソリン代が無いために、ホームでしか試合ができない。だが、チームで積んだ経験が、グラウンドを離れても、生きることの励みになっている。
「ご覧のように、ここはたくさんのものが欠けていて貧しいです」とマイさん。けれど「やる気になればできます」と強調した。
「初めはこんなふうになると思っていませんでした。私たちにはできないとばかり言っていたけど、今なら、できるんだって知っています。そして、チームとして、もっとできることも」
【翻訳編集】AFPBB News
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/e3-83-9e-e3-83-83-e3-83-81-e3-83-a7-e6-96-87-e5-8c-96-e3-81-ab-e6-8c-91-e3-82-80-e3-83-a1-e3-82-ad-e3-82-b7-e3-82-b3-e5-85-88-e4-bd-8f-e6-b0-91-e3-81-ae-e5-a5-b3-e5-ad-90-e3-82-bd-e3-83-95-e3-83-88-e3-83-9c-e3-83-bc-e3-83-ab-e3-83-81-e3-83-bc-e3-83-a0/ar-BB1gMbiS?ocid=BingNewsSearch

アイヌ語トランプを製作 及川 久美子さん(62)

2021-05-16 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 2021/5/15配信
北海道の歴史伝えたい 笑顔と感謝の気持ちどんなときも忘れずに 生きる意味考え続けた波乱の人生
 いじめ、借金、2度の離婚とさまざまな苦難を乗り越えてきた苫小牧市弥生町の主婦及川久美子さん(62)。どんなときも笑顔と感謝の気持ちを持ち続けた。「生まれてきたからには何か役に立って死にたい」と5年ほど前から、アイヌ語を記したトランプなどを…
この続き:1,132文字
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https://www.tomamin.co.jp/article/feature/hito100/48059/

シドニー、メルボルンでパレスチナ支持の抗議集会

2021-05-16 | 先住民族関連
日豪プレス 2021年5月16日
先住民族、人権団体、政府に断固とした態度を要求
 5月15日、シドニーとメルボルンでは、パレスチナ支持の抗議集会が開かれ、数千人が参加した。
 ABC放送(電子版)が伝えた。
 この集会ではパレスチナ系コミュニティ、人権団体、政治団体の代表が発言し、パレスチナ地域の平和を呼びかけた。
 シドニー・タウンホールでは、イラク、レバノン、シリア系市民やオーストラリア先住民族アボリジニ・コミュニティも参加し、パレスチナ旗を持った大人や子供が、「ガザ解放」や「パレスチナ万歳」のスローガンを唱えた。
 当初、エルサレムでの抗議に始まった動きにパレスチナの政治団体「ハマス」がイスラエルにロケット弾を発射する行為で加担し、イスラエル政府が「自衛」を唱えて、イスラエル軍がミサイル、空軍機、戦車砲などでパレスチナ領ガザに猛攻撃を加えており、戦線はパレスチナ西岸地区やレバノン国境地域にまで広がっている。
 パレスチナ保健省の発表によると、ガザ地区で死者は130人にのぼり、950人が負傷している。一方、イスラエル側の死者は9人と発表されており、ネタニャフ・イスラエル政権はハマスのロケット弾攻撃に対して一歩も引き下がることはしないと語っている。
 オーストラリア国内のイスラム教聖職者、グランド・ムフティー、イブラヒム・アブ・モハメド博士は、「私達は、世界中、とりわけオーストラリアが、このような殺戮行為に対して断固とした態度を取るよう要求する」と発言した。
 メルボルンの州立図書館前でも「パレスチナ解放メルボルン」グループ主催の抗議集会が開かれ、代表が、「イスラエルの爆撃下で人々はいちばんいい服を着て寝ている。眠っている間に殺されるかも知れないからだ」と発言した。
 図書館前での集会の後、4,000人ほどの参加者はVIC州議事堂までデモ行進をした。
 5月15日は、1948年にパレスチナ人の土地にイスラエル建国が宣言された日で、パレスチナ人は、「ナクバ・デー(大災厄の日)」と呼んでいる。
■ソース
Thousands attend pro-Palestinian protests in Sydney and Melbourne
https://nichigopress.jp/ausnews/206262/

「翻訳と文学」書評 他者と共にいるために

2021-05-15 | アイヌ民族関連
好書好日 2021/05/15 07:00

「翻訳と文学」書評 他者と共にいるために(好書好日)
「翻訳と文学」 [編著]佐藤=ロスベアグ・ナナ
 トランスレーション・スタディーズ。異なる言語を生きている他者を、いかに理解するのか。
 錚々(そうそう)たる作家、詩人、翻訳者、研究者らによる、それぞれの最新の「翻訳と文学」論を読むと、「文芸の本質には創作だけでなく編纂(へんさん)や翻訳も含まれる」ことが具体的に実感できる。とりわけ、「文化の翻訳または翻訳と権力の関係などを研究」する編著者によるアイヌ文学者・鳩沢佐美夫の「自己構築」をめぐる論考は必読だ。隣人のことばに、どんなことばで応答すれば、私たちは共にいられるのか。
 歴史は繰り返す。「他者」のいない世界なら、翻訳は不要だ。むろん、「他者」がいない世界など、どこにもない。ゆえに「文芸のみならず文化すべての基礎にある」翻訳は永遠なのだ。
 本書を出発点に、学際的で横断的な学問としてのトランスレーション・スタディーズが、今後、ここ東アジアで、どのように展開するのか追いかけたい。
https://news.goo.ne.jp/article/book_asahi/trend/book_asahi-14349880.html

<寄贈>刻まれた移民の歴史 子孫がトーテムポール寄贈 美浜・カナダミュージアム /和歌山

2021-05-15 | 先住民族関連
毎日新聞 2021/05/14 06:30
 美浜町からカナダへ渡った移民の先駆者、工野儀兵衛(1854〜1917年)のひ孫、高井利夫さん(72)=兵庫県姫路市=寄贈のトーテムポールが、同町三尾の移民資料館「カナダミュージアム」の庭に設置された。儀兵衛の胸像も併せて一般公開しており、町は「移民の歴史を後世に伝え、写真映えする場所として、新たな観光資源になれば」と期待している。
 儀兵衛は1888年にカナダ・バンクーバーに渡り、冬は農業、夏はサケ漁に従事。豊漁を目の当たりにし、三尾から次々と移民を呼び寄せ、その世話をするなど移民社会の発展に尽力した。多くの移民を輩出した三尾は「アメリカ村」と呼ばれている。
 トーテムポールは高さ約4メートル、直径約70センチ。樹齢300年のスギの丸太を使用し、カナダの先住民族の彫刻家、ダレン・イエルトンさんが制作したもので、儀兵衛に縁深いサケなどがあしらわれている。「過疎化の進む三尾地域の活性化を」と、日本カナダ商工会議所のサミー高橋会長が2019年、本場のトーテムポールを贈ることを発案し、高井さんが理事長を務めるNPO法人「国際協力推進協議会」が資金面を担い、設置が実現した。
 11日に行われた除幕式で、高井さんは「アメリカ村の歴史を風化させないためにも多くの人に訪れてもらい、本場のトーテムポールを見ていただきたい」とあいさつした。【山本芳博】
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi_region/region/mainichi_region-20210514ddlk30040326000c.html

十勝でイベント次々延期や中止 緊急事態宣言再発令へ 公共施設利用の可否検討へ

2021-05-15 | アイヌ民族関連
北海道新聞 05/14 21:39
 政府が14日、北海道に16日から新型コロナウイルスの緊急事態宣言を発令する方針を固めたことを受けて、十勝管内でイベントの延期や中止などの動きが出始めた。市町村は今後示される道の方針を見極めた上で、公共施設の利用について判断する。緊急事態宣言によって飲食店などにも影響が及ぶのは必至で、昨年4~5月に続く2度目の「我慢の時」が始まる。
 池田町の一般社団法人「いけだワイン城」は14日、22日に予定していたクラシック音楽などの演奏を聴きながらフルコースのディナーを楽しむ初の催し「夕映えの城」の延期を決めた。幕別町も17日に忠類ナウマン象記念館で開く予定だったアイヌ語地名に関する講座の延期を決定。新たな開催時期は今後調整する。
 藤丸は27~30日に予定していた札幌の人気パン店を集めたイベント「パンフェスタ」の中止を決めた。31日までの緊急事態宣言が仮に延長された場合、6月以降のイベントも見直す考えだ。新得町では16日に予定されていた町とコープさっぽろ(札幌)の植樹祭が中止になった。
 帯広市内で「旬菜まさゆめ駅前店」など居酒屋3店を経営するオオミチフーズは16日から31日まで全店休業を決定。屋台村「北の屋台」を運営する北の起業広場協同組合も「行政から休業要請が出れば従うことになる」と話す。
 帯広商工会議所の川田章博会頭は14日の記者会見で、緊急事態宣言の発令について「痛みを伴うが、地域経済界で結束を固め、ワクチン接種まで我慢する必要がある」と話した。同会議所は26日の議員総会を延期するなど、今月中は各種会議を開かない方針だ。会見に先立ち川田会頭は十勝総合振興局と帯広市役所を訪れ、管内の大規模イベント施設に対してコロナ対策の徹底を指導するよう求める要請書を提出した。
 帯広市は公共施設の利用や主催イベント開催の可否について、道の要請内容を確認した上で15日にも決定する。広尾町は17日に対策会議を開く予定だ。(高橋澄恵、古谷育世)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/543997

今日は何の日:5月14日

2021-05-15 | アイヌ民族関連
ニッポンコム 5/14(金) 8:58
1971(昭和46)年 第48代横綱大鵬が引退を決め、二所ノ関部屋で記者会見した。大相撲夏場所中で、前日、小結貴ノ花(当時、元大関)に敗れたのが現役最後の一番だった。1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに「柏鵬 (はくほう) 時代」を築いた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称された。69(昭和44)年、30回優勝を記念して日本相撲協会から一代年寄「大鵬」の名跡を贈られた。
「ウルフ」千代の富士 涙の引退
1991(平成3)年 第58代横綱千代の富士が引退。夏場所初日、前頭貴花田(当時、後の第65代横綱貴乃花)に敗れ、3日目の貴闘力戦にも敗退し、その夜緊急記者会見で引退を表明した。会見の冒頭、「体力の限界…」と口にした後、言葉が出ない。ハンカチで涙を押さえ「気力もなくなり、引退することになりました」と絞り出すように続けた。あと1回で大鵬の32回に並ぶ最多優勝記録。「ウルフ」と呼ばれた大横綱が無念さを吐露した。力士としては小柄で、肩の脱臼にも悩まされた。それをカバーするためウエートトレーニングで筋肉を付けた。努力を積み重ねた末の引退表明は、ちょうど20年前に横綱大鵬が土俵を降りたのと同じ5月14日だった。
その他の出来事
大久保利通、凶刃に倒れる
1878(明治11)年 内務卿大久保利通が暗殺された。明治天皇に面会するため、早朝馬車で自宅を出て紀尾井町清水谷に差し掛かったところ、帯刀し待ち伏せしていた6人に馬車から引きずり降ろされ惨殺された。西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)と並んで「維新三傑」と称された大久保の遭難は「紀尾井坂の変」といわれる。77(明治10)年の西南戦争で、薩摩藩時代からの盟友である西郷の討伐を指揮したことで、政府に反発する不平士族の恨みを買った。テロの首謀者が石川県人だったため規模の大きな同県の勢力をそぐ目的で、政府は旧越前国を福井県に、旧越中国を富山県に分割した。
民間の唱歌教科書が発刊
1888(明治21)年 小学校用唱歌教科書『明治唱歌』第1集が発刊された。詩人・国文学者の大和田建樹、雅楽師・作曲家の奥好義が編集し、全29曲を収録。明治25年発行の第6集まで作られた。スコットランド民謡など外国曲を基に大和田が作詞した作品が多いが、一部に奥ら日本人が作曲したものも収載された。文部省音楽取調掛(後の東京音楽学校、現東京芸術大音楽学部の前身)が編集した『小学唱歌集』とは異なり、民間で作られ文部省の検定を受けた教科書。
喜劇王・チャップリンが初来日
1932(昭和7)年 「喜劇王」と呼ばれたチャールズ・チャップリンが日本訪問。チャップリンは4回訪日しており、世界周遊の途上、初来日だった。翌日には海軍将校らのクーデター五・一五事件が起こるが、滞在を続けた。歌舞伎や相撲を楽しみ、斎藤実首相、永田秀次郎東京市長らと会談した。
アイヌ文化振興法が公布
1997(平成9)年 アイヌ文化振興法が公布された。正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」。日本の少数民族、アイヌを固有の民族として初めて法的に位置づけた法律で、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現」を目的に、国と地方自治体の責任としてアイヌ語やアイヌ文化の継承者の育成、調査・研究、国民への啓発などの文化振興策を行うと定めた。これにより、明治政府が同化を目的に制定し、アイヌ民族に適用されてきた「北海道旧土人保護法」が廃止された。新法でも、アイヌの人々が求めていた先住権などの民族の権利は盛り込まれず、先住民族の権利が見直されている先進国と比べ、日本は大きく後れていた。こうした現状を改善するため、初めてアイヌを「先住民族」と規定したアイヌ新法が2019(令和元)年にやっと、成立・施行された。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fff247cf3be4141dff7c1401125d9e471f2332f4