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<今日の話題>藤戸竹喜の世界

2024-05-12 | アイヌ民族関連

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北海道新聞2024年5月12日 5:00

 「じっと木を見ていると姿が出てくる。あとは上手に余計な木を取り除いて、中の物を出してあげるだけ」

 事もなげに、大きな木の塊からクマやオオカミ、等身大の人物の像を彫り出し、命を吹き込む。大胆さと繊細さを兼ね備えた作家として国内外から高い評価を受けるアイヌ民族の彫刻家、藤戸竹喜さん(1934~2018年)は阿寒湖畔(釧路市)で長く暮らしていたが、実は旭川育ち。その故郷で今秋、作品展が開かれる。

 出会いは2014年。藤戸さんの半生を振り返る13回の連載「私のなかの歴史」の取材だった。釧路市の中心部から片道1時間半の自宅に通うこと3カ月。面倒になってきて怒り出し、お約束の儀式のように「もうやめる」と言い出すたびに、妻の茂子さん(75)と必死に説得したことは、今となっては良い思い出の1コマだ。

 早くに母親を亡くした藤戸さんは、旭川の小学校に通うのを2年で諦めた・・・・・

 藤戸さんはその後、北海道功労賞などを受賞し、札幌や大阪、没後には東京でも個展が開かれた。茂子さんが「作品を世に出すことが藤戸と私の望み。藤戸も喜んでいるはず」と楽しみにする「藤戸竹喜の世界展」は、道立旭川美術館で9月14日~11月17日。それに先立ち胆振管内白老町の民族共生象徴空間(ウポポイ)でも6月29日~8月25日に開催される。

 今にも動き出しそうな作品ばかり。その神業をぜひ見てほしい。(旭川報道部長・山崎真理子)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1010685/


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親子連れ 遊んで学ぶ 登別市郷土資料館が初のまつり 流鏑馬、せんべい焼き体験

2024-05-12 | アイヌ民族関連

伊藤空那 有料記事

北海道新聞2024年5月11日 20:37

流鏑馬体験で木馬にまたがり、的を狙って弓を引く子ども

 【登別】登別市郷土資料館は11日、館内の展示資料を紹介し、昔ながらの遊びなどにも親しんでもらう第1回資料館まつりを開催した。親子連れら100人以上が流鏑馬(やぶさめ)やせんべい焼き体験などを楽しんだ。

 同館は昨年まで、仙台藩白石城主片倉家の登別への入植にちなんで、武士の生活を学ぶ「わんぱくサムライ体験」を実施。今年からは、より身近な歴史や登別のことを知ってもらおうと「遊んで学ぶ」をテーマに新イベントを企画した。

 ・・・・・・

 このほか、アイヌ文化ゆかりのものや明治から昭和にかけての生活雑貨など館内の展示を見て問題を解き、景品をもらう企画や昔ながらのせんべい焼き体験が行われた。せんべいは小麦粉に塩や黒ごまなどを混ぜた生地を型に流し、炭火で焼いた。

 参加者は炭火の熱さに汗をにじませながら作っていた。青葉小4年の宿村響さんは「初めて作って楽しかった。パリパリしておいしい」と話した。

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1010627/


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保存処理のため奈良へ 国立アイヌ民族博物館 苫小牧で発見の丸木舟2隻 本格的調査度 白老

2024-05-12 | アイヌ民族関連

2024.05.11苫小牧民報

苫小牧市弁天の海岸で2021年に見つかり、白老町の国立アイヌ民族博物館で脱塩、乾燥が進められていたアイヌの丸木舟「イタオマチプ」(板つづり舟)2隻の処理が終了し、文化財の保存修復を手掛ける奈良県の専門機関に向けて10日、トラックで出発した。関係者は「本格的な調査のため、まずは必要な処理を終えて戻ることを願う」と話す。

梱包される直前の丸木舟

 丸木舟は21年1月27日、流木を拾いに来た苫小牧市民が発見。連絡を受けた同市美術博物館の職員が確認し、1・3キロ東で2隻目も発見した。一隻は全長610センチ、幅64センチ、高さ22センチ。船べりの一部が損壊している以外は完全な状態。2隻目は全長413センチ、幅45センチ、高さ10センチ。破損が進み、右舷側と船首が欠けていた。

 国立アイヌ民族博物館に搬入されたのは同年10月。同民族博物館と苫小牧市教育委員会が9月にアイヌ資料の共同研究に関する覚書を締結してからのことで、2年半かけて巨大な水槽で海風にさらされていた舟体から塩分を抜き、木を傷めないための乾燥処理を行った。

 保存処理は、奈良県南肘塚町の公益財団法人元興寺文化財研究所が手掛け、アクリル製樹脂を染み込ませるなどのコーティングを施す。今後の年代測定や樹木の同定などの調査に耐え得る強度を高めるためで、同民族博物館の大江克己研究員は「(保存処理には)少なくとも2年はかかる」とみる。

 搬出では、美術品を専門に運搬する業者の従業員約10人が、舟を1隻ずつ保護紙やウレタンなどで梱包(こんぽう)してから木枠で保護し、トラックで出発した。函館港から青函フェリーで青森港まで運ぶ以外は、陸路で輸送される。市美術博物館で考古学を担当する岩波連学芸員は「ほぼ完全な形で残る2隻からは今後アイヌ民族の暮らしの実態究明につながるヒントが得られるかも知れない」と保存処理を終える日を心待ちにしていた。

https://hokkaido-nl.jp/article/33900


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ゴジラの伊福部昭「ラストインタヴュー」DVD発売 「精いっぱいの恩返し」と藍川由美

2024-05-12 | アイヌ民族関連

産経新聞2024/5/11 10:00

「ゴジラ」の映画音楽で知られる作曲家、伊福部昭の亡くなる3年前のインタビュー映像や、作曲者の意図した方法で初めて録音された「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌」などが収録されたDVD「伊福部昭 ラストインタヴュー」が5月末にリリースされる。この曲を歌い、伊福部作品に取り組み続けてきたソプラノ歌手、藍川由美は「これが今、伊福部先生にできる精いっぱいの恩返しです」と話す。

アイヌと親しく

伊福部はアイヌの人々からの影響を受け、作品に共感があふれている。というのも1914(大正3)年、釧路市に生まれたが、9歳のとき、父親が音更村(現音更町)の官選村長になり、移り住んだ。北の地でアイヌ民族と親しく交わったことが後の作曲家の下地を作った。「アイヌの人たちは宴会などで即興で歌を歌いだすのです。だから作曲を難しくとらえていない」。生前、取材にこう答えている。ちなみに音更はアイヌ語のオトプケ(毛髪が生ずる)から転訛したもので、音更川と然別川の支流がたくさん流れているところからついたといわれる。

収録されているインタビュー映像は、伊福部が学生時代にバイオリンを教えた4人のうち最初の弟子、眞柳潔氏が2003(平成15)年、東京・尾山台の伊福部邸を訪ねた際に録画された。家庭用のホームビデオで撮られているため、画質などは粗い。しかし、このとき88歳の伊福部は元気で、たばこを吸いながら昔話などをしゃべる姿が写っている。

1935(昭和10)年、「日本狂詩曲」でチェレプニン賞を受賞し、世界に知られた伊福部は戦後、東京音楽学校(現東京藝術大学)の作曲科講師に招聘された。「交響譚詩」「シンフォニア・タプカーラ」「リトミカ・オスティナータ」などの作品があり、「ゴジラ」の音楽を担当したのは昭和29年。「ビルマの竪琴」など多くの映画音楽も手がけた。

「藝大で最初のクラスで教えていた人は全部死んじゃった。芥川(也寸志)君とか黛(敏郎)君とか矢代秋雄さんとか奥村一さん、その人たちがみんないなくなっちゃって。石井眞木さんもいなくなった。生きてて悪いような」と弟子たちを回想している。

シントコで初録音

「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌」が作曲されたのは1955年。翌年ティンパニー版が作られた。伊福部は「この作品は、いわば、失われた古謡への追憶である」と記している。

藍川は大学院生だった1982年、この作品をリサイタルで演奏するため伊福部にアイヌ語を習い始めた。アイヌ民族は歌と伴奏、踊りを1人でする。伊福部はそのように想定して作曲したが、シントコが手に入らないため、4面のティンパニー伴奏に書き換えた。

シントコとはアイヌ語。日本語では行器(ほかい)と呼ばれる蓋つきの漆器で、平安時代から儀礼などで食物を運ぶ容器として使われた。アイヌのシントコは日本から移入され、やはり儀礼の際に使い、細工の多いシントコをたくさん持つ家が格が高いとされた。シントコが楽器に代用された例としては、シントコの蓋を囲んで座り、リズミカルに蓋をたたきながら歌う「ウポポ」がある。

シントコをたたきながら「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌」を歌う藍川由美

藍川は「カーネギーホールで1985年、ティンパニー版(1956)を演奏しました。しかし作曲者は1人でオリジナル版(1955)を演奏しなさいとおっしゃる。そこで復元された縄文土器で作った太鼓を試してみましたが、居心地の悪さを感じました。シントコのことは聞いていたのですが、手に入らない。京都の古美術商に探してもらい、江戸時代のシントコを手に入れました。四隅に金具がついているため、ティンパニーでは出せなかった音が出ました。宴会でシントコをたたきながら即興的に歌い出す雰囲気を味わうこともできます。高価でしたが、先生の意図した音楽を再現でき、購入してよかった」と話す。

今年2月4日、「音楽は切ったり貼ったりするものでない」と編集を嫌った伊福部の意思を尊重し、ライブ収録した。DVDには同じ日に演奏された「バイオリンソナタ」と、昨年収録した歌曲「蒼鷺(あおさぎ)」と「摩周湖」も収められた。5月31日にカメラータ・トウキョウから発売される。(江原和雄)

https://www.sankei.com/article/20240511-5JJM3X23CJPXZL5RKIMQAXX26Y/


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「トゥレッポん」の帽子販売 ウポポイPRキャラクター  白老

2024-05-12 | アイヌ民族関連

苫小牧民報2024/5/11配信

 白老町若草町の民族共生象徴空間(ウポポイ)運営本部は、ウポポイPRキャラクター「トゥレッポん」の新商品「ネック付き帽子」を、国立アイヌ民族博物館ミュージアムショップとエントランス棟ショップ「ニエプイ」で販売している。  「トゥレッポ…

この続き:251文字

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https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/138179/


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第七師団はゴールデンカムイでなぜ敵役なのか 屯田兵時代からの過酷な歴史とは

2024-05-12 | アイヌ民族関連

武将ジャパン2024/05/11

主人公の杉元佐一以下、敵として認識している第七師団

漫画『ゴールデンカムイ』を読んでいくうちに、それは当然という認識になるものですが、ちょっと不思議なところがあるのです。

主人公名・杉元佐一は、作者である野田サトル先生の曽祖父から取られています。

しかし、彼は第七師団。

漫画の杉元は、元第一師団です。

なぜ、野田先生は自分の先祖の所属した師団を、悪役にしたのでしょうか。

北海道が舞台だから?

それはあるでしょう。

アイヌの土地収奪が背後にあるから?

こちらも、重要です。

しかし何よりも「第七師団独自の歴史がいろいろと関係している」のではないでしょうか。

明治29年(1896年)5月12日は第七師団が創設された日。

ということで、その特有の辛い境遇を見ていきましょう。

第七師団のルーツは「賊軍」であり「屯田兵」

第七師団、別名「北鎮部隊」。

華々しいようで、そのスタートは混乱続きでした。

幕末、戊辰戦争の負け組、いわば賊軍も多いもの。

『ゴールデンカムイ』作中において、第七師団所属である人物も同様。

負け組子孫と推察される人物が多いものです。

聡明かつ勇猛でありながら、あの年齢でありながら、中尉程度でくすぶっている鶴見。

藩閥政治が影響する明治時代なれば、出自ゆえに出世が止まっていてもおかしくないのかもしれません。

性格に大問題があることは、この際、横に置いておきましょう。

※以下は鶴見中尉の関連記事となります

ゴールデンカムイ鶴見中尉を徹底考察!長岡の誇りと妻子への愛情と

「武士の誇り」が悪用される

この北海道への移住も、なかなかいい加減な歴史がありました。

武力倒幕や戊辰戦争によるメリットや必要性が疑問視されていたのは当時からのこと。

薩摩藩は恩義ある赤松小三郎を謀殺してまで、そこに踏み込みました。

なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めた?岩倉や薩摩は下策としていたのに

知られざる幕末の英雄・赤松小三郎は人斬り半次郎らに殺された?

そうまでする理由として、考えられる動機はあります。

【徹底的に反抗勢力の芽を潰しておく】

実際、そうとしか思えないほど、戊辰戦争で戦地は荒れ果てました。

その総仕上げが、屯田兵です。

武士の心理につけ込むような、えげつない追い詰め方が実行されました。

代表例が、東北随一の大藩であり、【奥羽越列藩同盟】の主導者であった仙台藩。

支藩に至るまで、次々に移住が決定していきます。

奥羽越列藩同盟は何のために結成? 伊達家を中心とした東北31藩は戊辰戦争に敗れ

その中で、たとえば「伊達市」は、元の藩名を残すほど、多大な貢献をしております。

大名夫人まで開拓に励んだ話は有名です。

幕末維新のお姫様は自らの舞台で戦った! 鹿鳴館や籠城戦に北海道移住で開拓へ

まぁ、そうやって振り返ることができるのも、成功あってのものですよね。

当時は移住がそんな簡単なワケもなく、いざ移り住んだ後にどうなるのか、明日は見えない状況。

そもそも蝦夷地とは、いかなる場所なのか。

幕末の混乱が収束に向かっていたからといって、そこまで把握できた状況ではありません。

そんなところで田畑を耕しながら兵士をやるというのですから、無謀にも程がありました。しかし……。

こんな開拓の始まり方でよいものだろうか?

開拓を成し遂げてこそ、御家の名誉を回復できる!

そう信じ、船に揺られる開拓者たち。あの咸臨丸も、こうした人々を運んだものです。

ゴールデンカムイ舞台 現実の北海道開拓は想像以上に過酷だった

実はイケイケだった江戸幕府の海軍~中島三郎助が勝海舟と共に奔走す

こう書くと、遠大な計画に思えますが、実はものすごくいい加減なものでした。

以下、理由を列挙して参りましょう。

◆北海道の知識がない!

松浦武四郎をはじめとして、蝦夷地探検家がいたものの、彼らよりも明治新政府のパワーバランス重視人事が行われてしまいました。

当時最も知識のあった松浦は、嫌気がさして即座に退官するという恐ろしさです。

蝦夷地を北海道と名付けた松浦武四郎~アイヌ搾取の暴虐に抵抗する

◆パワーゲームが酷い!

松浦の退職理由でもあります。

佐賀と長州が藩閥政治で火花を散らし、開拓にまで悪影響を与えるというグダグダぶりでした。

◆根性論頼りだった!

そんな酷い状況の中、ともかく武士の忠義心だけに期待して移住したものですから、当然のことながら失敗する者も多いわけでして。失敗例を聴くと、尻込みする者も出てきます。

そういう人を理詰めで説得するのではなく、「それでも武士か!」と叱咤激励するパターンが定着しました。

◆そもそも農業に向いていたの?

北海道は火山が多い。

アイヌの伝承にも、噴火や火砕流のことが伝わっていました。

彼らが狩猟に生きてきた理由も、このあたりにあったのかもしれません。場所によりますが、農業に適していない土壌も多かったのです。

◆未知の大地は恐ろしかった!

想像を絶する寒さ――それだけではありません。

ヒグマ、バッタ(蝗害)、干ばつ……未経験の惨劇が次から次へと襲いかかります。

人の味を覚えたヒグマの恐怖~三毛別羆事件で死者7名重傷者3名の惨事

ヒグマの歴史~危険な羆と共生してきたアイヌと開拓民の対処法とは?

 

いくらなんでも、明治政府がえげつなさすぎると思いませんか?

そんな屯田兵を助けたのが、アイヌの知恵です。

アサリを入れた食事でもてなし、寒さを防ぐ住宅の工夫を教えてくれました。

和人がアイヌに恩恵を施したという認識がありますが、それは誤解です。

多くの屯田兵が、和人が、いかにアイヌの知恵で救われたことか。

過酷そのものだった北海道「食の歴史」米豆が育たぬ地域で何を食う?

※アイヌの知恵が和人を救ったのだ!

開拓だけでも大変なのに。

生きていくだけでも辛いのに。

彼らにはやることがありました。

屯田兵――つまり、開拓をしながら軍事訓練をせねばならなかったのです。

辛いのは開拓だけではなかった……

開拓だけでも、辛いものがあります。

その上、事訓練までしなければならない。

留守を守る女性たちが、農作業に尽力することになるのも、こうした理由ゆえ。訓練が、非常に辛いものでした。

訓練地は、森林を切り開いた場所になりがちです。

夏季は、アブ、蜂、蚊……と、虫にブンブンとたかられ、それを追い払うこともままならずに訓練です。

冬季は、冬用の分厚い装備。一年中辛いものでした。

問題は訓練だけではありません。

あくまで兵隊ということで、二十四時間プライバシーを監視されるような状況にあります。

ちょっとした休暇でも、結婚でも、いちいち許可を得なければなりません。

鍋のような日用品すら、官給品として検査を受けるのです。

私生活の禁止・束縛事項が多いものでした。

家族の支えだって、厳しいものがあります。

男女共に死別したら、なるべく早く再婚しなければなりません。生きていくためにはそれしかなく、恋愛感情なんて芽生える余裕はない。

厳しい開拓生活で、流産、死産、乳幼児の死亡も多いものでした。

医療機関すら、北海道は後回しだったのです。

東京が、やれ「文明開化」が「鹿鳴館」だと浮かれる頃、北海道では屯田兵とその家族が生き抜くために奮闘をしていたのでした。

日露戦争の第七師団将兵たち

ここは第七師団の戦果よりも、アイヌや屯田兵二世で構成されていた、彼らの事情を足元から見ていきたいと思います。

第七師団は、日露戦争でも特別な存在です。

彼らの親である屯田兵たちは、ロシアの南下脅威に備えて訓練をしておりました。

※彼らもこの戦場にいた……

第七師団にとって初の戦争――日露戦争。

日露戦争なぜ勝てた? 仁川沖海戦に始まり講和条約が締結されるまで

続きを見る

10年前に行われた日清戦争は新設されたばかりで、間に合っておりません。

こうなると負けられないと張り切っていたのか? と思いたいところですが、それだけではない特殊な面がありました。

屯田兵二世以降の世代。

彼らは他の師団よりも厳しい状況にさらされておりました。

男手が不足する中、まだ終わらぬ開拓に挑む留守家族の負担は厳しいものがあります。

本州の他の地域ならば、親族知人を頼れるかもしれません。

しかし、屯田兵は人間関係をリセットするようにして来た者もおります。

頼れる人がないまま、夫や息子が出征してしまう。非情なまでの厳しさがあったのです。

そんな第七師団の兵士たちは、全国的に見ても死傷者が多くなる傾向も見られます。

開拓の道筋がついていたのに、働き盛りの男が消えてしまった……そんな絶望感が漂う村が、北海道にはありました。

やっと戻って来た兵士にせよ、負傷により農作業ができなくなっていたこともあります。

開拓に励む人にとって、それがいかに過酷であったことか。

戦争は、第七師団を深く傷つけました。

第七師団のアイヌ兵たち

第七師団には、キロランケのようなアイヌの兵士もおりました。

※キロランケも苦労したことでしょう

勇敢さを示すため――これだからアイヌは駄目だと見下されないために、彼らは戦いぬいたのです。

『ゴールデンカムイ』戦場に立ったアイヌたち 知られざる活躍 日露~太平洋戦争にて

受勲者もいたものの、個人の栄誉にとどまり、奮闘は彼らの権利向上にはつながりません。

幼い子供を残し、戦死した夫の報告を聞いて、泣き崩れたアイヌ女性の目撃談もあります。

戸口に立って泣き叫ぶ彼女を見て、近所の人も、兵士たちも、もらい泣きしてしまったのだとか。

アイヌの帰還兵たちが、村長を頼りにしてくることもあったと言います。

彼らは金がなかったのです。

それはなぜでしょうか?

捕虜になっていたからです。

その旅費は、軍隊からは支給されませんでした。身一つでどうにかコタンにたどり着き、金策をする他なかったのでした。

捕虜だからなのか。

彼らがアイヌだからなのか。

あまりに酷い仕打ちです。

敵だけではなく、差別や偏見とも、アイヌの兵士は戦っていたのでした。

鶴見と愉快な仲間たちは、それでいいのか!

こうした他の師団にはない特徴を振り返って来て、私なりの結論に達しました。

鶴見中尉は極悪非道、許されない】

まったくもって鶴見のしていることは酷いの一言。

鶴見の陰謀によって連れ回され、犠牲にすらなっていく――そんな第七師団の兵士には、故郷で待つ妻や母がいるのかもしれません。

日露戦争が終わったのに、あの人はいつ帰ってくるのか。そう思いながら、畑を耕す……って、気の毒すぎるでしょう!

鶴見はさっさと彼らを故郷に戻らせるべきです。

あいつのしていることは、許されないことですよ!

※面白いけど許されんぞぉ!

そしてそんな鶴見が好きすぎて気持ち悪い人物、鯉登少尉。

彼がおかしな存在であることも、歴史的経緯を考察すると見えてきます。

戊辰戦争負け組が多い中で、薩摩という勝ち組ど真ん中

・開拓や屯田兵のゴタゴタにも、当然、薩摩は関与している

・開拓なんて知らない苦労知らず

・日露戦争の経験もない

・第七師団からすれば、存在そのものが不愉快といってもいいかも

そんな浮いている彼を救ったのが、鶴見かもしれません。

しかし、鶴見は花沢幸次郎を謀殺し、鯉登をまんまと騙しているわけでして。

歴史的経緯からみても、鯉登はあからさまにおかしい、浮いている。

変な存在だということは、今後の展開に影響を与えるのかもしれません。

第七師団はなぜ悪役なのか?

ここで最初の疑問に戻りましょう。

第七師団は、なぜ敵なのか?

本拠地である軍都・旭川が、アイヌの収奪の上で成立していることも考えられます。

アシリパと杉元からすれば、敵で当然と言えるのです。

そして、もう一つ。

鶴見のしていることは極悪非道ではありますが、その動機の根底には第七師団が受けてきた仕打ちへの反発があります。

鶴見は悪い。

しかし、鶴見が告発しているからこそ、北海道の歴史と第七師団の持つ暗いものが見えてくる。

そこを暴く鶴見という人物は、『ゴールデンカムイ』もう一人の主人公とも言えるのでしょう。

https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/05/11/123682


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