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北海道新聞2023年10月30日 18:37(10月30日 18:58更新)
昭和30年代の十勝の農村の結婚式を題材に撮影が進む短編映画「馬橇(ばそり)の花嫁」で、帯広市川西農協組合長の有塚利宣さん(91)が、当時の風習を証言して制作に協力した。監督や脚本を手掛ける幕別町出身の映像作家逢坂芳郎さん(43)が23日に聞き取った。
逢坂さんが歴史背景を調べるうちに有塚さんにたどり着いた。
有塚さんによると、かつての結婚式は、農閑期の3月に新郎宅で行うのが慣例で、有塚さんの妻類子さん(89)も70年余り前に馬そりで嫁入りした。「雪解け道で馬そりがひっくり返っては大変なので、村の若者総出で道を平らに直した」と回顧。地域の一大行事で「相互扶助の精神で、幸せも苦しみも分け合った」と振り返った。
映画は来夏の完成予定。有塚さんの話は作品の描写に反映させるとともに映画のDVDに特典映像として収録する。また、逢坂さんは31日までクラウドファンディングで制作費を募っている。詳細は専用サイトキャンプファイヤーへ。(高橋澄恵)
■「結婚式、地域にとっても一大行事」 有塚さんに聞く
――逢坂監督 昭和30~32年(1955~57年)ごろの十勝の農村の結婚式を再現した短編映画「馬橇(ばそり)の花嫁」を撮影しています。当時のことについて教えてください。
「農村の結婚、花嫁が題材ということです。しかも馬そりでということですから、今では考えられない風景です」
「昔は軍国主義の流れがありまして、男女が自由に意思を疎通することは、道徳観念から外れているという教育がありました。ですから農村に限らず、都市も含めて、お見合いの結婚が日本の流れだったと思っています。その辺はヨーロッパはぐんと進んで自由な交際を求めることができたと思っております。私は昭和6年(1931年)生まれで、今91歳です。私が感激したのは戦後、『農村電化』で農村に電気が来るようになったころに放送されたラジオドラマ『君の名は』です。主人公の真知子と春樹が互いに心を寄せ合って、しかしなかなか会うことができない、そんなドラマでありました。こんなにも自由に男女が愛を求め合える世の中が来たのかと、今でも脳裏に残っています」
「とはいえ、戦後しばらくの間は、都市も農村も結婚はお見合いが中心でした。結婚式場と言っても、農村はもちろんのこと、帯広の都市にもどこの都市にも、専門的な式場がなかったわけです。ですから全部、花婿の家で結婚式を挙げました。家は狭いですから、結婚式は大体2回ぐらいやるんです。1回目は近隣の人たちにお披露目。2回目は親戚の者にお披露目ですね。2人の喜びをお披露目する。そういう習慣として、結婚式があったわけです」
「それと、暖房もない時代で家の中が非常に寒い。大勢の人を呼ぶわけですから、一番いい時期となりますと、本当は夏がいいのでしょうけれど、忙しい。また農繁期になると本当に忙しいわけでありますから、4月にはできないわけです。したがって、寒さのしのげる農繁期前の3月というのが定番でした。私の結婚式は3月24日でした。2回やるわけですから、式が終了するのが午前1時ごろになります。ちょうど彼岸のころで、親戚が雑魚寝しても、なんとか寒さをしのげる時期なのです」
「私たちが結婚した時代は、自動車も何にもない時代でありますから、冬は馬そりを使うわけであります。それじゃあ、花嫁さんはどこで花嫁支度をするのかと言いますと、大体どこの集落でも、小さな街があります。小さな街には、昔は『髪結いさん』と言い、今は美容室と言いますが、専門の支度をする場所がありました。3月になると、雪が溶けだして道が悪い。馬そりは幅の狭い乗り物ですから、ひっくり返るんです。花嫁さんが婿さんの家に行く時にひっくり返ったら大変です。それを防ぐために、朝から、新郎の友人たち、村の若い人たちが道をスコップで平らにするんです。夕方になって、きちんと直した道を花嫁さんは馬そりに乗って婿さんの家まで向かいました」
「往時をしのぶと非常に懐かしい。結婚式は人生にとって、そして地域にとっても一大行事であります。農村は相互扶助の精神で成り立っています。ともに喜び合い、つらいことは分かち合う。ですから、結婚式でも花嫁が無事に到着するように、若い人が総出で支援します。私も友達に支えられながら、無事に結婚式を終えました。道を平らにしてくれた友人たちには、家の外でたき火をたいてお酒を振る舞いました。昔は一升瓶でなくて、4斗樽で酒屋さんから買ってきて、結婚式の祝い酒にしました。今回の映画で、農村の馬そりの花嫁さんのこの一こまを残すということは、歴史を刻んで残すことになります。あの当時があって、今がある。一つの感動的な、社会的な歴史を刻むことだと思っております」
――馬そりがひっくり返らないように道を造るというのは、新郎の家の前をきれいにするのでしょうか。
「いや、道路全部です。美容室が近くにないところは、美容師さんに花嫁さんの家に来てもらい花嫁支度をする。そこから新郎の家までの道を全部、何キロあろうと全部、若い人が10人か20人かできれいにスコップで真っ平らにして、馬そりが転覆しないようにするのが、当時のいわゆる隠れた善意の、共存の力だったと思います」
――花婿さん側、花嫁さん側両方のお友達が道を造るのでしょうか。
「婿さんの友達です。その頃は仲間の絆が非常に強いんです。尊い、なくてはならない、強いお互いの絆が今日の十勝の農業の土台だと思っております。十勝は北海道を14に分けた行政区域の中でも歴史が浅く、今年で開拓141年です。その前は松前藩を中心とした行政が地域を開拓しておりました。明治になり藩がなくなってからは屯田兵、官の人たちが農業の開拓や道路インフラの開拓をやってきたわけでありますが、十勝は手つかずの土地であり、その後、民による開拓が行われました」
「私の先祖は四国ですが、マイナス35度という極寒のことなど誰一人知らずに十勝に来ております。温暖なところから十勝にきた当座、一体どうしたかと言いますと、先住のアイヌ民族に助けられました。私の父親は生まれる時、アイヌ民族の古老の老婦人に取り上げてもらったと聞いています。医療が何にもないわけでありますから、『頭が痛い時にはこの野草を乾燥させて煎じて飲めば治るんだよ』『腹の痛い時はこの野草を煎じて飲むんだよ』とアイヌ民族の医療文化に支えられてきました。またアイヌ民族は狩猟民族でありますから、猛獣と戦い、大きなけがをすることもあります。『けがをした時の血止めはこうしたらいいんだよ』とも教わりました」
「開拓初期は、冷害と水害との戦いでもありました。何一つ収穫できない冷害の時にもアイヌ民族の食文化に助けられました。当時は、雪が溶けるとすぐ、川が真っ黒になるほど、ウグイが産卵に遡上(そじょう)してきます。それを全部すくい上げて煮干しにして、保存食にします。これは祖父母たちがアイヌ民族から教わったことです。アイヌの人たちは、妊娠したお嫁さんのおなかも触ってくれたんですよ。『双子が入っているけど、逆子でないから私が取り上げる』とか『これは逆子だから私は無理だ』とか、そういったことを教えてくれたんですね。昔はお産も自分の家でやったんです。経験者、要するに婿さんの母親、それから祖母といった人がみんな花嫁さんのお産を手伝った。でも時には逆子で産めない場合もある。その時は戸板に垂木(屋根の角材)を打って持ち手を付けて、それを救急車の代わりにして、若い男が帯広の街にある産婦人科に連れて行きました。街まで20キロ、30キロと距離があるけど、みんな一生懸命走ったね。あんまり振動させてはならないから、布団ではだめ。戸板だからいいんです。そういう時代がありましたね」
――相互扶助という精神は、これからも、引き継いでいかなければいけないですね。
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