先住民族関連ニュース

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聖なる力で大地と魂を結ぶ翡翠の地

2014-03-25 | 先住民族関連
日経ウーマンオンライン‎ - 2014年3月25日
ニュージーランド・エイダ湖の河原を歩く
 ニュージーランド南島には、先住民マオリが「翡翠(ヒスイ)の土地」と呼ぶ地域がある。足元の河原には、数えきれないほどの小石が転がっている。一緒に歩いていたジェフ・マフイカが突然かがみ込んで、何かをそっと掘り出した。
 ニュージーランドの先住民マオリが「ポウナム」と呼ぶその石は、太陽にかざすと灰色がかった緑色に輝いた。本物の、翡翠だ。
 「最初に見つけた石は手元に置かない、というのが私たちの習わしです」。そう言って私に石を手渡すマフイカは、マオリの翡翠彫刻家だ。このとき私はひらめいた。「穴を開けてくれませんか? この土地を一生忘れないように、首に下げておきたいのです」
山々を生み、翡翠を生んだ大地の力
 マオリ語で「翡翠の土地」を意味するテ・ワヒポウナムは、1990年に世界遺産に登録された。ニュージーランド南島の南西端に位置し、四つの国立公園と自然保護区からなる。
 故郷ニュージーランドのなかでも、この一帯は最も頻繁に訪れる。私たちが今いるカスケード渓谷は、沿岸道路の終点から徒歩1時間ほど。振り返ると午後の陽光を浴びたレッド・ヒルズ山脈が見える。あの山々を生み出した地殻変動の力が、美しい翡翠を誕生させたのだ。
 私たちは川岸をゆっくりと歩いた。地面を見つつも、むきになって探してはいけない。マオリの言い伝えでは、翡翠は「見つけるもの」ではなく、「石のほうから姿を現すもの」だからだ。とはいえ、よく似た緑色の石は山ほどあり、本物を見つけ出すのは容易ではない。
 マオリがこの土地の主だった時代、最も珍重された天然資源は翡翠だった。鋼鉄よりも硬く、加工して道具や装飾品を作るには長い時間がかかる。数週間、数カ月といった作業の過程で、石には持ち主の魂が宿ると考えられた。誰かが亡くなると、その人が大切にしていた翡翠を一緒に埋葬し、後で掘り出して子孫が受け継ぐという風習もあった。翡翠はそうして時を超越し、聖なる絆で世代間の魂を結びつける。
 マオリの世界観では、物はその出所を物語るとされている。つまり、クジラの骨ならクジラ、木材なら切り出される前の樹木、翡翠の場合はその源である山や川について教えてくれるのだ。
 翡翠は水と氷の働きで母岩から少しずつはがされ、川によって海へと運ばれる。
 「翡翠は常に移動しています」とマフイカは言った。「部族に伝わる物語のなかでは、この石を“魚”と呼びます。旅をするのは人間と同じですね」
(※ナショナル ジオグラフィック2014年3月号特集「ニュージーランド南島の大自然 大地と魂を結ぶ緑の石」より)
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20140228/174602/

ニワトリは太平洋を渡り切らなかった?

2014-03-25 | 先住民族関連
アメーバー 2014年03月24日 15時25分
提供:ナショナルジオグラフィック
 ニワトリは本当に太平洋を渡って南米に持ち込まれたのだろうか。どうやら、渡ってはいない。少なくとも、渡り切らなかったようだ。
 ミクロネシアとポリネシアに分布する古代と現代のニワトリの系統についてDNAを調査している研究者らが、これらが南米のニワトリとは遺伝的にはっきり異なっていると判定した。この研究は、数百年前にポリネシアの船乗りたちが、ヨーロッパの冒険者たちに先んじて南米の岸に到達していたかもしれないという魅力的な説に真っ向から反論するものだ。
 ポリネシア人と南米先住民が接触していた可能性を示す興味深い証拠の1つに、南米にはもともといなかったはずのニワトリがコロンブス到達以前に存在したらしいという推定があり、南太平洋の島から来た船乗りによって大陸にもたらされたと言われている。さらなる証拠は、南米原産であるサツマイモが南太平洋のどこへ行っても見られることだ。1770年にジェームズ・クックがこの地域を航海したときには、すでに広い範囲の島々にサツマイモが分布していた。
 しかし、アデレード大学オーストラリア古代DNAセンター所長で、17日に発表された論文の共同著者であるアラン・クーパー(Alan Cooper)氏によれば、少なくともニワトリに関しては両地域間で関連はないらしい。
 研究チームは、ポリネシアの遺物発掘地点から出土したニワトリの骨22本と、現在南太平洋の島々に生息するニワトリの羽122本から採取したミトコンドリアDNAの配列を解析した。研究では酵素の一種を用い、従来の研究結果を誤らせていた可能性がある現代のDNAによる汚染を取り除いた。「汚れを落とした」ポリネシアのニワトリと、古代と現代の南米のニワトリのDNAを比較した結果、2つの集団が遺伝的に明らかに異なっていることが分かった。
◆南太平洋への進出
 南太平洋に人が住み始めた過程には2つの段階があった。1回目は3000年以上前のことで、ラピタ人の名で知られる謎の多い船乗りたちがパプアニューギニアのビスマルク諸島を後にし、太平洋の青海原へと漕ぎ出した。驚くべきことに、彼らはバヌアツ、フィジー、トンガ、サモア、ニューカレドニアなど、熱帯に隠されていた楽園のような数百の島々を数世代のうちに見つけ出し、定住することができた。
 彼らは探検家ではなく開拓者として海を渡った。新しい土地が見つかるという確信の下、家族を連れ、道具を作るフリント石器、陶器、食料など、新しい住みかを作るのに必要と思われる物を全て携えて出発した。そこにニワトリも含まれていた。
 2段階目は、ずっと後の紀元800年前後から始まった。彼らは東太平洋の広大な海へと進出し、タヒチ、ボラボラ島、マルキーズ諸島、イースター島、ハワイにまで到達した。こうした驚異的な海の旅を彼らがどのように成し遂げたのか、なぜ船出を決めたのか、正確なところは謎のままであり好奇心をそそる。彼らは文字による記録を残さず、遺物もほとんどないからだ。
 太古のポリネシア人が航海に使ったカヌーの1隻すら現代には残っておらず、研究の手掛かりはごくわずかだ。考古学者たちは、広範囲の島々に散らばった骨や陶器のかけら、南太平洋の開拓者たちが運んだ植物や家畜、そして今生きている彼らの子孫たちが持つDNAの鎖といった証拠から、壮大な移住の物語を編み出すことを強いられてきた。
◆骨が論争の的に
 ポリネシア人が南米にニワトリを持ち込み、長い航海の証拠として残ったのかもしれないという考えは、ごく最近出てきたものだ。研究者たちは長年にわたり、ポルトガルやスペインから到達したばかりのヨーロッパ人探検家たちが、ウマ、ブタ、ウシと共にニワトリを南米に連れて来たと考えていた。
 ところが2007年に行われた研究で、チリ、サンティアゴ近郊の発掘地点から出土したニワトリの骨を放射性炭素年代測定法で調べた結果、1321~1407年とヨーロッパ人到達よりずっと以前のものであることが分かった。年代の古さ、太平洋岸という位置、そしてポリネシアのニワトリに共通する特徴的な遺伝子突然変異がこの骨にも存在したことから、この肉厚の鳥が南太平洋の航海者たちによってもたらされたのではという興味深い推測が示された。
 コンサルティング会社「アーチャーCRM」の考古学者で、チリでの2007年の調査を率いたアリス・ストーリー(Alice Storey)氏は、「それが最も可能性の高い説明だ」と語る。「ニワトリの伝播ルートとして考えられるものをいくつも調査したが、いずれもポリネシア起源説ほどの説得力はない」。
 だが1年もしないうちに、この結果には他の研究者から疑問が呈されることになった。チリで出土したニワトリのDNAをクーパー氏のチームが分析したところ、骨の年代は誤りで、ポリネシアの祖先に由来すると考えられた遺伝子突然変異は、実際には世界中のニワトリに見られるごく一般的な変異だと示された。この時の成果が、ポリネシアのニワトリについてDNAを調査した17日発表の研究の基礎となっている。
 この研究結果は3月17日、「Proceedings of the National Academy of Sciences」オンライン版に掲載されRoff Smith for National Geographic News
http://news.ameba.jp/20140324-331/

【中国時報】日本植民時の洋館 高級レストランに

2014-03-25 | 先住民族関連
琉球新報 2014年3月24日
 有機農業で有名な台湾の永豊余(えいほうよ)バイオテクノロジーは先日、台湾でも数少ない台湾古来の調理法で安心安全な食材を調理した高級レストラン「山海楼」を4月にオープンさせると発表した。近年増加している海外からの富裕層にターゲットを絞っている。
 場所は中山北路と南京東路の交差点近くという台北中心部の好立地。日本植民地時代に医師が建てたバロック風の洋館を改装した。土地の確保が非常に難しい台北中心部で、一戸建て庭付きのレストランは非常に珍しい。
 食材は全て同社の契約農家で生産した有機野菜と契約牧場生産の肉のみを使用。台湾古来の調理法にこだわったばかりでなく、台湾先住民が使用する「馬告」(一名「山胡椒」)などを使った料理も他にはない特色だ。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-222061-storytopic-1.html

クリミア編入 国連総長「建設的対話を」 ウクライナ大統領代行と会談

2014-03-25 | 先住民族関連
赤旗 2014年3月23日(日)
 【ワシントン=島田峰隆】国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長は21日、ウクライナの首都キエフで同国のトゥルチノフ大統領代行と会談し、ロシアとの「建設的な対話」を求めました。同日にはシモノビッチ国連事務次長(人権担当)がクリミア半島入りし、人権監視団の派遣に向けてクリミア自治共和国首相らと協議しました。
 ロイター通信によると、潘氏はトゥルチノフ氏との共同記者会見で、ロシアによるウクライナ南部クリミアの編入について「和平対話が遅れるほど状況に対処できなくなる危険がいっそう増す」と懸念を表明。両国による「建設的な直接対話」を求めました。
 潘氏は「今回の危機は、ウクライナの主権、統一、領土保全の尊重を含む国連憲章の諸原則に基づいた平和的な外交と、平和と安全を求める政治家らしい決意を通じてのみ解決できる」と強調しました。また5月に予定されている大統領選挙への支援を表明しました。
 トゥルチノフ氏は「われわれはいかなる形態であれロシアと交渉を始める準備がある。ただし主要な論点はロシア軍のウクライナ領土からの完全撤退になるべきだ」と語りました。
 一方、シモノビッチ事務次長はクリミア自治共和国のアクショノフ首相のほか、少数先住民族クリミア・タタール人のチュバロフ民族会議議長、親ロシア派から武装解除を求められているウクライナ軍兵士とその家族らとも面会しました。
 国連はシモノビッチ氏のクリミア入りを「人権監視団を設置するための地ならし」としています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-23/2014032306_01_1.html

■ 白老・アイヌ文化伝承へ決意、5人が修了証書

2014-03-25 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2014年3月22日(土)朝刊】
 アイヌ文化振興・研究推進機構(札幌)による第2期伝承者育成講座の修了式が20日、白老町アイヌ民族博物館で開かれ、3年間の研修を終えた5人が修了証書を受け取った。
 同機構の西田俊夫専務理事が「これからそれぞれの地域でアイヌ文化の伝承活動を担うリーダーとして活躍するよう期待します」とあいさつ、一人一人に修了証書を手渡した。
 修了生たちは「この3年間勉強したことは一生忘れない。4月から帯広に帰るが、後輩に教えていけるよう頑張りたい」「教わったことを糧としていろいろな人に伝えていく努力をしたい」「3年間続けられて本当に良かったと思います。言葉で言い表せないほど感謝の気持ちでいっぱいです」と涙ぐみながら謝辞を述べた。
 講座は2008年(平成20年)から同博物館を拠点に実施している。アイヌ民族の子弟を対象に3年間のカリキュラムの中で、アイヌ語や伝統工芸、歌、踊り、儀礼などについて総合的に勉強。アイヌ文化を根底から支える総合的な人材(伝承者)の育成や活動の推進を目的にしている。14年度から第3期講座が始まる。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2014/03/22/20140322m_07.html

アイヌ奨学生が卒業・・・札幌大

2014-03-25 | アイヌ民族関連
(2014年3月22日 読売新聞)
 札幌大学の卒業証書・学位記授与式が21日、札幌市中央区のニトリ文化ホールで開かれた。904人の卒業生らの中にはアイヌ民族を対象にした奨学生制度の1期生3人も民族衣装を身にまとって式に臨んだ=写真=。
 同大では、アイヌ文化の担い手育成を目的に、2010年度からアイヌ子弟への奨学金制度を柱とした「ウレシパ・プロジェクト」を導入。ウレシパはアイヌ語で「育てあい」を意味し、アイヌ文化やアイヌ語の勉強会を行ったり、学内でイベントを企画して舞踊を披露したりしている。
 1期生3人は、アイヌ文化にかかわる仕事に就いたり、進学したりする予定。山本りえさん(26)は「4年間で自分がアイヌ民族であることに自信を持てた。今後もアイヌ文化を伝えたい」と、意欲をみせていた。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20140321-OYT8T00952.htm

札幌大:ウレシパ奨学生1期生 アイヌ民族衣装で卒業式

2014-03-25 | アイヌ民族関連
毎日新聞 2014年03月21日 22時10分(最終更新 03月21日 22時15分)
 札幌大の卒業式が21日、札幌市中央区であり、アイヌ子弟を対象にしたウレシパ奨学生の1期生、北嶋由紀さん(40)がアイヌ民族衣装を着て出席し、卒業証書を桑原真人学長から手渡された。北嶋さんは「アイヌ民族としての誇りを学べた」と、充実した大学生活を振り返った。
 ウレシパ奨学生は、札幌大が導入したアイヌを対象とした全国初の奨学制度で、年間授業料や入学金を免除。「ウレシパ」とはアイヌ語で、「育て合う」の意味で、仲間が助け合いながら民族共生の社会を築こうという願いが込められている。
 北嶋さんは浦河町出身で、アイヌであることを周囲に隠して暮らしてきた。しかし、30代でアイヌ刺しゅうの魅力に触れ、ウレシパ奨学生としてアイヌ民族のことを学び直そうと入学した。「この4年間で自分の考え方が大きく変わった。アイヌ文化を一生懸命学ぶ人の存在を知り、自分も負けられないと思いました」と決意を新たにした。【千々部一好】
http://mainichi.jp/select/news/20140322k0000m040085000c.html

■ 白老・アイヌ民族博物館支援継続、町「役割は重要」

2014-03-25 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2014年3月21日(金)朝刊】
 白老町議会予算等審査特別委員会が20日開かれ、町側は白老・アイヌ民族博物館の支援について「象徴空間開設に向けアイヌ文化を継承し、同博物館の役割は大変重要という意味で経営支援を継続する」と述べた。
 2014年度(平成26年度)予算でアイヌ民族博物館を支援する補助金1500万円を盛り込んでいる。白崎浩司副町長は「新しい博物館の運営方法が協議されているが、白老のアイヌ民族博物館がどう関わるかが分かるまで支援していきたい」と述べた。
 象徴空間整備促進事業として予算案に盛り込んでいる探検家・松浦武四郎(1818~1888)の記念碑設置(32万4千円)について「白老はじめ道内全域を歩いた武四郎はアイヌの人たちの窮状を世の中に文書、絵で知らしめた。アイヌと和人の中間に立って共生の歴史を地で行った方」と選定理由を述べ、設置場所は若草町のアイヌ民族博物館敷地内とした。
 同博物館の13年度の経営状況は2億2386万円の収入に対して支出は2億2206万円で約180万円の黒字の見通し。12年度は約800万円の赤字だった。
 象徴空間整備に伴う国による整備地購入について白崎浩司副町長は「国とは具体的に協議はしていない。買っていただくということで交渉していきたい」と述べた。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2014/03/21/20140321m_07.html

ピヤラ アイヌ民族の今

2014-03-25 | アイヌ民族関連
標茶コタンをモデルに書いた父の物語 「シワンプトの人々」1冊に
北海道新聞 (2014/03/11)
中標津出身、吉沢さん出版 明治以前の生活、自然観 生き生き
 中標津町計根別出身の元NHKアナウンサー、吉沢紘さん(74)=神奈川県大和市在住=が、標茶町虹別に実在したアイヌコタンをモデルに父親の虎三さん(1989年没)が書いた物語「シワンプトの人々」を自費出版した。明治以前のアイヌ民族の生活や自然観を生き生きと表現しており、紘さんは地元の子どもに読んでもらおうと中標津町などの小中学校や図書館に寄贈した。(長谷川裕紀)

 根室管内の小中学校長などを務めた虎三さんは、虹別のふ化場でアイヌ民族と働いたことのある義理の父や、中標津町の小学校に赴任していた時に地域のアイヌ民族から話を聞き創作した。紘さんは「史実と異なる部分もあるが、自身がアイヌ民族の人々と交流して感じた自然を大切にする考え方がよく表れている」と説明する。
 物語は有珠(現在の伊達市)に住んでいたアイヌ民族の一族が部族同士の争いを避けるため東蝦夷(えぞ)のシワンプトに移り、コタンを築く内容。一族は有珠で測量家、伊能忠敬に出会い寝食を共にし、兄弟のように話を交わす。シワンプトに着くと、争いがなく人が自由に出入りできるコタンをつくることを決意。サケを捕ったり山菜を摘んだりして食料を確保し、チセ(家)も建設する。厚岸の国泰寺では和尚から冬に生活するための助言を受ける場面もある。川や木々、シマフクロウ、クマなどに出合うたびに、そこに宿る神々を敬う。
 紘さんは中標津町や羅臼町などで幼少時代を過ごした。高校生のころに神奈川県に引っ越し、NHKに入局後は全国で勤務。退職後に「アイヌ民族の生活や考え方を子どもたちに知ってほしい」と思い立ち、虎三さんが75~84年に中標津の地域の文芸誌「北のふるさと」に連載していた物語を本にまとめ昨年12月、200冊を出版した。挿絵入りで、縦19.5センチ×横20センチ、92ページ。関係者に配ったほか、中標津、別海、標津、標茶の小中学校に寄贈した。
 虎三さんが中標津中校長だった時期に同校に勤務した元教員、戸田峰雄さん(75)=中標津町在住=は物語について「当時のアイヌ民族の生活をよく知っている人でなければ書けない文章」と評価する。
 虎三さんは若手教員の背中をいつも押してくれる存在だったといい、「職場の仲間や親の信頼も厚かった」と振り返り「生きているときにもっと話を聞いておきたかった」と惜しむ。
 「シワンプトの人々」は中標津町図書館や標茶町図書館で読むことができる。
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/piyar/227310.html

リマ…ダニエル・A・ロブレス 先住民音楽に光

2014-03-25 | 先住民族関連
(2014年3月21日 読売新聞)
 アンデス地方の伝統的な笛サンポーニャの素朴な音色と、哀愁を帯びたメロディー。1970年代に米国の男性デュオ、サイモン&ガーファンクルがカバーし、世界中でヒットした「コンドルは飛んでいく」が演奏されると、客たちはしんみりと聞き入った。
 ペルーの首都リマで、ペーニャと呼ばれる民謡酒場の一つ「ジュリウス」では、この曲は夜ごと開かれる民族音楽ショーで毎回必ず演奏される。作曲者は、ダニエル・アロミア・ロブレス。ペルーの国民的音楽家だ。
 リマの北東約410キロ、アンデス山脈沿いの中部ワヌコで、欧州系の父と、先住民系の母の間に生まれた。家計は裕福だったらしく、中学からリマの全寮制学校に送り出された。医者になろうと、いったんは国立サンマルコス大に進んだ。だが薬草採集などで訪ね歩いた山岳地帯で、そこに生きる先住民の音楽の魅力にとりつかれた。古老から民謡を聞き取っては楽譜にする作業に熱中し、大学を中退した。その後は、独自のアンデス風の楽曲を作るようになり、音楽家として身を立てた。
 オリジナル曲の一つが、「コンドルは飛んでいく」だ。同名のサルスエラ(スペイン歌劇)のための作品で、1913年12月にリマの劇場で初演。当初から一定の評判を得たが、サイモン&ガーファンクルがカバーした後、知名度は格段に上がった。ペルー音楽を世界に広めたとして、今では国家文化遺産に指定され、「第二の国歌」とも呼ばれている。
 この曲が有名になったことだけが、ロブレスの功績ではない。
 20世紀初頭のペルーで、先住民文化は欧州系より劣ったものとして侮蔑されていた。そんな時代に、彼らの音楽に初めて価値を認めたことこそが偉大だとする評価が多い。音楽ジャーナリストのビクトル・モリナ氏(32)は、「それまで、ほとんど無視されてきた先住民の音楽を通して、彼らのことを理解しようとした」と語った。
文化融合の先駆け カトリカ大民族音楽研究所のレナト・ロメロ教授(60)は、ロブレスがアンデス風作品を、サルスエラなど西洋の様式で表現した点に着目する。「おかげで先住民音楽がスペイン系の人々にも身近になった。二つの民族を近づけることに貢献した」
 現代のペルーでは、多様な文化の「フュージョン(融合)」がペルー文化の本質だと考えられている。この概念が形成される過程で、先駆的な役割を果たしたのがロブレスだというわけだ。
 ペルーで今、「コンドルは飛んでいく」のほかに、ロブレスの作品が演奏される機会は少なくなった。だがペルー国立音楽学校のフェルナンド・デ・ルキ校長(51)はこう解説する。「ロックやポップスにアンデス音楽の要素を取り入れる試みは今も盛んだ。その意味で、ロブレスの精神は引き継がれている」(文と写真 浜砂雅一)
ダニエル・アロミア・ロブレス(1871~1942)
 ペルーの作曲家、民族音楽研究家。代表作は「コンドルは飛んでいく」「太陽への賛歌」など。国立サンマルコス大医学部中退。20代の頃、ペルー各地で先住民音楽を調べ、600曲以上を採譜した。40代後半から14年間、米国に滞在し、ペルー音楽に関する講演活動などを行った。帰国後、ペルー教育省芸術局長。敗血症のため、71歳で死去。
http://www.yomiuri.co.jp/otona/trip/earth/20140314-OYT8T00612.htm?from=os4

社説 クリミア併合 冷戦期に逆戻りするのか

2014-03-25 | 先住民族関連
琉球新報 2014年3月21日
 ロシアのプーチン大統領がクリミア編入を宣言した。のみならず、ロシア軍とおぼしき部隊がウクライナ軍基地を襲撃した。政治的対立を越え、もはや戦争の様相だ。
 ソ連のアフガニスタン侵攻を想起させる。冷戦後の世界は、旧西側諸国だけでなくロシアも含めた枠組みで安定を図ってきたが、その秩序が崩壊しかけている。プーチン氏は世界を冷戦時代に戻すつもりか。
 今回の措置に世界の賛同は得られない。ロシアはクリミア編入を白紙に戻し、平和を確立すべきだ。
 クリミアは1954年、ソ連共産党のフルシチョフ第1書記が友情の証しとしてロシア共和国からウクライナ共和国に譲った地だ。両共和国ともソ連の一部だったから、単なる行政区分の変更にすぎなかったが、ソ連崩壊でウクライナが独立、ロシアにとりクリミアは「外国」になった。フルシチョフの措置は住民の意思を問わずに行ったものだ。だからロシア側は今回、その「歴史的誤り」を正したにすぎないと主張している。
 だが、もともとこの地の先住民はクリミア・タタール人やゴート族だ。18世紀にロシア帝国が併合し、ロシア人やウクライナ人の植民を進めた。ソ連発足後にはタタール人を中央アジアに追放し、近年になって帰還を許したという経緯がある。「歴史的誤り」を問うなら、その不当性も問うべきだ。
 今回、「独立とロシア編入」を問う住民投票を経たことで、ロシアは民主的正当性を主張している。だがこの投票は告示からわずか10日でなされた。しかも数万人規模のロシア軍を展開した上でのことだ。いわば、喉元に短刀を突き付けた上で問うた民意である。「民主的に正当」のはずがない。「力による国境変更」と非難されるゆえんだ。
 ただロシアから見ると、冷戦後の西側諸国は、東側の混乱に乗じて勢力拡大を図ったように見えるのだろう。北大西洋条約機構(NATO)は旧東側諸国にまで拡大、ロシアの隣国にまで弾道ミサイル防衛を配備しようとした。米国のイラク開戦も国際規範の無視だ。今回のロシアの無謀な行為は、冷戦後の野放図な在り方が準備した側面もある。
 もう一度国際規範を再構築すべきだ。ロシアも今回の編入を白紙に戻すことで発言権を回復し、新たな国際規範の形成に寄与する方が国益にかなうはずだ。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-221771-storytopic-11.html

札幌初の国際的なアートフェスティバル「札幌国際芸術祭 2014」を開催

2014-03-25 | アイヌ民族関連
ART|坂本龍一氏がゲストディレクターに就任
OPENERS‎ -2014.03.20
北海道・札幌市全体が舞台となる、国際アートフェスティバル「札幌国際芸術祭 2014」は2014年7月19日(土)から9月28日(日)まで、72日間にわたり開催する。世界的に著名な音楽家であり、近年はアート界での活動も積極的な坂本龍一氏をゲストディレクターに迎え、国内外で活躍する現代美術のアーティストたちが、札幌市内各所でさまざま開催テーマは「都市と自然」
「地域」がホストとなり、札幌の歴史、風土、インフラ、産業、食をはじめとするライフスタイルなどに焦点を当て、ゲストディレクターである坂本龍一氏が熟慮した開催テーマ「都市と自然」のもとに、「札幌国際芸術祭 2014」を作り上げるという。展示スペースは札幌の自然や街なみ、公園、歴史的建造物、地下歩行空間、美術館など、新たなアイデアと視点で芸術祭全体を構成していく予定。
また、芸術祭の目的は札幌の都市・環境課題や過去の歩みをアートとして振り返ることで、自然、都市のあり方、経済、暮らしを模索し都市と自然との共生を問いかける。現代アートを中心に、音楽、パフォーミング・アーツ、メディア・アートといった各種プログラムを用意。さらに、ワークショップなどに参加し、地域に触れてさまざまな人と交流することもできる。
坂本龍一氏はゲストディレクターを引き受けた理由についてこう語った。「僕はやはり北海道・札幌にとても愛着があるある。もちろんご飯もおいしいし、景色もキレイだし、でもそれだけではない。先住民族が長くその文化を守ってきてくれたことに対し、リスペクトを強く感じている。いろんな意味で札幌は、日本の近代を最もシンボライズする町として存在し、異なる角度から見ると、とても面白い、興味深いところだと思うからだ」
札幌国際芸術祭2014
期間|2014年7月19日(土)~9月28日(日)
ゲストディレクター|坂本龍一
アソシエイト・キュレーター|飯田志保子、四方幸子
参加アーティスト(一部のみ)|岡部昌生、高谷史郎、宮永愛子、進藤冬華、真鍋大度、毛利悠子、山川冬樹など
創造都市さっぽろ・国際芸術祭実行委員会 国際芸術祭事務局
Tel.011-211-2314
www.sapporo-internationalartfestival.jp/ な展示やプロジェクトなどを展開する。
http://openers.jp/culture/tips_art/news_siaf_2014_44062.html

台湾野球映画に自ら応募した日本人!俳優・大倉裕真が挑んだ現地撮影の半年とは?

2014-03-20 | 先住民族関連
 [シネマトゥデイ映画ニュース] 2014年3月19日 20時32分
 永瀬正敏主演の台湾映画『KANO』(マー・ジーシアン監督)に出演した俳優の大倉裕真が、このほど行われた第9回大阪アジアン映画祭でインタビューに応じた。同作品は日本統治下の1931年に日本人・台湾人・先住民の混成チームで甲子園出場を果たした嘉義農林高校の軌跡を追うもので、俳優陣も多民族が集結することになったが、大倉は「僕らも一致団結して同じ方向へ向かっていくことができたと思う」と撮影を振り返った。
 大倉は11歳から芸能活動をはじめ、映画『ブタがいた教室』(2008)の生徒役ではアドリブ芝居、映画『金星』(2011)では視覚障害者と難役に挑んできた。『KANO』では少年野球の経験が生かせると自らオーディションに応募してチャンスを得た。大倉は「資料映像などを送ったところ、マー監督が『どんな人物か自分の目で確かめたい』と東京の事務所まで僕に会いに来てくれたんです」と語り、マー監督の熱意に胸を打たれたという。
 しかし撮影は過酷だった。実話にのっとり、大倉は初めて一塁を守ることに。マー監督からは、捕球する際に180度開脚をするよう命じられた。身体の硬い大倉は、1か月間ひたすら柔軟体操をして要望に応えたという。そもそも撮影は当初、3か月の予定だった。しかし悪天候なども重なり6か月に及ぶ。言葉もわからずに1人で現地に乗り込んだ大倉だったが、いつの間にか中国語でコミュニケーションが取れるほどになっていた。
 大倉は「負けず嫌いで一つのことに熱くなるのは役柄と共通しているかもしれません。練習期間を含めてひたすら野球漬けの環境は、自分をより一層ストイックにさせてくれました。加えて近藤兵太郎監督役の永瀬(正敏)さんに引っ張っていただきました。カメラが回ってないときでも近藤監督そのままで、毎朝お会いした瞬間に役柄同様に直立不動になってしまうくらい、オーラがすごかった」と語る。
 その苦楽を共にした共演者たちは、投手役のツァオ・ヨウニンが台湾の大学野球で奮闘しているようにそれぞれの生活に戻った。大倉も大学に合格し、4月からも引き続き学業と俳優の両立を目指すという。しかし台湾では現在『KANO』旋風が起こっており、日本公開に向けて大倉への注目度も高まりそうだ。(取材・文:中山治美)
映画『KANO』は2015年日本公開予定
http://www.cinematoday.jp/page/N0061558

国など広めるアイヌ語イランカラプテ 北海道民7割知らず

2014-03-20 | アイヌ民族関連
<北海道新聞3月19日朝刊掲載> こんにちはを意味するアイヌ語「イランカラプテ」の普及を目指す「イランカラプテキャンペーン推進協議会」は18日、道民と来道経験のある首都圏在住者を対象に、イランカラプテという言葉の認知度などを調べたアンケートの結果を発表した。「何度も見聞きしている」「見聞きしたような気がする」と答えた道民は計32%、首都圏在住者は計23%にとどまった。
 協議会は国、道、アイヌ民族研究者らからなり、昨年8月から、イランカラプテを観光客へのもてなしの言葉として広める事業を始めた。アンケートは今年1月、道内在住者212人と、昨年4月以降に道内を訪れた首都圏に住む200人に聞いた。
 内閣官房アイヌ総合政策室は「まだ認知度が低く、さらなるPRが必要」と話す。
 また、「アイヌという民族やアイヌ文化などを知っているか」の問いでは、「知っている」と答えた道民は59%、首都圏在住者は52%。「聞いたことがある」と答えた道民は32%、首都圏在住者は40%だった。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/527970.html

悲劇を乗り越え馬と生きてきた北米先住民

2014-03-20 | 先住民族関連
日経ウーマンオンライン‎ - 2014年3月18日
現代社会に生きる人々の心も支える大切な「心の友」
 1874年9月28日、北米先住民のコマンチ族は運命の日を迎えた。強制移住に抵抗してきた戦士たちの最大の集団が、パロデュロ・キャニオンの野営地で陸軍に急襲されたのだ。
 襲撃を実行したのは、米国テキサス州西部に駐屯する第4騎兵連隊。マッケンジー大佐率いる騎兵たちは野営地を襲ってティピー(円錐形のテント)を焼き払い、奪取した馬1000頭以上を引き連れて再び集結した。
 このとき行われた馬の大量殺戮により、白人の侵入に抵抗してきた先住民の最後のよりどころが打ち砕かれたのだという。馬がなければ、移動も狩りも戦いもできない。族長のクアナも捕らえられた。
 これが後世に知られる、パロデュロ・キャニオンの悲劇である。
馬の登場で、騎馬の部族が有利に
 相次いで行われた馬の大量殺戮により、コマンチ族の抵抗は打ち砕かれた。だが、大平原を支配した偉大な騎馬戦士の時代が終わった後も、北米の先住民と馬のつながりが絶えることはなかった。乗馬の技術はすでにほかの部族にも広まり、狩猟や戦闘、移動における馬の利用は大平原の南から北へ、コマンチやジュマノ、アパッチやナバホといった部族から、ポーニー、シャイアン、ラコタ、クロー、さらにその他の部族へと伝わっていった。
 馬は、もともとは北米原産の動物だ。約200万年前に北米で誕生し、当時のベーリング陸橋を渡ってユーラシア大陸へと広がった。紀元前1万年頃に一度は米大陸から姿を消したが、その後、ヨーロッパからやってきた白人の征服者(コンキスタドール)や入植者たちが馬を新大陸へと持ち込み、いつしか先住民の間にも広まった。
 馬は、北米先住民の暮らしを大きく変えた。バイソン狩りの効率が上がり、季節ごとの移動や他部族の襲撃といった活動の範囲も広がった。女たちは馬のおかげで、家財道具を運ぶ重労働から解放された。部族間の勢力バランスも馬の登場で大きく変わり、農耕を営む部族よりも、馬に乗り狩猟をする部族が有利になった。やがて馬は、それまで北米先住民が飼いならしていた唯一の動物だった犬に取って代わる地位を占めるようになった。
 現代の北米先住民にとっても、馬は大切な心の友だ。馬は誇りの対象、伝統の証しであり、武勇や修練、ほかの生き物への思いやり、世代を超えて受け継がれる技能など、祖先が重んじた価値を伝えてくれる。厳しい現代社会に生きる先住民の人々を支える、かけがえのない存在なのだ。
(※ナショナル ジオグラフィック2014年3月号特集「馬と生きる 北米先住民」より)
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20140228/174621/?ref=top-kanban