先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

自然じっくり 春満喫 恵庭公園で観察会

2024-05-14 | アイヌ民族関連

伊藤凱 有料記事

北海道新聞2024年5月13日 21:15

春の植物や生き物に触れた恵庭公園の自然観察会

 【恵庭】春の草花や生き物に触れる自然観察会が、恵庭公園で開かれた。市内外から約40人が参加し、ガイドの解説を受けながら新緑の中を散策した。

 北海道自然観察協議会が主催し、11日に開いた。同協議会の自然観察指導員がガイドを務め、4グループに分かれて公園内を約2時間かけて歩いた。

 ガイドはニリンソウなどの春の草花や、この時期に公園で見られる野鳥、昆虫などについて解説。ハルニレの木の繊維がアイヌ民族の衣類に使われたことなど、・・・・・

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1011166/


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令和6年度第1回人権問題都民講座

2024-05-14 | アイヌ民族関連

「アイヌ文化と多様性 もともと多様な『わたしたち』が考えるアイヌについてのお話」

2024年05月13日  総務局, (公財)東京都人権啓発センター

近年、アイヌ民族が登場するアニメや映画が人気を集め、若い世代を中心にアイヌ文化への関心の高まりがうかがえます。
「アイヌの人々と人権」を考えるとき、アイヌ文化の一部を取り出して表面的に知るだけでは不十分であり、近くで生活する当事者の存在を意識した視点や、その文化を担ってきた人に対する想像力を持つことが重要です。
社会の中の多様性が参加者自身の生活と密接に関係していることを感じるとともに、当事者や非当事者がどのように「文化」を捉え、関わっていけるのかを学びます。

1 名称

令和6年度第1回人権問題都民講座
「アイヌ文化と多様性 もともと多様な『わたしたち』が考えるアイヌについてのお話」

2 日時

令和6年6月26日(水曜日)午後6時30分から午後8時30分まで
(開場:午後6時00分)

3 開催方法

会場及びオンライン(Zoom)開催

4 会場

東京都人権プラザ 1階 セミナールーム
(港区芝2-5-6 芝256スクエアビル 1階)

5 講師

北原モコットゥナㇱ/北海道大学アイヌ・先住民研究センター教授
千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程修了。専門は文化人類学、神話・ジェンダー研究。旧アイヌ民族博物館学芸員などを経て、2010年から北海道大学に勤務。東京都で生まれ埼玉県上尾市で育つ。4歳のころに自身のアイヌ民族のルーツを知り、18歳から北海道でアイヌ文化の勉強を始めた。著書に『アイヌの祭具 イナウの研究』『アイヌもやもや』がある。

6 主催

東京都人権プラザ(指定管理者:(公財)東京都人権啓発センター)

7 フォローアップ企画

フォローアップ・テキスト(事後学習資料)の提供

参加者が講座内容に関して事後学習を行い、より理解を深められるよう学習資料を参加者に提供します。

8 参加方法

要事前申込み。参加無料。会場定員:60名、リモート参加定員:200名
(会場参加は応募多数の場合は抽選。リモート参加は申込人数によって増員あり)

9 申込先

東京都人権プラザ

04_02.png

  • (2)電話 03-6722-0123
    ※電話でお申し込みの場合は、以下の内容をお知らせください。
    1)代表者名2)参加人数3)参加形式(会場・オンライン)4)受講票送付先(住所・メールアドレス)5)電話番号6)障害等による必要な配慮の有無(有の場合は内容)

10 申込締切

令和6年6月19日(水曜日)正午

11 その他

手話通訳や点字通訳などの情報保障、託児についてはお問い合わせください。

本件は、「『未来の東京』戦略」を推進する事業です。
戦略6 ダイバーシティ・共生社会戦略「インクルーシブシティ東京プロジェクト」

問い合わせ先

(公財)東京都人権啓発センター普及啓発課

電話 03-6722-0123

総務局人権部人権施策推進課

電話 03-5388-2588

https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2024/05/13/04.html


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世の中ラボ【第168回】アイヌ民族差別の背景には何がある?

2024-05-14 | アイヌ民族関連

Webちくま2024年5月13日更新

https://www.webchikuma.jp/articles/-/3507

斎藤 美奈子

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2024年5月号より転載。

 自民党・杉田水脈衆院議員の差別発言が止まらない。「LGBTは生産性がない」(2018年)とか、「女性はいくらでもウソをつける」(20年)とか、彼女はもともと全方位的に差別発言を撒き散らす人ではある。が、最近目立つのはアイヌ差別だ。
 度重なる差別発言で総務政務官は辞任したものの(22年12月)、23年にはアイヌ文化振興事業に公金不正流用疑惑があるとし、関係者を「公金チューチュー」と揶揄。同年、札幌法務局と大阪法務局が彼女のブログやツイートに人権侵犯があると認定したのは、16年の国連女性差別撤廃委員会について「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場。完全に品格に問題があります」などと書いたのが原因だった。それでも懲りず、24年3月にはアイヌ女性団体の活動にふれ「日本に存在しない差別を話す人たち」とXに投稿。またかと思わせた。
 ヘイト業界(とあえていうが)にもトレンドがあって、たとえば90年代の主なヘイトの対象は歴史教科書とセットになった元慰安婦だった。2000年代初頭にはジェンダーフリー教育が攻撃の的となり、2010年代には在特会を中心に在日コリアンに対するヘイトデモが吹き荒れた。その伝でいくと10年代後半~20年代に台頭してきたのがアイヌ民族差別で、杉田水脈もその波に乗っているように思われる。背景には何があったのだろうか。

アイヌ民族をめぐる政策の進展と差別
 まず近年の動向についてまとめておこう。
 2000年代後半以降、アイヌ民族をめぐる状況は大きく前進した。国連が「先住民族の権利に関する国連宣言」を採択したのが07年。翌08年には国内でも「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が国会で可決され、10年には官房長官を座長とするアイヌ政策推進会議が発足。さらに19年、それまでの「アイヌ文化振興法」(1997年制定)が廃止されて「アイヌ施策推進法(アイヌ新法)」が公布され、ここにはアイヌ民族が日本の先住民であることが明記された。また20年には北海道白老町に日本初の国立アイヌ民族博物館「ウポポイ」がオープンした。いずれも多様性を尊重する国際的な動きに沿った動きである。
 アイヌ新法にも先住権が明記されていないなどの問題点があるとはいえ、「日本は単一民族国家」と流布されていた20世紀に比べたら、隔世の感がある。実際、アニメ化&実写映画化された野田サトルのマンガ『ゴールデンカムイ』のヒットなどもあり、アイヌ文化に対する関心はここ数年、急激に高まっている。
 しかし進展があれば、その反動めいた動きも起きる。日本テレビの朝の情報番組が差別的な表現を用い、BPOの指摘を受けて謝罪に追い込まれたのは21年だった。それ以前でいうと、札幌市議(当時)・金子快之のツイートが特筆される(14年)。彼はそこで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません」と書いて自民党札幌議連を除名になり、札幌市議会から辞職勧告を出されている。
 この発言のどこが問題かは、岡和田晃+マーク・ウィンチェスター編『アイヌ民族否定論に抗する』に詳しい。巻頭の対談で編者の二人は次のように述べている。〈アイヌ民族否定論がかつての差別と違うのは、それはアイヌを貶めるための意図的なネガティヴ・キャンペーンだという点です〉(マーク)。〈アイヌに投げかけられているヘイトスピーチは、インターネット上に氾濫する生活保護や在日コリアンに対する罵詈雑言、民族浄化(エスニック・クレンジング)を謳う文句と、まったく同じ類のものです〉(岡和田)。〈アイヌ民族否定論はいま「アイヌ利権」なるものへの批判とセットで出てきています〉(マーク)。金子の発言はまさにこれだ。
『否定論に抗する』が出版されたのは約10年前(15年)である。その後ヘイトスピーチ解消法なども施行され(16年)、状況は改善されたのではないか……と思われそうだが、杉田水脈の例を見れば改善などしていないことがわかる。では杉田や金子ら差別主義者が依拠する主張とはどのようなものだろうか。
 それを理解するには、先住民の側から見た北海道の歴史について若干知っておく必要がある。旧石器時代→縄文時代→弥生時代……と続く本州以南の歴史に対し、北海道先住民の歴史は弥生以降が大きく異なる。稲作ができなかった北海道ではその後も縄文文化が続き(続縄文文化)、本州の影響を受けた擦文文化と北方民族に由来するオホーツク文化の混在期を経て、アイヌ文化が成立したのが中世の13世紀(日本史的にいえば鎌倉時代)。松前藩との交易や戦いが行われた近世(江戸時代)を経て明治を迎え、明治政府の同化政策(土地の収奪、強制移住、生業〔狩猟や漁労〕の剥奪、日本語や日本式の名前の強制など)が始まった。
 で、今日のアイヌ民族否定論。これが広まった際には、小林よしのり『わしズム』(08年11月、28号)の特集「日本国民としてのアイヌ」がインフルエンサーとして作用したようだが、それ以前から今日まで一貫してアイヌ否定論の本を出し続けているのが旭川の医師である的場光昭だ。彼の著書(『改訂増補版 アイヌ先住民族、その不都合な真実20』『アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』を斬る』『捏造と反日の館“ウポポイ”を斬る』など)を参考に彼らの主な主張を整理すると、およそ次のようになろう。
 ①アイヌ民族は北海道の先住民ではない。
『日本書紀』などの文献によれば七世紀以前から和人はこの地に住んでおり、アイヌの神話にも習俗にも考古学的な出土品にもアイヌ文化には日本文化の影響が強くうかがえる。アイヌ民族は13世紀に北方から移動してきたにすぎず、北海道の先住民は和人だ。
 ②同化政策は近代化政策だった。
 北海道旧土人保護法(1899年)は差別ではなく保護を目的にしており、アイヌ自身もそれを望んでいた。
 ③同化や混血が進んだ今日ではアイヌ民族は存在しない。
 ④したがってアイヌ差別も存在しない。
 ⑤アイヌ利権で彼らは公金を不当に得ている。
 一応反論しておけば、①は先住民の認識が誤っている。国連宣言に先住民の定義はないものの、89年のILO一六九号条約(原住民及び種族民条約)は「独立国における人民で、征服、植民又は現在の国境の確立の時に当該国又は当該国が地理的に属する地域に居住していた住民の子孫であるため原住民とみなされ、かつ、法律上の地位のいかんを問わず、自己の社会的、経済的、文化的及び政治的制度の一部又は全部を保持しているもの」と定義している。先住民(原住民と意味は同じ)とは古代に誰か先に住んでいたかではなく、征服、植民地化、国境の確定といった近代国家の確立時に居住していた人々(とその子孫)を指しているのだ。
 さらにいえば、②は植民地支配を正当化する際の常套句。③④はマジョリティの側からの認識にすぎず、⑤はアイヌ新法に基づく文化事業への交付金や生活向上支援(住宅支援や教育支援など)を指すと考えられるが、これは格差是正のための施策で「在日特権」と同質の言いがかりだ。ただ、③④については少し補足が必要だろう。

いないのではない、言い出しにくいのだ
 北原モコットゥナシ『アイヌもやもや』には「見えない化されている「わたしたち」と、そこにふれてはいけない気がしてしまう「わたしたち」の。」という長い副題がついている。
 ネット上では〈ずっと北海道に住んでいるがアイヌに会ったことがない〉といったコメントを見るが、彼らも周囲の人に「あなたはアイヌか」と質問したことはないはずだ、と著者はいう。性的マイノリティなどと同じで、いないのではない、〈言いだしにくいんです〉。〈母と同年代やもう少し若い人々でも、配偶者にさえ出自のことをかたくなに伏せて暮らしていることが珍しくありません〉という現実がそこには横たわっている。
〈「アイヌはもういない」というような存在否定論は、本来ならとても難しい条件を相手に課して、その条件が満たされなければ「存在しない」と断定するものです〉。
 先住民族も現代人である以上、現代的な生活を営んでいるのは当然で、アイヌ文化の純粋性が失われたとか混血が進んだとかが「アイヌは存在しない」理由にはならない。加えて〈現代でもアイヌと和民族には歴然とした経済格差がある〉こと、〈それは制度的・文化的差別によって引き起こされたもの〉であること。現在でも直接的差別によって進学を断念したり、外見を揶揄されたりすることなどを加えれば、差別はないとは断じていえまい。
 かつてのアイヌ民族差別は主として無知から来る偏見によるものだった。しかし『否定論に抗する』でも述べられていたように、現在のそれは「加害の歴史を認めない」という点で、限りなく歴史修正主義に近い。事実〈アイヌ先住民族運動は国内の左翼反日勢力はもとより、国内在住外国人反日勢力に利用されている〉(『不都合な真実20』)という的場光昭の言説には、慰安婦問題などと共通したステレオタイプな思考法が見える。
 概してその分野での進展があった直後にヘイトは増加する。とはいえヘイトスピーカーは無知につけ込む。以前、日本ハムファイターズが千歳空港に「北海道は開拓者の大地だ」という広告を出し、抗議を受けて撤去騒ぎになったことがある(15年)。コロンブスとアメリカ先住民の関係を思い出せばわかるだろう。開拓者(和人)の側から土地や歴史を見る習慣に、すでに無知と偏見が潜んでいるのだ。アイヌ民族差別は北海道だけの問題じゃないのである。

【この記事で紹介された本】
『アイヌ民族否定論に抗する』
岡和田晃、マーク・ウィンチェスター編、河出書房新社、2015年、2090円(税込)

〈札幌市議の「アイヌ民族、いまはもういない」発言。ネット上にあふれ、街頭にも飛び出したアイヌへのヘイトスピーチ。これらに多様な論者が「NO」を突きつける初めての一冊。緊急刊行!〉(帯より)。作家や研究者など24人による論考集。杉田水脈アイヌ差別発言の源流がどこにあるかがわかる本。10年前の刊行にもかかわらず、今も十分通用するのが逆に恐ろしい。

『改訂増補版 アイヌ先住民族、その不都合な真実20』
的場光昭、展転社、2014年、1980円(税込)

〈アイヌ系日本人を「先住民族」とするアイヌ新法案に疑義!〉(帯より)。アイヌ関係の著書を量産している著者(1954年生まれ。旭川ペインクリニック病院理事長)によるアイヌ先住民説否定論。よく調べているのは事実だが、アイヌ民族は野蛮だったという明治以来のアイヌ像を何の疑問もなく踏襲しており、偏見を助長する恐れ大。ただし編集が悪く、これ一冊で主張の全貌をつかむのは難しい。

『アイヌもやもや』
北原モコットゥナシ、303BOOKS、2023年、1760円(税込)

〈「アイヌに会ったことがない」、それって本当ですか?〉(帯より)。自身もアイヌにルーツを持つ著者(1976年生まれ。北海道大学アイヌ・先住民研究センター教授)の文章と、やはりアイヌにルーツを持つ東京の高校生を主役にした漫画で構成。無知と無関心が当事者にもたらす影響、差別のステレオタイプなど、根本的な問いにも踏み込んでおり、平易な語り口だが読みごたえは十分。

PR誌ちくま2024年5月号

https://www.webchikuma.jp/articles/-/3507


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北海道(3)音威子府、ビッキ美術館、美深

2024-05-14 | アイヌ民族関連

集英社新刊プラス2024.5.13

アレックス・カー

 プルーストの『失われた時を求めて』には、地名に関する話が多く登場します。プルーストは音楽、絵画、寺院などと同じくらい地名に執心していました。小さい農村やノルマンディ海岸の漁村の地名についても細かく書いていますし、小説の語り手、つまりプルースト自身がいつも乗っていた田舎の電車の停まる駅を一つひとつ取り上げ、町名の語源や歴史、またその発音が醸し出すイメージなどを長々と語っています。若いころの私はその文章を退屈に感じ、プルーストがなぜそこまで地名に没頭するのか疑問に思っていました。しかし、私自身も歳を重ね、地名には奥深い文化と生命力が秘められていることが、ようやく分かるようになってきました。

 旭川から国道40号を使って北を目指すと、人家はどんどん減っていきます。道路脇には防雪柵が延々と続き、北海道内陸部の冬の過酷さがそこから伝わってきます。

 40号の途上には、比布ぴっぷ町、和寒わっさむ町、士別しべつ市、名寄なよろ市、美深びふか町と、いかにも北海道らしいネーミングの場所がネックレスの珠のように続いています。「広島」や「岡山」など、漢字から意味が分かるような地名もそれなりに面白いのですが、徳島県の祖谷いや、岐阜県の恵那えななど、「音」を借りて当て字にした地名には、古来の日本語の響きがあり、そこに私はロマンを感じます。

 北海道のロマンの原型には、アイヌの文化があります。石狩川が流れる比布はアイヌ語で「石のごろごろしているところ、川」、和寒は「オヒョウニレの木、傍ら」という意味だそうですが、それらの音を聞いただけで、日本とはまた違う北海道を感じ取れるのです。

 国道40号は美深町の南側に位置する名寄市あたりから、天塩てしお川という大きな川に沿って敷かれています。総延長二百五十六キロメートルの天塩川は、石狩川に続いて道内で二番目に長い大河であり、平坦な土地を流れるため、水面が穏やかです。ゆるやかな蛇行を繰り返す天塩川を数回、橋で渡りました。私が見た範囲では、護岸工事はほとんどされておらず、ほぼ自然のままの状態でした。コンクリートで固められていない自然の河川は、現代日本ではとても珍しいものです。

北の小さな村に現代アートの息吹が宿る

 旭川から稚内を結ぶ国道40号は、音威子府おといねっぷで北東と北西に分岐しています。北東に進むとオホーツク海、北西に進むと日本海に通じ、内陸の要衝の地ですが、自治体としての音威子府村は北海道でいちばん小さく、また人口が少ない村です。

 今夜の宿は美深町にある「青い星通信社」に決めていましたが、その前に美深町の北、音威子府にある「エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア」を訪れることにしました。ここにはアイヌのルーツを持った現代彫刻家、砂澤ビッキ(1931-1989)の記念館があるのです。

 通称「砂澤ビッキ記念館」は、天塩川にかかる筬おさ島しま大橋を渡った先の筬島地区にあります。敷地内には二棟の建物が立っています。

(写真)「エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア」通称、砂澤ビッキ記念館は旧・筬島小学校の校舎

 一つは廃校になった村立の旧・筬島小学校の校舎で、生前にビッキが暮らしていた建物です。ここが現在はミュージアムの展示空間となっています。もう一つは丸いトタン屋根の仕事場で、まるでビッキがいまも生きているかのように、未完の作品が制作中の雰囲気のままに置かれています。

(写真)ビッキの仕事場

 砂澤ビッキは1931年に現在の旭川市にある近文チカブミコタンというアイヌ集落に生まれました。本名は恒雄ひさおでしたが、幼少のころからビッキ(カエル)の愛称で呼ばれ、周囲から親しまれました。

 明治時代から1940年代まで続いていた近文コタンは、旭川で盛んに行われていたアイヌ工芸の中心地の一つで、ビッキの両親も工芸職人でした。51年に家族は道東の阿寒湖(現・釧路市)へ移住。冬は近文で小刀などの工芸品を制作し、夏に阿寒湖畔の店でそれらを販売していました。ビッキの母、ベラモンコロは当時大人気だった木彫りの熊を売っていましたが、その熊を彫っていたのがビッキでした。

 ビッキは53年に最初の妻である画家の山田美年子みねこと鎌倉に移住し、五年ほど鎌倉と阿寒湖を行き来する生活を送ります。鎌倉では文学者、澁澤しぶさわ龍彦のサークルに所属し、世界的な画家、彫刻家、作家の作品に触れます。前衛舞踊「舞踏」の創設者、土方ひじかた巽たつみという最先端のアーティストとも親交があり、ここからアーティストとしての自我を磨いていくことになりました。

 59年に旭川に戻ったビッキは、78年に音威子府の長閑な田園風景を気に入って、移住を決めました。廃校となった筬島小学校跡を村から譲り受け、「BIKKYアトリエ3モア」として、89年に亡くなるまで音子威子府の地で作品制作を続けました。

 ミュージアムは2003年に校舎を改修したものです。館内は展示スペース含め、七つの空間に分けられています。

 入口からすぐの部屋は、ビッキが札幌で内装を手がけたバーを再現した「いないいないばぁー」という喫茶スペースになっています。ウッディな「いないいないばぁー」は、1970年代に芸術家たちが集まったアングラバーのような雰囲気もあり、居心地のいい一画です。

(写真)いないいないばぁー

 そこから「風の回廊」「土」「人」「森」……と、昔の教室を使った展示室が続きます。風の回廊の床にはウッドチップが敷き詰められていて、それぞれのスペースが資料館として、うまく演出されています。

 館内に掛けられていた写真のビッキは、精悍な顔立ちでフサフサしたヒゲを生やし、熊のような表情で、大地から生まれた野性を感じさせます。

(写真)「風の回廊」に掛けられたビッキの肖像写真

 館内の展示で、私は特に二つの作品に感銘を受けました。一つは、半分朽ちた状態の大きな木彫像です。これは80年にビッキが制作した高さ十五メートルのトーテムポール「オトイネップタワー」の残骸で、木の破片と共に土の上に置かれています。音威子府駅前に十年の間、設置されていましたが、90年に強風で倒れてしまったとのこと。この牛頭部分だけをミュージアムの駐車場に屋外展示していましたが、十年ほど経つうちに腐食が進み、最終的に展示室内で保管することになりました。ビッキは「作品は自然の手が加わってはじめて完成する」という言葉を残しています。その言葉の通り、薄暗い部屋に眠る牛の彫刻は神秘的でした。

「土」の部屋にあるビッキの作品、牛頭の彫刻

 もう一つは、十字架の形をした大きな木の彫刻「TOH」です。原住民のアートを学ぶためにしばらくカナダに滞在したビッキが、84年に日本に戻ってから作り上げた晩年の傑作です。全体像は抽象的でミニマルですが、ノミの跡がついた表面からは木の息吹がいきいきと感じられます。

(写真)ビッキの作品「TOH」は“樹氣”との対話から生まれたという

 展示を見終えた後「いないいないばぁー」でコーヒーを飲みながら、学芸員の川崎映さんと話をしました。札幌市出身の川崎さんは、音威子府村立の「北海道おといねっぷ美術工芸高等学校」で美術工芸を学んだ卒業生です。札幌の大学を卒業した後、再び音威子府に戻り、エコミュージアムで学芸員の仕事をしながら、自身でも生き物の細密画を描き、個展も開いています。

 音威子府は小さな村でありながら、アートに力を入れることで、ユニークな存在感を発揮しています。ビッキの活動を支援しただけでなく、84年に設立した美術工芸高校では、生徒が道内のみならず全国から集まってきて、その半数は寮生活をするそうです。極小の自治体ではありますが、この美術工芸高校があることで、十代の人口の幅が広がっています。

 川崎さんがバーカウンターの向こうでコーヒーを淹れてくれる喫茶スペースは、もともとビッキが書斎として使っていた部屋でした。彼が生前に収集した蔵書は、内外の美術書のほかに、夢に関する本、世界の民族芸術、メキシコやアフリカの絵画や仮面、フクロウやオオカミについての自然の本など、一千冊以上に及んでいたそうです。

 本や芸術雑誌から得た知見は、ビッキのアートにおける重要な要素でした。たとえばビッキが独自に考案した「ビッキ文様」は、アイヌ文様のモレウ(渦巻文)や西洋の組紐文、古代ギリシアの迷宮の文様など、さまざまなものが混ざり合って生まれたものです。ビッキの作品は、いにしえのアイヌ思想をベースにしながら、諸国の民族芸術や世界のモダンアートと融合した、折衷的なものといえます。

 これは世界中の伝統ある文化圏で起こっている現象です。現代人にとって古いものは古いままではパッとしません。伝統的な環境で育った現代アーティストは皆大なり小なり「伝統」と「現代」というミスマッチを、何らかの形で乗り越えなければなりません。逆説的になりますが、その際は外からの影響や現代的な精神を取り込むことで、はじめて古いものの良さや精神性が引き立って見えるようになります。

 ビッキ自身は「アイヌでもシャモ(和人)でもなく、一人の現代彫刻家として評価されたい」と語っていたそうです。ジャンルは違いますが、坂東玉三郎さんや安藤忠雄さんは、日本の芸術家でありながらインターナショナルな存在で、同時代のトレンドを自身の表現や作品に取り入れることで、世界的な評価を得ています。ビッキはアイヌというアイデンティティを生涯持ち続けながら、超モダンからアングラまで世界のあらゆるアートに触れ、彼だけの世界を実現しました。その異端なあり方から、私はかえってアイヌ文化とその奥にあるアイヌ精神というものを深く感じることができました。

「激流の滝」が墨絵のような景色を作る

 さて、音威子府からいったん逆戻りする形で、美深町へ南下します。

 美深は東京二十三区よりも広い面積を持つ町で、数千人が住む集落以外には森と湿原が奥深く広がっています。美深という漢字は何ともロマンチックなものですが、その語源はアイヌ語の「ピウカ」で、「石の多い場所」という意味だそうです。美深は稲作の北限とされる土地で、車窓からの景色も麦畑や牧場が目立ちます。

 私たちは美深東部にある仁宇布にうぷ地区の「仁宇布の冷水・十六滝」へ行ってみることにしました。「深緑の滝」「雨霧の滝」「高広の滝」などと名付けられた十六の滝は、それぞれに個性があるようですが、広域に散らばっています。この日の午後に降った激しい雨のせいで、一帯がひどくぬかるんでいたので、今回は「激流の滝」だけを見ることにしました。

 小雨の中、未舗装の山道を進んでいく途中には、濡れたシダやフキの葉が鮮やかな緑に輝き、周りの木々からは透明な雫が絶え間なく落ちていました。静まり返った森には私たち以外に人の気配はありません。滝の側まで来ると「熊・出没注意」の看板が立っていました。青森でも同じ看板にたびたび遭遇しましたが、北海道のクマは本州にいるツキノワグマより、はるかに獰猛とされるヒグマですので、緊張がより高まります。

(写真)「激流の滝」にいたる小径

 激流の滝は「滝」すなわち高台から落ちる水というよりも、岩の間に降り注ぐ急流といった趣でした。岩の並びに沿って、左右ジグザグに向きを変えながら流れる白く泡立った急流と、岸にある松の下り枝が古い墨絵のような景色を作り出していました。

(写真)「激流の滝」

 その眺めに見惚れているうちに、あたりが暗くなり始めました。熊が出没したら大変。名残を惜しみながらその場を後にし、美深の市街地まで急いで戻りました。

 天塩川にかかる紋穂内もんぽない橋という長い橋を渡った先に、青い星通信社があります。橋を渡る途中に見た川は、午後に襲ってきた激しい雨で増水し、川面は茶色く濁って、流れも速くなっていました。紋穂内橋の端から端までは、けっこう距離があります。左右に天塩川の大きな流れを見ていると、本当にこの先に宿があるのだろうかと思いました。橋を渡り切ったところに、石レンガの建物と灯りが見えてきました。

(つづく)

構成・清野由美 撮影・大島淳之

https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/alexkerr_deepnippon/26930


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大切な〈言葉〉についての哲学絵本『もし、世界にわたしがいなかったら』5月15日発売!

2024-05-14 | 先住民族関連

時事通信 2024年05月13日16時16分

[株式会社西村書店]

2024年5月15日、西村書店(千代田区/代表取締役 西村正徳)は、『もし、世界にわたしがいなかったら』を発売します。

『もし、世界にわたしがいなかったら』ビクター・サントス 文 アンナ・フォルラティ 絵 金原瑞人 訳(西村書店

〈言葉〉があふれる今だからこそ考えたい、大切な問いをくれる絵本

世界じゅうどこにでも、いろんな姿をした 何千もの わたし がいる。

わたしは あなたを、過去へ、現在へ、未来へ、つれていってあげられる。

そのいっぽうで、消えようとしている わたしもいる。 ――わたしは なんでしょう?

人間と社会にとって不可欠であり、世界の文化の多様性を支えている〈言葉〉。

話し言葉、書き言葉、点字、手話など、さまざまな言葉の大切さを、

すっと心に届くシンプルな文章と、深くあたたかみのある挿し絵でえがき、

「人間とは」「世界の豊かさとは」を問いかけるユニークな哲学絵本です。

*世界20言語で刊行!

*イタリア・ボローニャ国際児童図書展「美と世界:新しいノンフィクション絵本」2023年 選定作品

*ユネスコ「先住民言語の国際の10年」(2022-2032年)の公式選定絵本

*ドイツ・ミュンヘン国際児童図書館カタログ『ホワイト・レイブンズ2023』 選定作品

*「dPICTUS 未刊絵本ショーケース」2022 年 選定作品

◆いま、消滅の危機にある言語について

現在、世界で使われている7,000以上の言語のうち、少なくとも半分は2100年までになくなるといわれています。その多くは先住民の言語であり、本書には日本のアイヌなど世界のさまざまな民族の姿も描かれています。

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、アイヌ語や琉球諸語を含む「消滅危機言語」を報告しており、2022年から32年までを「先住民言語の国際の10年」と定めることを発表。先住民族言語の保護や活性化のための行動を促しており、本書はユネスコ「先住民言語の国際の10年」公式絵本(2022~2032)に選定されています。

◆ネットギャリー・レビュアーからも反響多数!

◇ 普段考えることのないテーマに少なからずショックを受けました。

◇ これは大人向けの絵本だと思います。絵もなかなかいいし、〈言葉〉というものに対して、いろんなふうに考えることができるのがいい。とても面白かった。

◇ 消えかけている多くの〈わたし〉がいる。何気なくつかっている〈わたし〉をもっと大切に使いたい。

★★★推薦の言葉★★★

「最高の作品というのは『もし、世界にわたしがいなかったら』のような絵本のことだ。」――シドニー・スミス

(絵本作家。作品に『ぼくは川のように話す』ほか。2024年国際アンデルセン賞受賞画家)

「共通の人間性についての美しい絵本。」

――フェリシタ・サラ

(イラストレーター。作品に『おじいちゃんのくるみのき』ほか。2020年イタリア・アンデルセン賞最優秀イラストレーター賞受賞)

”この絵本は、世界の言語、文字、文化が織りなす美しいタペストリーへのささやかな拍手であり、それをささえてくれている人々へのささやかな声援です。”

(作者あとがきより)

『もし、世界にわたしがいなかったら』刊行を記念して、金原瑞人さんトーク&サイン会を開催いたします!

★翻訳家 金原瑞人さんトークショー&サイン会★

◎日時:2024年5月25日(土)14時~15時

◎場所:大垣書店麻布台ヒルズ店 NEUTRALp.2

◎参加費:1650円(税込・ドリンク付)※書籍代は含まれません。書籍は別途ご購入のほどお願いいたします。

◎参加条件:専用フォームよりご応募の上、大垣書店麻布台ヒルズ店のレジにてチケット代をお支払いください。参加チケットと交換いただけます。

◎詳細は大垣書店ホームページ・イベント情報をご確認ください。

*大垣書店麻布台ヒルズ店にて5月18日から30日まで、小社が所蔵する人気絵本作家の原画展など、〈西村書店フェア NISHIMURA EHON MUSEUM-もし、世界にわたしがいなかったら〉を開催します*

作者・訳者プロフィール

文●ビクター D. O. サントス Victor D. O. Santos

サントスさんのSNSより。完成した日本語版を手にニッコリ。児童書の作家、博士(言語学)。今までに6カ国で暮らし、10の言葉を学んできた。英語で書いた最初の作品『My Dad, My Rock』(未邦訳)は2022年のカーカス・ベストブックに選ばれた。ブラジル出身で、現在はアメリカのアイオワ州デモインに在住。ウクライナ人の妻との間にふたりの子どもがいる。ふたりはいくつもの言葉を話し、いくつもの文化を知っている。インスタグラム: @linguacious_llc/公式サイト: authorvictorsantos.com

絵●アンナ・フォルラティ Anna Forlati

アーティスト、イラストレーター。『Yoga for Kids』や『My Dad, My Rock』(いずれも未邦訳)の絵を描いている。本書『もし、世界にわたしがいなかったら』は「dPICTUS未刊絵本ショーケース」で注目され、ボローニャ国際児童図書展で展示された。高校から大学まで古代ギリシア語とラテン語を学び、今はアラビア語を学んでいる。イタリアのトリノ在住。公式サイト: annaforlati.com

訳●金原瑞人(かねはら みずひと)

1954年岡山市生まれ。法政大学教授・翻訳家。訳書は児童書、ヤングアダルト小説、文芸書、ノンフィクションなど600点以上。訳書に『不思議を売る男』『青空のむこう』『月と六ペンス』『どこまでも亀』『ニューベリーの物語』『男の子でもできること』、エッセイ集に『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』『サリンジャーにマティーニを教わった』、監修に『13歳からの絵本ガイド』、日本の古典の翻案に『雨月物語』『仮名手本忠臣蔵』など。公式サイト:kanehara.jp

書 誌 情 報

■書名:もし、世界にわたしがいなかったら

■ビクター・サントス 文 アンナ・フォルラティ 絵 金原瑞人 訳 

■発売日:2024年5月15日

■ISBN:978-4-86706-049-0 ■定価:1980円(本体1800円+税) 

■体裁:A4変型・上製 ■ページ数:42ページ ■発行・発売:西村書店

■販売場所:全国書店、ネット書店ほか

・amazon:https://www.amazon.co.jp/dp/4867060496/

・楽天ブックス:https://books.rakuten.co.jp/rb/17845570/

・honto:https://honto.jp/netstore/pd-book_33323265.html

・紀伊國屋書店ウェブストア:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784867060490

・セブンネット:https://7net.omni7.jp/detail/1107504160

・ヨドバシ.com:https://www.yodobashi.com/product/100000009003837462/

■西村書店ホームページ:http://www.nishimurashoten.co.jp/book/archives/19043

★イベントのお知らせ★

大垣書店麻布台ヒルズ店〈NISHIMURA EHON MUSEUM-もし、世界にわたしがいなかったら〉

https://www.jiji.com/jc/article?k=000000067.000010438&g=prt#goog_rewarded


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北大生3人、白老の飲食店訪問 山菜の下処理や保存法学ぶ 北大祭でアイヌ料理ブース開設を構想

2024-05-14 | アイヌ民族関連

苫小牧民報2024/5/13配信

 北海道大学の3、4年生3人が11日、白老町の山林や飲食店を訪れ、アイヌ民族が食べてきた山菜の下処理や保存法を学んだ。道民として北海道の先住民族への理解を深めたいとの思いからで、リーダーで農学部森林科学科3年の丸山友希さん(21)は「白老で…

この続き:664文字

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https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/138302/


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「河鍋暁斎×松浦武四郎」展 2人の奇才、静嘉堂との縁 東京・丸の内

2024-05-14 | アイヌ民族関連

毎日新聞2024/5/13 東京夕刊 有料記事 909文字

河鍋暁斎「武四郎涅槃図」(1886年、松浦武四郎記念館蔵)の部分。横たわる武四郎(中央)と嘆き悲しむ愛玩品たち=静嘉堂文庫美術館で2024年4月12日午後1時50分、高橋咲子撮影

 幕末から明治にかけて活躍した画家、河鍋暁斎(1831~89年)と、探検家で北海道の名づけ親でもある松浦武四郎(18~88年)。この2人と聞けば、興味をそそられる。異色作「武四郎涅槃(ねはん)図」(86年、松浦武四郎記念館蔵)が2人をつなぐだけでなく、武四郎は本展「画鬼河鍋暁斎×鬼才松浦武四郎」を開催した静嘉堂文庫美術館(東京・丸の内)とも浅からぬ縁があるという。

 武四郎はかつての伊勢国の生まれ。自ら、そして幕府の命で蝦夷(えぞ)地調査を重ね、アイヌの文化を書き残した人だ。少年のころから古銭収集に熱を傾けるなど、好事家ぶりを発揮していたが、開拓判官の職を辞した後はいっそう拍車がかかる。

 暁斎に5年間かけて描かせたという「武四郎涅槃図」を見ればそれがよく分かる。中央に横たわるのは、入滅した釈迦(しゃか)に見立てた自身。玉でつくった大首飾りを着け、居眠りをしているような普段着姿だ。もっと面白いのは、周囲に描かれる武四郎愛玩の品々。手のひらサイズの小さな像や、掛け軸から飛び出た手長猿や羅漢、かわいがっていた犬猫まで。その様子は現世で見るファンタジーのようで、お気に入りのものに囲まれた自分を見て、このうえない幸せを感じただろう。

 武四郎は何度も描き直しを求め、・・・・・・

6月9日まで。【高橋咲子】

https://mainichi.jp/articles/20240513/dde/012/040/001000c


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化石燃料事業への資金提供、日米銀が主導 23年報告書

2024-05-14 | 先住民族関連

AFPBB News2024/5/13

【AFP=時事】世界の主要銀行は2023年、計7050億ドル(約110兆円)を化石燃料事業に資金提供した。環境保護団体らが13日に公開した報告書によると、その先頭に立っているのは日米の金融機関だ

 今年で15回目の発表となる「化石燃料ファイナンス報告書」は、気候変動対策を求める団体などが共同でまとめている。

 同報告書によると、世界の銀行上位60行は2015年のパリ協定採択以降、計6.9兆ドル(約1075兆円)を化石燃料セクターに資金提供してきた。

 報告書の執筆者の一人、先住民環境ネットワークのトム・BK・ゴールドトゥース事務局長は「化石燃料に資金提供する金融企業や投資家は、気候危機の炎を燃やし続けている」と批判した。

 全体では前年比9.5%減となっているが、個別では増額した銀行もあるという。例えば米金融最大手JPモルガン・チェースは昨年、前年比5.4%増の410億ドル(約6兆4000億円)を化石燃料事業に提供した。

 2位は日本のみずほ銀行の370億ドル(約5兆8000億円)、3位は米バンク・オブ・アメリカの337億ドル(約5兆2500億円)だった。(c)AFP

【翻訳編集】AFPBB News

https://www.msn.com/ja-jp/money/other/化石燃料事業への資金提供-日米銀が主導-23年報告書/ar-BB1mjjSp?ocid=BingNewsSearch


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【知られざる忠犬物語】北の大地で主のために命を懸けた犬たちの悲話

2024-05-14 | アイヌ民族関連

歴史人5/13(月) 16:30

前回はかの有名な忠犬ハチ公と同じ秋田犬で、全国的にはほとんど無名である忠犬シロの物語を紹介した。今回は北海道の忠犬物語を2つ紹介したい。

■主のために雪山を40km以上走った忠犬

 北海道はかつてアイヌの大地だった。何より地名がそれを示している。たとえば登別(のぼりべつ)は、アイヌ語の「ヌプリペツ」に漢字を当てはめたものである。留萌(るもい)のように、元々日本語にはないラ行の入った地名もある。

 アイヌの人々は犬のことを「セタ」あるいは「シタ」と呼んでいた。アイヌ犬というのは、幕末にこの地を訪れたイギリス人、トーマス・ブラキストンがつけた呼称である。このアイヌ犬時代の忠犬として、明治33年(1900年)に起きた、『ジッセン』の物語を紹介したい。

 ジッセンは厚真(あつま)地方の犬で、名猟犬の呼び声が高かった。飼い主の中村イサヌクテはアイヌの若き酋長(しゅうちょう)で、名猟師としても尊敬を集めていた人物だった。それはまだ雪の残る3月のことだった。近くの幾春別(いくしゅんべつ)に巨大な熊が現れ、家畜を襲っているとの連絡が来た。

 そこでイサヌクテは息子と甥、それにジッセンを連れて出猟した。そして山に入ること3日、ジッセンが熊の足跡を発見したのである。その足跡を追っていると突然、熊が現れた。

 意表を突かれた上に、そこは熊猟にとって最悪の場所だった。イサヌクテの力闘、そしてジッセンの猛攻にも関わらず、人間たちは傷つき、イサヌクテは命を落としてしまったのである。

 ジッセンは傷だらけの体で血を流しながら、約40km以上の山越えの道を歩き、家に戻って急を知らせた。そして数日後、主人の後を追うように息絶えたのだった。ジッセンのこの行動に胸を打たれた村人たちは、イサヌクテの墓の横にジッセンをねんごろに葬ったのである。

 アイヌ犬は明治35年(1904年)、青森第五連隊の雪中行軍遭難事件が起きた際、落部(おとしべ)コタンの長、弁開凧次郎(べんかいたこじろう)一行に率いられて捜索に参加。大活躍して名を高めた。

 弁開凧次郎のアイヌ名はイカシバで、「偉大で何でもできる」という意味である。猟の達人であるだけでなく薬草にも詳しく、14歳で日高へ行き馬の勉強をした。地域に戻ってきてからは獣医の役割も果たしていた。

 その2年後、つまりイサヌクテとジッセンが命を落としてから9年後の明治44年(1911年)、皇太子(のちの大正天皇)が室蘭製鋼所を視察した。その時、厚真村の長老がアイヌの酋長、中村コシカリを同伴してアイヌ犬の『ピン子』を紹介。気に入られて、そのまま献上となった。

 このピン子こそ忠犬ジッセンの曾孫で、飼い主のコシカリはイサヌクテの息子だったのである。ピン子は厚真地方に多かった虎毛で、生後6ヶ月の頃、熊祭り(イオマンテ)の視察に訪れた八田三郎博士ら、学術関係者の目に留まった立派な犬だった。

■大正時代の郵便犬『ポチ』

 次に大正時代の忠犬ポチ、またの名を郵便犬ポチの物語である。この話は、日本初の愛犬雑誌『犬の雑誌』の大正7年(1918年)3月号に、中央新聞の記者・金井紫雲が「大正忠犬談」と題して書いている。

 この年は、前年末より北陸から北海道にかけて大雪が降り、家は倒れ鉄道は止まり、家畜たちが凍死するという大変な事態になっていた。ことに北海道では近年稀な大雪で、歩くのもままならない状態だったという。

 こうした中、ニセコに近い北海道西部の真狩(まっかり)郵便局では、集配が全くできない状態になっていた。真狩村は洞爺湖の北にあり、ニセコから車で30分、羊蹄山を臨む自然豊かな地である。

 それだけに冬の寒さは厳しい。加えて例年にない大雪に見舞われていた。そこに12月16日、電報が1通届いた。しかし、大雪で出勤もできないから配達人もいない。そこで局長の村上政太郎がみずから、吹雪の中を愛犬ポチを伴って出発した。

 ポチは子犬の頃、村上が保護して育てた犬で、ふだんから郵便配達に同行していた。その日も村上は、ポチと共に何とか電報を届けた。しかしその帰途、吹雪はいよいよすさまじくなり、ちょうど起きた雪崩のため、ポチともども埋もれてしまったのである。

 ポチは何とか雪の中から這い出した。そして雪をかき分け、村上局長の衣服を口でくわえて引っ張るなどして、助け出そうとした痕跡があった。しかし局長は動かず、ポチは仕方なく体の上に覆いかぶさって、体を温めていたらしい。

 やがて、戻ってこない局長を心配した村人たちが捜索隊を出したところ、彼方から悲しげな犬の声が聞こえてくる。近づいてみると、犬が主人の上に覆いかぶさって守っていたのだ。急いで助けようとしたが、犬が主人を守っていて動かず、なかなか近づけなかったという。

 金井は「此の犬、主人の死体を雪中に埋まること実に2昼夜、見る人感動せぬは無かったと申します」と、見てきたように描写している。「誠に、此の犬の如きは感ずべきものではありませんか。犬は今でも立派に同村内で養われ、夫れから夫れへと忠犬の名を届かせて居るのです」。この悲劇とポチの忠犬ぶりは新聞で伝えられ、蝦夷富士の麓に記念碑が建てられた。

 ポチは17歳で犬生を終えると、剥製となって東京逓信博物館に展示された。その後、地元高校生たちの要望によって里帰りして、真狩村公民館に飾られている。ネットでも見られるが、老いてなおかわいい風貌だ。

 昭和2年(1927年)に篤志家の寄贈で、「忠犬ポチ乃碑」も建てられた。『名犬ポチ物語 吹雪にきえた郵便屋さん』(ハート出版)という、子ども向けの本もある。

 しかし、本州から人がどんどん流入してくるにつれて、アイヌ犬全体がどんどん減っていった。アイヌの人々も猟では食べていけなくなり、犬は必須ではなくなったのである。

 そんなアイヌ犬の危機に、アイヌコタン(部落)の近くで育った犬好きの北海タイムス(現在の)記者、伝法貫一が立ち上がり、アイヌ犬保存会を立ち上げた。そして昭和12年、天然記念物の指定を受ける時に北海道犬という名称に変更して、今日に至っている。

川西玲子

https://news.yahoo.co.jp/articles/768d8ce8057b0a2f418d1f843c259375124ad8b8


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【今日は何の日:5月14日】1971年には大鵬、1991年に千代の富士が引退会見。2人の大横綱に引退を決意させたのは…あの親子だった(一部抜粋)

2024-05-14 | アイヌ民族関連

ニッポン.コム5/14(火) 6:13配信

・・・・・・

アイヌ文化振興法が公布

1997(平成9)年 アイヌ文化振興法公布。少数民族アイヌを固有の民族として初めて法的に位置づけた法律で、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現」を目的に、国と地方自治体の責任としてアイヌ語やアイヌ文化の継承者の育成、調査・研究、国民への啓発などの文化振興策を行うと定めた。明治政府が同化を目的に制定した、「北海道旧土人保護法」は廃止された。アイヌの人々が求めていた先住権などの民族の権利は、2019年のアイヌ新法の成立・施行まで待たねばならなかった。

・・・・・・

https://news.yahoo.co.jp/articles/d1bbbdb6f8c67f0ae09cbd27f0947e3342bb024c?page=2


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