サーチナ2014-02-24 12:38
「台湾と中国は別の国」を主張する政治団体、公投護台湾聯盟のメンバー十数人が22日午後、台南市内の湯徳章紀念公園内に設置された孫文(孫中山)の重さ約600キログラムの銅像を引き倒した。国民党関係者が現場に駆けつけて非難し、双方がにらみ合いとなった。中国新聞社などが報じた。国民党にとって「中華民国の創設者」である孫文は「国父」だが、公投護台湾聯盟などの考えにもとづけば、孫文は「偉大かもしれないが、別の国の指導者」ということになる。
公投護台湾聯盟の関係者は22日に、台北、台中、高雄などの都市からも集まり始めた。22日午後1時半ごろ、自動車に分乗して湯徳章紀念公園内を訪れ、孫文の像の安全強度を確かめるなどと言い、綱をかけて弾いて倒した。
公投護台湾聯盟側は孫文像を引き倒したことについて「台座部分がすでに壊れていた。市政府は撤去しようとしたが、国民党側の抵抗にあい、争いになっていた。わが方は孫文について、とかく言うつもりはない。人々の安全を考えただけだ。実地に測定したところ、ロープ2本をかけただけで、1分も要せずに像は倒れた」と説明した。
市警察の警察官十数人が現場に駆け付けた時に、像はすでに倒されていた。続いて、国民党台南党支部の謝龍介主席委員らの国民党関係者が続々と現場に到着し、公投護台湾聯盟側に抗議を始めた。公投護台湾聯盟側に他の地域から来た者が多かったことから「あんたらは、台南の者じゃないだろう」とも指摘した。
国民党側は警察を「無能」として厳しくなじりはじめた。国民党側と公投護台湾聯盟側はその場で対峙を続けたが、約30分後に警察が公投護台湾聯盟の責任者である蔡丁貴容疑者を公共物毀損の現行犯で逮捕したことで、双方は引き上げた。
なお、現場に駆けつけた国民党員は「古跡を破壊した」と非難したが、台南市文化局長の葉沢山局長は「公園は市の古跡に指定してされているが、孫中山の像は違う。今後の処理については、専門家を招いて議論する」と述べた。像があっけなく倒されたことについて葉局長は「そんなに速く倒せたのか」と驚いたという。
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◆解説◆
台湾では1945年に日本の統治が終了する以前からの住民とその子孫を「本省人」と呼び、戦後に国民党の台湾進出と中国大陸からの撤退にともない台湾に移り住んだ人やその子孫を「外省人」と呼ぶ。台湾人口学会が2004年に開催したシンポジウムでは、「外省人」は全人口の10%程度との見方が示された。
「外省人」は一般に「台湾は本来、中国の一部」とみなす傾向が比較的強いとされる。ただし、中国共産党に対する不信感や体制維持を望むなどで、中国大陸との統一をそのまま支持しているとはかぎらない。
逆に「本省人」は「中国と台湾は別の国」との意識を強く持つ人が多い。「本省人」の祖先の多くは、明代から清代にかけて台湾に移った人。しかし中国では清朝になっても、台湾に対しては「化外(けがい)の地」、つまり皇帝が直接支配している土地ではないとの意識が長く続いた。
「本省人」の多くが台湾に移り住んだ時代、中国で近代国民国家は成立していなかった。つまり、近代的な意味での国民としての中国への帰属意識は固まっていなかったと言ってよい。日本では明治維新にともない近代的な「国民意識」が定着した。
「本省人」(の祖先)にとって、自らが帰属する国としてまず意識したのは、1895年から45年まで台湾を統治した日本だった。その後、敗戦に伴い日本が撤退したことで、「本省人」の多くが「見捨てられた」と喪失感を味わうことになった。「本省人」にはそもそも中国に対する帰属意識がない、あるいは極めて希薄であったために、多くの人は「自分は台湾人であり、中国人ではない」と考えるようになった。
中国への帰属意識がない台湾人にとって1911年に勃発した辛亥革命は、「よその国の革命騒ぎ」となり、中華民国の初代総統に就任した孫文も「よその国の指導者」ということになる。
また、李登輝元総統は在任時、戦いで命を落とした将兵らを称える忠烈祠を定期的に参拝したが、祭られている「英霊」については、「正直に言えば、台湾とは無関係の人ばかり。台湾のために血を流した人ではありません」と指摘した上で、「われわれは人間として、広く人類愛に基づいた考え方で慰霊をするということが大切」と述べた。
同発言は、忠烈祠が大陸部で発生した辛亥革命や国共内戦で犠牲になった将兵を祭っていることにもとづく。
なお、台湾には「本省人」が移り住むよりはるかに古い時代からの住民である「原住民」が存在する。上記シンポジウムでは、「原住民」の人口比率は6%程度との見方が示された。
台湾原住民の文化はポリネシアやインドネシア、フィリピンの古い文化に近く、中華文明とは系統が異なる。「原住民」の言葉は日本でいう「先住民」と同義だが、「先住民」と表記すると「もとは住んでいたが、今はいない」とのニュアンスが出てしまうため、「原住民」が正式用語とされた。(編集担当:如月隼人)
http://news.searchina.net/id/1524954
「台湾と中国は別の国」を主張する政治団体、公投護台湾聯盟のメンバー十数人が22日午後、台南市内の湯徳章紀念公園内に設置された孫文(孫中山)の重さ約600キログラムの銅像を引き倒した。国民党関係者が現場に駆けつけて非難し、双方がにらみ合いとなった。中国新聞社などが報じた。国民党にとって「中華民国の創設者」である孫文は「国父」だが、公投護台湾聯盟などの考えにもとづけば、孫文は「偉大かもしれないが、別の国の指導者」ということになる。
公投護台湾聯盟の関係者は22日に、台北、台中、高雄などの都市からも集まり始めた。22日午後1時半ごろ、自動車に分乗して湯徳章紀念公園内を訪れ、孫文の像の安全強度を確かめるなどと言い、綱をかけて弾いて倒した。
公投護台湾聯盟側は孫文像を引き倒したことについて「台座部分がすでに壊れていた。市政府は撤去しようとしたが、国民党側の抵抗にあい、争いになっていた。わが方は孫文について、とかく言うつもりはない。人々の安全を考えただけだ。実地に測定したところ、ロープ2本をかけただけで、1分も要せずに像は倒れた」と説明した。
市警察の警察官十数人が現場に駆け付けた時に、像はすでに倒されていた。続いて、国民党台南党支部の謝龍介主席委員らの国民党関係者が続々と現場に到着し、公投護台湾聯盟側に抗議を始めた。公投護台湾聯盟側に他の地域から来た者が多かったことから「あんたらは、台南の者じゃないだろう」とも指摘した。
国民党側は警察を「無能」として厳しくなじりはじめた。国民党側と公投護台湾聯盟側はその場で対峙を続けたが、約30分後に警察が公投護台湾聯盟の責任者である蔡丁貴容疑者を公共物毀損の現行犯で逮捕したことで、双方は引き上げた。
なお、現場に駆けつけた国民党員は「古跡を破壊した」と非難したが、台南市文化局長の葉沢山局長は「公園は市の古跡に指定してされているが、孫中山の像は違う。今後の処理については、専門家を招いて議論する」と述べた。像があっけなく倒されたことについて葉局長は「そんなに速く倒せたのか」と驚いたという。
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◆解説◆
台湾では1945年に日本の統治が終了する以前からの住民とその子孫を「本省人」と呼び、戦後に国民党の台湾進出と中国大陸からの撤退にともない台湾に移り住んだ人やその子孫を「外省人」と呼ぶ。台湾人口学会が2004年に開催したシンポジウムでは、「外省人」は全人口の10%程度との見方が示された。
「外省人」は一般に「台湾は本来、中国の一部」とみなす傾向が比較的強いとされる。ただし、中国共産党に対する不信感や体制維持を望むなどで、中国大陸との統一をそのまま支持しているとはかぎらない。
逆に「本省人」は「中国と台湾は別の国」との意識を強く持つ人が多い。「本省人」の祖先の多くは、明代から清代にかけて台湾に移った人。しかし中国では清朝になっても、台湾に対しては「化外(けがい)の地」、つまり皇帝が直接支配している土地ではないとの意識が長く続いた。
「本省人」の多くが台湾に移り住んだ時代、中国で近代国民国家は成立していなかった。つまり、近代的な意味での国民としての中国への帰属意識は固まっていなかったと言ってよい。日本では明治維新にともない近代的な「国民意識」が定着した。
「本省人」(の祖先)にとって、自らが帰属する国としてまず意識したのは、1895年から45年まで台湾を統治した日本だった。その後、敗戦に伴い日本が撤退したことで、「本省人」の多くが「見捨てられた」と喪失感を味わうことになった。「本省人」にはそもそも中国に対する帰属意識がない、あるいは極めて希薄であったために、多くの人は「自分は台湾人であり、中国人ではない」と考えるようになった。
中国への帰属意識がない台湾人にとって1911年に勃発した辛亥革命は、「よその国の革命騒ぎ」となり、中華民国の初代総統に就任した孫文も「よその国の指導者」ということになる。
また、李登輝元総統は在任時、戦いで命を落とした将兵らを称える忠烈祠を定期的に参拝したが、祭られている「英霊」については、「正直に言えば、台湾とは無関係の人ばかり。台湾のために血を流した人ではありません」と指摘した上で、「われわれは人間として、広く人類愛に基づいた考え方で慰霊をするということが大切」と述べた。
同発言は、忠烈祠が大陸部で発生した辛亥革命や国共内戦で犠牲になった将兵を祭っていることにもとづく。
なお、台湾には「本省人」が移り住むよりはるかに古い時代からの住民である「原住民」が存在する。上記シンポジウムでは、「原住民」の人口比率は6%程度との見方が示された。
台湾原住民の文化はポリネシアやインドネシア、フィリピンの古い文化に近く、中華文明とは系統が異なる。「原住民」の言葉は日本でいう「先住民」と同義だが、「先住民」と表記すると「もとは住んでいたが、今はいない」とのニュアンスが出てしまうため、「原住民」が正式用語とされた。(編集担当:如月隼人)
http://news.searchina.net/id/1524954