先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

余録:カカオ豆

2011-01-31 | 先住民族関連
(毎日新聞 2011年1月31日 0時17分)

 中米に栄えた古代マヤ文明は、壮麗なピラミッドや石碑を築いたことで知られる。メキシコ南部やグアテマラに点在する遺跡を巡ったことがあるが、密林の中にそびえ立つ巨大な神殿は圧巻だった▲トウモロコシを主食としたマヤの人々はカカオの栽培も行っていた。中央高原のアステカ族にも伝わり、メキシコ先住民はこの熱帯植物の豆を砕いて水とともに煮て飲んでいたという。その現地語の「チョコラトル」という呼び名がチョコレートの語源とされる▲カカオ豆を初めてスペインに持ち帰ったのはコロンブスだ。だが、当時は価値が分からず、後にアステカを征服したコルテスがスペイン国王に献上したことで、欧州でもチョコレートが飲まれるようになった。現在のような食べる菓子に変わったのは、19世紀になってからだ▲カカオの栽培は数百年の間に南米やアジア、アフリカなどにも広がっていく。今は西アフリカのコートジボワールが最大の生産地になっている。時空を超えた伝播(でんぱ)の跡は壮大な文明史の絵巻物のようだ▲そのコートジボワールで、カカオ豆の輸出を1カ月禁止する措置が発表された。大統領選で敗れた現職が居座ったため、当選した「新大統領」が資金源を断とうと決定したのだ。バレンタインデーを前に、チョコレートの価格高騰が気にかかる▲カカオ豆はアステカでは貨幣としても使われており、元々政争の具に利用されやすい貴重な産品だったのだろう。コートジボワールでは多くの人がカカオの生産や貿易で生計を立てている。世界中のチョコレート好きだけでなく、自国民のためにも混乱の収拾を急いでほしい。
http://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/news/20110131k0000m070109000c.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天国の萱野先生、見届けてください しのぶ会で子ら公演

2011-01-31 | アイヌ民族関連
(朝日新聞 2011年1月30日)

 アイヌ文化の振興に多大な功績を残し、2006年に亡くなった民族運動家の萱野茂さんをしのぶ会が29日、札幌市内で開かれた。萱野さんの家族や専門家が講演したほか、縁の深い「札幌こどもミュージカル」もアイヌ文化を題材にした音楽ショーを披露。700席の会場はほぼ満席となった。
 萱野さんは、アイヌ語教室の開設や辞典の編集などによってアイヌ文化の継承に尽力し、94年にはアイヌ民族初の国会議員にもなった。
 国際交流の市民団体「グループりら」の主催。団体の会長で、同ミュージカル育成会の会長も務める細川真理子さん(79)を中心に構想を練ってきた。
 同ミュージカルは、約30年前からアイヌ文化を紹介する公演を続けている。助言を度々もらうなど、萱野さんの影響は大きい。この日は、歌あり、踊りありの約30分間の音楽ショーで、小学生や幼稚園児たちがアイヌ民族の暮らしを紹介。「すべての生きているものと仲よく。自分だけが幸せになろうと考えてはだめということ。今のエコそのものです」などと呼びかけた。
 ポーランドやローマの公演も経験した小学5年生の藤井紅理さんら3人は「世界の人たちにたくさんの拍手をもらえたのは、萱野先生のおかげ。天国でも私たちの歌声を聞いてほしい」と笑顔であいさつした。
 萱野茂二風谷アイヌ資料館館長で次男の志朗さん(52)は講演で「すべてをコントロールできると考えるのは人間のおごり」と話し、自然との共生を訴えた。
 国立民族学博物館(大阪)の大塚和義名誉教授や、国のアイヌ政策推進会議委員を務める中央大の横田洋三教授も講演。「箱ものを造ることよりも、アイヌ文化を語り継げる人材の育成に力を入れることが一番重要だ」と話した。(諸星晃一)
http://mytown.asahi.com/areanews/hokkaido/HOK201101290008.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萱野さんの功績しのぶ 札幌でゆかりの人ら講演

2011-01-30 | アイヌ民族関連
(北海道新聞1月30日朝刊掲載 01/30 06:25)

 アイヌ文化の伝承に尽力し、2006年に79歳で亡くなった元参院議員の萱野(かやの)茂さんをしのぶ会が29日、札幌市中央区の道新ホールで開かれ、ゆかりある人たちが講演し功績を振り返った。
 札幌こどもミュージカル育成会の支援団体「グループりら」(細川真理子会長)の主催。萱野さんから指導を受けアイヌ100+ 件民話を基にしたミュージカルを演じてきた縁で、以前からしのぶ会の構想を温めてきた。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/270829.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪原への道 第5部・挫折と栄光

2011-01-30 | アイヌ民族関連
突進隊
(さきがけon The Web 2011/01/29 付)

4隊目「南緯80度越え」
 白瀬隊の第2次南極探検の目的は、後援会によって「南極点踏破」から「学術調査」へと変更された。隊は内陸部の気象や地形、氷河などを調査しながらできるだけ南進する「突進隊」と、開南丸を拠点に南緯78度付近を調査する「沿岸隊」に分けられた。
 突進隊の上陸地点はロス海の鯨湾。氷結期の氷盤に行く手を阻まれた第1次探検に比べ、夏期の南極航海はおおむね順調だった。1911年11月19日にシドニーを出港した開南丸は、翌12年1月16日、鯨湾に達した。

白瀬隊の勇敢さ称賛
 鯨湾に入る直前、開南丸の前方に船影が見えた。ノルウェーのアムンゼン隊の帰還を待っていたフラム号だった。翌17日、野村直吉船長らがフラム号を表敬訪問し、ニールセン船長と歓談した。野村は、著名な北極探検家ナンセン博士が設計したフラム号の堅固な造りに感心した。翌18日に開南丸を答礼訪問したニールセンは、逆にその貧弱さに驚き、白瀬隊の勇敢さと野村の操船技術を称賛した。
 野村がフラム号を訪問したのと同じ日、英国のスコット隊が南極点にたどり着いた。そこには、アムンゼン隊が前年12月14日に既に到達していたことを記す手紙が残されていた。人類初の南極点踏破をめぐるレースが終わったことを、白瀬矗(のぶ)は知る由もなかった。
 突進隊の出発準備が整ったのは19日。メンバーは隊長の白瀬以下5人。2台のそりを引く犬たちを操るのは、樺太アイヌの山辺安之助と花守信吉だ。一行の服装はシャツ2枚、ズボン下1枚、隊服、防寒帽、雪眼鏡、耳当て、毛皮オーバー。足元はかんじきの付いた毛皮靴だった。
 翌20日、山辺の発する「トウトウ、カイカイ」という掛け声とともに、犬ぞりは出発した。21日には、南極特有のブリザードに見舞われた。山辺と花守が「樺太でも見たことのない」という暴風雪。雪を巻き上げて、数十センチ先も見えなくさせる吹雪は、隊員の誰もが体験したことのないものだった。

体力限界、南進を断念
 以降、断続的に吹き付ける激しいブリザードの中、足元のクレバスを避けながら、隊は体力の限界まで進んでは、テントを張って眠るという日を繰り返した。犬も人間も疲労が蓄積し、食料は減っていく。出発から9日目の28日。白瀬はそりを止め、そこを最終到達地点とする決断を下した。
 武田輝太郎学術部長が天測し、南緯80度05分、西経156度37分であることを確認。白瀬は、視界に入る全域を「大和雪原」と命名した。隊員たちは、探検隊の名簿や義援金を寄せた人々の名を記した芳名簿を入れた銅製の箱を埋め、竹竿を立てて日章旗を掲げた。白瀬は「大和雪原を日本領土とする」と宣言、一行は万歳三唱した。
 この大和雪原が陸地ではなく、大陸からロス海に張り出した広大な棚氷の上だったことを、白瀬は死ぬまで知らなかった。最終到達地点が陸地でなかったことは、白瀬の偉業を少しも傷つけるものではない。それまで南緯80度以南に進むことができたのは、アムンゼン、スコット、シャクルトンという偉大な探検家が率いる3隊しかいなかったのだから。<第5部終わり>
http://www.sakigake.jp/p/special/antarctica/feature/05/article5_05.jsp

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾の二宮金次郎像

2011-01-29 | 先住民族関連
(2011年1月28日 読売新聞)

台北支局 源一秀
 終戦まで50年にわたり日本が統治した台湾。赴任から2年、各地に残され古い建造物、碑などに日本の面影を見てきた。しかし、幼少より勤倹力行の象徴として敬ってきたあの方の像が、日本の精神をいまも台湾各地で伝え続けているとは。
 初めてお目にかかったのは、1年前だった。石像があるとのうわさの真偽を確かめるべく足を運んだ台北近郊の観光地、金瓜石の道教廟「勧済堂」の敷地内。約1メートルの像は遠目に見ても明らかだった。読書をしながらまきを背負って歩く少年像。そう、一昔前なら小中学校の校庭の風景の一部だった二宮金次郎像だ。
 二宮は江戸時代後期に生まれ、農民から幕臣にまで昇格した立志伝中の人物。報徳、勤労の生涯を貫き、600余りの貧困村を救った。内村鑑三の表現を借りれば「代表的日本人」の一人だ。
 懐かしさに駆け寄るや、思わず吹き出してしまった。なぜって、貧しいはずの二宮少年が余りにもふっくら顔で、おまけに福耳ときていたから。現地の日本語世代のお年寄りに由来をたずねた。像は1936年、廟の工事をした際、大陸から招いた石工に、台湾人父母らが「近所の(日台の)子どもたちの教育のために」と作ってもらったものだという。
 日本のイメージと異なるのは、吉祥を像に込める中華的創造力のたまものだろう。当時の父母の思いにも感じ入り、自身の不謹慎を恥じることになった。ただ、これがきっかけで、台湾全土に散らばる二宮像をたずね歩くことになった。
 最も巨大だったのは、屏東県長治郷の長興小学校にある。同小OBらが2005年、50万台湾ドル(約140万円)を出して、骨董商から購入、寄贈した高さ約150センチの銅像だ。日本統治時代から残る鋳型で作られたものという。
 当時、贈った側にこれが二宮だと知る人はいなかったという。同小には中国大陸の中原を起源とする客家の子弟が多く通う。「客家の美徳である質素、勤労、勤勉を見事に体現した彫像。誰なのかなんて関係はなかった」。ただ、この像も見事な福耳で、髪形はまげではなく仏像を思わせる。
 小型のものでは、桃園県の平興小学校の校長室の書棚に、戦前のものと見られる約40センチの銅像がある。これは純日本風だ。二宮の偉業を知る元校長が骨董屋でたまたま見つけて購入、寄付したもの。貧しい先住民子弟が多く通うため、「貧しくても二宮さんのように努力を重ねれば報われる」ことを生徒に教える教材となっている。
 一体どれだけの新旧二宮像が台湾にあるのか、定かではない。戦中、台湾各地にあった銅像は戦時供出で撤去され、残った石像のほとんどは、戦後、大陸から渡った国民党政権に破壊され、孔子像や蒋介石像に変えられている。戦前からのものは、特に希少であることは確かだ。
 それだけに、出会えた喜びは格別だ。台湾で地方へ出かけるたび、地元民に心当たりはないかをたずねるのが習慣となった。日本風二宮像もいいが、ユーモラスな中華風二宮像の魅力もたまらない。日本のモノだというのに、日本では味わえない楽しみだろう。
http://www.yomiuri.co.jp/column/world/20110128-OYT8T00387.htm?from=navlc

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八王子で「アイヌ文化を体験しよう」 29日に小学校で実施

2011-01-29 | アイヌ民族関連
(msn.産経ニュース2011.1.28 22:10)

 東京都八王子市の子供たちがアイヌ文化を学ぶ「アイヌ文化を体験しよう」が28日、市内の小学校2校で行われるのを前に、北海道白糠町の「白糠アイヌ文化保存会」のメンバーが八王子市役所を訪れた。約200年前、八王子周辺を守っていた八王子千人同心が、警備と開拓のため白糠町に渡ったのが縁で、平成11年から両市町の交流が続いている。
 29日は松木小と、みなみ野君田小でアイヌ語の学習や伝統楽器ムックリの体験などを行い、約300人の児童が参加するという。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110128/tky11012822110021-n1.htm

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【白老】ポロトのアイヌ民芸品店、2月1日再開

2011-01-29 | アイヌ民族関連
(苫小牧民報 2011年 1/28)

 白老町の観光名所・ポロト湖畔の民芸品店が、2月1日から再開する。アイヌ民族伝統の木彫りや刺しゅうが並ぶ3店舗。観光客にアイヌ文化の魅力を伝える。
 場所は、アイヌ民族博物館駐車場から入館ゲートへ通じる町有地。木造平屋30平方メートルの店3棟を構える。うち1店は木彫り専門店。販売とともに、実演や有料での製作体験も企画している。残りの2店は、アイヌ刺しゅうのバッグ、キーホルダーなどを中心に販売する。
 2009年10月に閉館した物産店街「ミンタラ」で民芸品店を構えていた元店主が共同出資して再建した。ただ、ポロト地区は、国の「アイヌ民族の象徴的空間」の整備区域になる見通しで、計画の進ちょくによっては撤去しなければならないという。
http://www.tomamin.co.jp/2011s/s11012802.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝福の声次々

2011-01-29 | アイヌ民族関連
(朝日新聞 2011年01月28日)

東京・日比谷の帝国ホテルで27日にあった2010年度の朝日賞と第37回大佛(おさらぎ)次郎賞などの贈呈式で、各界の受賞者や団体とともに、医師の原田正純さん(76)と評論家の渡辺京二さん(80)の功績がたたえられた。2人はともに熊本市在住で、関係者からはお祝いの言葉が寄せられた。
  半世紀にわたって水俣病問題に取り組む原田さんは、熊本学園大(熊本市)を拠点に続ける学際的な「水俣学」の提唱と深化が評価された。
  27日の朝日賞受賞スピーチでは「水俣学が若い人に受け継がれることを祈念します。(受賞を)出発点にさらに探求していきたい」と話した。
  ともに水俣学講義の中心を担う同大の花田昌宣教授は「当然の受賞。業績を考えればもっと早くてもよかった。後を継ぐ我々も頑張らないと」。水俣病被害者互助会(水俣市)の谷洋一事務局長は「常に被害者の声を聞き、事実を検証してきた。患者も私も最も信頼する人。多分野で見識も深く、人脈も広い。それが水俣学のベースになったのでしょう」と言う。
  同会の会員は国などを相手に係争中で、原田さんは会員のための証人として法廷に立っている。佐藤英樹会長は「先生の受賞は本当にうれしい」。原田さんが3度のがんを経験し、昨年11月末に抗がん治療を終えたばかりである点を踏まえ、「治療を続けながら証言する姿に決意を感じる。医師として人間としてさすがだと思う」と語った。
  「業績もすごいけど、最も価値があるのは人柄」と言うのは、40年来のつきあいがある宮崎市のジャーナリスト宮澤信雄さん(75)。「穏やかで融通無碍(ゆう・ずう・む・げ)。よくこんな人がいるなあと感心する。ずっと患者側に立ち、権力に取り込まれることもなかった。ぶれない人」と評した。
  一方、渡辺京二さんはロシアと先住民族アイヌ、日本の異文化接触の歴史を描いた「黒船前夜――ロシア・アイヌ・日本の三国志」(洋泉社)での大佛次郎賞。日本の近代史に新たな光をあてたと評価され、スピーチでは「楽しい仕事だった。80歳になったが、もう少しこの世にお邪魔し、仕事をさせてもらうつもりです」と話した。
  「黒船前夜」は熊本日日新聞夕刊での連載63回分を補筆・修正した作品。執筆を依頼した編集局次長の松下純一郎さん(56)は「史料を精査して組み合わせ、一つのものを作り上げる渡辺史学の真骨頂。受賞を機に、熊本から全国にさらに発信されれば」。
  水俣病を扱った「苦海浄土」を始め、渡辺さんが長く編集者として付き合う作家の石牟礼道子さん(83)は「あの人の仕事は全部すごいですから。今回は、伝統をひらいて見せたという点ですね」。
  渡辺さんは様々な文献を読み込み、日本における「近代」の意味を問い続けてきた。熊本近代文学館の井上智重館長(66)は「渡辺さんは深く、深くものを読む。彼の読みを通すと、様々な書物から見えてくるものがある」と話した。
http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000001101280004

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BOOKほっかいどう「異星、北天に煌(きら)めく」

2011-01-29 | アイヌ民族関連
(朝日新聞 2011年01月28日)

■異星、北天に煌(きら)めく
 北海道ノンフィクション集団《編》
■激動期に足跡 外国人15人
 幕末から明治、大正、昭和の時代に北海道を訪れて足跡を残した15人の外国人を取り上げ、彼らの功績や生き方に迫った人物伝である。
 登場するのは、幕末の箱館(現在の函館)で製材や貿易を始める一方で生物分布の境界線「ブラキストン線」を発見した英国人トーマス・ブラキストンや、開拓使のお雇い米国人として畜産酪農の基礎を築いたエドウィン・ダン、二風谷でアイヌ文化研究や医療奉仕を行った英国人ニール・マンロー、ロシア革命を逃れて旭川に移住し日本球界黎明(れいめい)期の大投手となったヴィクトル・スタルヒンと多彩だ。
 北海道は、箱館が1859(安政6)年に貿易港として開港し、開拓期には国策で外国人を登用するなど早くから国際化が進んだ。箱館戦争で旧幕府軍側で戦ったフランス人ジュール・ブリュネのように、歴史の激動に巻き込まれた外国人も少なくない。
 また、鎖国時代に遭難者を装って北海道に上陸し、ペリー来航時の通訳官に英語を教えた米国人ラナウド・マクドナルドらあまり知られていない人物も紹介している。
 外国人たちの日本文化に対する強い関心と西欧文化を伝えようとする情熱が、激変する時代の風景とともに浮かび上がる。道内のノンフィクション作家11人による執筆。
(北海道出版企画センター・1680円)
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000861101280001

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史研究家の毛利コレクション 石巻市に1000万円寄付

2011-01-28 | アイヌ民族関連
(河北新報社 2011年01月28日金曜日)

 宮城県石巻市が2012年春のオープンを目指し収蔵展示施設の整備を進めている「毛利コレクション」の整理分類に役立ててほしいと、同市前教育長の阿部和夫さん(72)=同市向陽町1丁目=が18日、市に1000万円を寄付した。市は新年度、現在4人の調査員を1人増やすなど寄付金を活用し作業を推進する。
 阿部さんは1999年から10年間、教育長を務めた。コレクションの展示施設建設が在任中の課題の一つで、コレクションの所有者だった毛利伸さん(75)=同市住吉町=とも親交がある。
 昨年10月にコレクションの寄贈を受けた市が資料の整理を進めているが、総数は10万点以上で分類が終わったのは現在1万点ほど。阿部さんは「市民の1人として、お手伝いができれば」と寄付を申し出た。
 阿部さんが市役所を訪れ、亀山紘市長に目録を手渡した。亀山市長は「財政難だけに大いに助かる。大切に活用したい」と感謝した。阿部さんは「総数把握など基本的なデータ蓄積を進め、街づくりに生かしてほしい」と要望した。
 毛利コレクションは石巻市出身の歴史研究家で信金理事長などを務めた毛利総七郎(1888~1975年)が私費を投じて収集。アイヌ民族資料や考古資料、民俗資料などが国内外から高い評価を受けている。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/01/20110128t15012.htm

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

OKI DUB AINU BAND / LITTLE TEMPO

2011-01-28 | アイヌ民族関連
smash-jpn.com2011年01月27日

ダブアイヌバンドの首謀OKIと、エンジニアの内田直之によるDUB対決アルバム発売!リリース記念ツアー決定!

"OKI DUB AINU BAND Presents「Himalayan Dub ~Mixed by OKI vs 内田直之~」発売記念ツアー"
4.15 (fri) Shibuya CLUB QUATTRO
OPEN 19:00 START 20:00 3,800YEN (adv.drink fee charged@door)

今年は台湾、ネパールへと更に勢力を広げ、アジアアンダーグラウンドシーンを更に複雑に、更におもしろくしているダブアイヌバンド。昨年7月にリリースされ、年末のベストアルバム特集には多くのライター氏がその名を挙げた話題のOKI DUB AINU BAND「サハリン ロック」のダブ アルバム『Himalayan Dub』が、限定リリースという形で、早くも3月に発売されることに決定!しかもこのアルバム、ダブアイヌバンドの首謀OKIと、エンジニアの内田直之が「ダブミックスで白黒つける」DUB対決アルバムとなる。『サハリン ロック』の制作時は共にスタジオ入りし、曲によっては共同でミックスを仕上げたOKIと内田。今回は北海道/東京のそれぞれのスタジオで、完成まで別々に制作を行う予定。続報、そして2人の対決の行方は、WEBをチェックしていただきたい。
そんなOKI DUB AINU BANDのリリース記念のツアーが決定!ゲストバンドにはリトルテンポが決定!こちらもダブによるガチンコ勝負が繰り広げられます。お見逃しなく!

http://smash-jpn.com/band/2011/04_okidub/index.php

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャラワ族も存亡の危機、インド・アンダマン諸島

2011-01-27 | 先住民族関連
AFP 2011年01月26日 11:27 発信地:ニューデリー/インド

インドのアンダマン諸島(Andaman Islands)に暮らすジャラワ(Jarawa)族が、密猟者や観光客の不法侵入により存亡の危機に瀕していると、先住民支援団体サバイバル・インターナショナル(Survival International)が24日、警告を発した。
 同団体によると、ジャラワ族人口は365人にまで減っており、前年1月に最後の1人が死亡した同諸島のボ(Bo)族と同じ運命をたどるのではないかと懸念されている。
 人口減少の原因としては、ジャラワ族が食糧とする動物の密猟、観光客が持ち込む病気などが挙げられるという。
 ジャラワ族はアフリカからアジアへ移り住んだ初めての部族と考えられており、森の中で遊牧生活を送っている。1998年までは強硬に外部との接触を拒んでいた。
 アンダマン諸島では、先住民を保護する法律のもと、集落への立ち入りが厳格に規制されている。その一方、自然が豊かで、白い砂浜がある同諸島は観光地としての開発が急速に進んでいる。
 同団体は前年6月、ジャラワ族などを間近で観察する「ヒューマン・サファリツアー」を実施したとして、インドの旅行会社8社を非難した。(c)AFP

http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2783379/6725471?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topics

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

科学史家マリアン・ゾンマー教授にラティス賞

2011-01-27 | 先住民族関連
swissinfo.ch 2011-01-26 15:00

人骨、類人猿、DNA。科学史家マリアン・ゾンマー教授はこれらと毎日格闘している。

このゾンマー教授がベルンで1月13日、栄誉ある「ラティス賞 ( Latisis ) 」を受賞した。自然科学の観点から人類史を紐解く研究が高く評価されたからだ。

優れた若手研究者
 ゾンマー教授はスイス国立科学財団 ( Swiss National Science Foundation ) の教授でチューリヒ大学社会・経済史センターに勤務する。ラティス賞では毎年賞金10万フラン ( 約858万円 ) が40歳以下の優れた若手研究者1名に贈られる。

swissinfo.ch : 英文学、言語学、生物学を専攻されたそうですが、これらの3分野がどのように組み合わされて研究に生かされたのでしょうか?
ゾンマー : それは博士論文から始まりました。雑誌「ナショナル・ジオグラフィック ( National Geographic ) 」の中で猿や類人猿がどのように描かれているかの分析に言語学の手法を応用しました。人類の起源や歴史に関する見解が科学の外でどう語られているのか。これを歴史の流れの中で分析することがわたしのテーマです。

swissinfo.ch : 類人猿のイメージは時代と共に変わってきました。これは社会の見方の現れですか?
ゾンマー : ある意味でそうです。人類に最も近い近縁種で現存する類人猿を、人間は自分たちから切り離して考えることはできません。両大戦間や第2次世界大戦後、人間は本質的に攻撃的だという考えが広まり、ナショナル・ジオグラフィックでは特にゴリラが獰猛な獣や怪獣として描かれました。

1960年代にはそうしたイメージは改善されました。有名な女性の霊長類学者たちによる長期にわたる実地調査から、霊長類のことが随分分かってきたからです。また、この60年代の「殺し合うのでなく愛し合おう」的な風潮が人間性の理解により良い影響を与えたからです。もちろん、その後にイギリスの霊長類学者ジェーン・グドール氏がチンパンジーの群れ同士による「戦争」を報告してからは、また新たな見解が生まれましたが。

swissinfo.ch : 博士課程修了後の研究員時代は、実際はクロマニョン人である「赤い婦人 ( Red Lady ) 」に焦点を当てました。
ゾンマー : 19世紀初頭、オックスフォード大学の地質学教授であり聖職者のウィリアム・バックランドがウェールズのパヴィランド洞窟で人骨を発見しました。まず、バックランドはこの骨を女性の魔術師のものだと考えました。さらに、この洞窟がローマ軍の野営地に近かったことから、この女性が易断だけでなく自分の身をもローマ兵士に売っていたという話を作り上げました。この人骨は先史時代を示すマンモスの化石のすぐ近くで発見されたにもかかわらず、バックランドはローマ軍によるイギリス占領と同時代だと断定しました。当時はまだ人類の太古を論じることは非常に危険でした。特に、バックランドのように地位のある人にとってはなおさらでした。

バックランドの死後、絶滅動物と人間が共生していたという事実がよりはっきりし、この人骨は女性ではなく、先史時代のクロマニョン人の男性だと再確認されました。ほかの化石人類のように、「高貴」なクロマニョン人は人類の祖先に位置づけられ、徐々に勢力を争うようになったヨーロッパ諸国の形成に大きな影響を与えたと考えられます。

swissinfo.ch : ほかには、アメリカ自然史博物館 ( American Museum of Natural History ) とチャールズ・ナイトについての研究もありました。
ゾンマー : 進化に関しては、ダーウィンから始まりその後はあまり変化していないと一般の人は考えています。したがって、ナイトのような画家が人類の生活史、特に恐竜に対するイメージに大きな影響を与えたことは非常に興味深い点です。ナイトは20世紀初頭に博物館のために先史時代の風景や動物の絵を描いた画家でした。

ナイトは当時の進化論に従い、恐竜を攻撃的と捉え、戦っている場面か獲物をむさぼり食う場面を描きました。博物館などでこれらの絵を目にした多くの古生物学者は彼の絵にインスピレーションを受けたと語っています。ダーウィンは進化論を唱えましたが、ナイトは進化を目に見える形にし、実感を持たせることに成功したのです。

確かに、映画「ジュラシック・パーク ( Jurassic Park ) 」の恐竜はいまだにナイトのものに似ています。しかし、恐竜に関する科学的な見解や一般的な理解がナイトの時代からは大きく変化したこともこの映画の中に描かれていると思います。ナイトの時代には恐竜は頭が悪いとされていました。当時、恐竜は非常に高い社会的知能を持っており、例えば、群れを成して獲物をしとめたりもしたとは誰も考えませんでした。

swissinfo.ch : 現在の研究プロジェクトでは、特にDNAに注目しているそうですが。
ゾンマー : 近年、科学者はDNAの塩基配列を分析して人類の系統樹と地球規模での移動を捉え直そうとしています。ただ、DNA研究には政治的側面が介入してきます。例えば、ヒトゲノム多様性プロジェクトは先住民族からDNAを採取しようとしたところ反対に遭いました。先住民グループは利用されることを恐れたのです。また、彼らは固有の創世神話を持っているため、歴史学者が彼らのルーツを解き明かすことを好まなかったのです。ところがその一方で、自分たちの起源を知るための遺伝子研究を大いに歓迎する人たちもいます。

イゾベル・レイボルド・ジョンソン, swissinfo.ch
( 英語からの翻訳・編集 中村友紀 )
http://www.swissinfo.ch/jpn/detail/content.html?cid=29316808

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遺跡保存めぐり米が修正案提示 グアム射撃場建設計画

2011-01-27 | 先住民族関連
沖縄タイムス 2011年1月26日 09時23分

【平安名純代・米国駐在契約記者】在沖米海兵隊の受け入れ先の米領グアムで、チャモロ先住民の遺跡などを含むパガット地区に予定されていた実弾射撃場の建設をめぐり、米軍がグアム政府に修正案を提示していたことが25日までに分かった。
 同建設計画では遺跡保存を主張するグアム側が米軍と対立。合意期限を2週間延長し、交渉を継続していたが、妥協点を見いだせなかったため、米軍は移転計画終了時に米国防総省の一部所有地の返還を含む4条件を新たに提示した。
 カルボ・グアム知事は25日の声明で、移転計画について2月にオバマ大統領や国防総省の高官らと協議することを明らかにした。
 米海軍が提示した条件は(1)インフラ整備による生活環境の改善(2)グアム大学などとの提携によるグリーン・プログラムの開発(3)パガット地区への住民の常時立ち入り許可(4)国防総省の一部所有地の返還。
 米海軍は21日公表した声明で、両者が31日までに合意に達しない場合、工事遅延に伴い約10億ドルの被害が生まれる恐れがあると指摘。移転計画に伴う人口の急増を回避するための工期の再調整や、同計画が雇用拡大につながることを強調し、住民に理解を求めた。
 グアム知事広報室によると、新たな合意期限は2月末まで延長されが、移転計画の状況をめぐって米連邦政府の予算削減の可能性もあることから、カルボ知事はオバマ政権との協議でこうした懸念を解消したいとしている。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-01-26_13963/

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白老にアイヌ工芸直売店3棟が来月上旬オープン

2011-01-27 | アイヌ民族関連
【室蘭民報 2011年1月26日(水)朝刊】

 白老・アイヌ民族博物館入場口近くの町有地に、アイヌ伝統工芸品直売店3棟の建設が進んでいる。民芸会館「ミンタラ」が閉館してから1年3カ月、土産店関係者にとっては「待ちに待った」施設。2月上旬にもオープンする予定だ。
 ミンタラでかつて営業していた事業者を含む白老観光商業協同組合の関係者らが全額出資して建てている。年間約20万人の同博物館来館者に「白老ならではのお土産を提供し、楽しんで帰っていただきたい」という思いを強く持った。
 国によるアイヌ民族の象徴的共生空間の設置が事実上白老町に決定、空間・施設整備が今後進められることから、店舗は「仮設置」になる。
 旧ミンタラ跡地でもある町有地に建つ木造の店舗は26平方メートルが1棟、32平方メートルが2棟。1棟に複数の業者が入り、木彫りや刺しゅう製作を実演、アイヌの伝統工芸品を販売する「伝統工芸館」の役割を担う。
 同組合専務理事でミンタラで長年店を出していた盛悦子さんは「15カ月は長かったが、待ったかいがありました。関係者には本当に感謝しています」と話す。
 ポロト湖畔のランドマークともなっていたミンタラは、売り上げの落ち込みなどから一昨年10月に36年間の歴史に幕を閉じ、その後解体されて更地になっている。同博物館来館者から土産店がなくてがっかりしたという声や、いつ土産店ができるのかという問いが聞かれていた。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/01/26/20110126m_08.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする