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【自宅で挑戦ふるさとの味】北海道「オハウ」 アイヌの具だくさん汁物

2020-04-29 | アイヌ民族関連
産経新聞 2020.4.29 11:00

 北海道の郷土料理といえば「ジンギスカン」や「石狩鍋」だが、最近注目を集めているのは狩猟・漁労民族アイヌの主食ともいえる伝統料理「オハウ」。エゾシカ、ヒグマといった獣肉や魚と行者ニンニクなどの野草を煮込み、塩と獣脂や魚油で味を調える。具だくさんの汁物だ。
 日露戦争後の北海道を舞台にした人気漫画「ゴールデンカムイ」で、ヒロインのアイヌの少女が料理をする場面が描かれ、ファンの間で知名度がアップした。漫画では、具に獲物のリスやウサギ、カワウソなど多様な獣肉が用いられる。
 ただ、獣肉や獣脂、野草は入手困難。そこで、北海道味の素(札幌市)が自社製品「ほんだし」を使って現代風にアレンジしたレシピ「かんたんオハウ」を開発した。家庭で手軽に楽しんでもらうことで、近く予定されている国立アイヌ文化施設「ウポポイ」(北海道白老(しらおい)町)の開業を盛り上げる狙いがある。
 開発されたオハウのレシピはサケ、ホッケ、シシャモ、クジラ、牛、豚、鹿、鶏の8種。うち6種が同社のホームページで公開されている。中でもサケはアイヌの人々が神の魚と呼んだ特別な食材。同社のレシピでは、保存がきき年間を通して入手しやすい塩ザケを使う。
 開発には、ウポポイを運営するアイヌ民族文化財団の協力を得た。同財団の野本正博・文化振興部長は「オハウは基本的に塩のスープで、油で調整する。その土地ごとに使う素材が違うのでバリエーション豊か」と解説する。
 白老町は漁業が盛んで、冬はタラ、春はマス-と旬の魚が使われたという。野本さんは「生活に取り入れてもらうことでアイヌ文化が普及する。それには簡単に作れることが大事だ。世界に通じる食文化を広めたい」と話している。(寺田理恵)
 家にいざるを得ない毎日が続く中、せめて観光気分が味わえるよう、各地のグルメをレシピつきで4月29日から5月10日まで毎日1品ずつ紹介します。ぜひ挑戦してみてください。
材料(4人分)
塩ザケ2切れ
ジャガイモ2個
ダイコン8センチ
ニンジン1/2本
長ネギ1/3本
A水3カップ
A顆(か)粒(りゅう)だし小さじ2
サラダ油小さじ2
切り昆布(お好みで)少々
サラダ油(お好みで)少々
作り方
〔1〕サケ、ジャガイモはひと口大に切る。ダイコンとニンジンは乱切り、長ネギは斜め薄切りにする。
〔2〕鍋に油を熱し、〔1〕のサケを焼き、サケの色が変わったら〔1〕のジャガイモ、ダイコン、ニンジン、Aを加え、野菜がやわらかくなるまで煮る。
〔3〕器に盛り、〔1〕のネギをのせ、好みで切り昆布を散らし、サラダ油を回しかける。
※サケの塩分が強い場合は、水につけて塩抜きをして加減する。
https://www.sankei.com/premium/news/200429/prm2004290005-n1.html

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アイヌの若者はハンターになった  現代に染まった伝統と文化、民族の魂ここに

2020-04-29 | アイヌ民族関連
47NEWS 4/28(火) 7:02配信
アイヌの手甲「テクンペ」を身につけ、伝統的な弓を手にする門別徳司さん
 アイヌ民族は食糧や毛皮を得るため、男性は季節を通じて弓矢やわなを使って動物を狩った。獲物はエゾシカやヒグマ、キタキツネ、エゾリス、鳥類など。特にエゾシカはサケと並ぶ代表的な食糧で、積雪期には追い込み猟も行われた。アイヌにとって狩猟で得る獲物は重要な収入源だった。が、明治時代、北海道旧土人保護法などを背景に漁や習慣、風習とともに狩猟は禁止された。
 その風習を取り戻そうとする人がいる。「狩猟民族アイヌに生まれついたからには、自分も狩りで身を立てたい」。北海道平取町の門別徳司さん(37)は、シカを狩るハンターになる道を選んだ。(共同通信=團奏帆)
 その狩猟は、民族の伝統と現代を掛け合わせた独自のスタイル。山に入る時には、今は亡きエカシ(古老)から教わったアイヌ語の祈りを山の神にささげる。静かな小川のほとりでシラカバの樹皮を燃やして行う儀式は、古くは伝統家屋「チセ」のいろりの火を前に祈っていたという。猟銃は、はき古したジーンズ生地にハンターカラーのオレンジ色の糸でアイヌ刺しゅうを施して作った袋に入れて担ぐ。
 草木が生い茂る季節、身を守るため着けるのはアイヌの手甲「テクンペ」。やはりジーンズを再利用し刺しゅうを入れた手製で、手の甲から肘近くまでを覆う。
 「伝統的な方法や道具とは少し違うかもしれない。でも道具や手法は使い手が便利なように進化する。それが生きている文化ってことじゃないかな」
 幼いころから山は遊び場で、猟師も身近だった。「いつか狩りをしてみたい」と思っていた。10歳を過ぎた頃、自分がアイヌと知り、アイヌについて知りたくて舞踊を継承する保存会に入った。
 狩猟と採取で生きてきたアイヌ。明治時代に狩猟を禁止され、今やその手法は資料とエカシの話の中にしか残されていない。「外国では先住民族の狩猟が権利として認められている国もある。環境が違えば、自分もアイヌとしてごく自然に狩りをしていたかも」
 胸の中にくすぶり続けていた狩りへの思いは消えず、30歳を機に狩猟免許を取得。数年後に勤め先を辞めハンターになった。車で山に入りシカを仕留めることが生活の一部になった。
 新しい目標もできた。失われた先祖の技術をよみがえらせること。イチイの木に桜の樹皮を巻いてしならせ、シカの背中の腱をよって張った弓。チシマザサやシカの骨を使った矢。資料をもとに作ってみた伝統的な弓矢を使うには、まだまだ改良や練習が必要だが「いつかこれで狩りをしてみたい」。自分はアイヌ。自覚は揺るぎないものになっていた。
 「アイヌってまだいるの?」と聞かれることがある。チセに住み、電気や便利な道具のない暮らしをしているのがアイヌなのか。でも、自分は生きている。形は変わっても魂はアイヌだ。「今を生きているアイヌがここにいる。民族も文化もここにある」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200428-00000001-yonnana-soci

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樺太アイヌ、知られざる強制移住の歴史 貧困と差別の中を生きた母娘の記録をたどる

2020-04-29 | アイヌ民族関連
共同通信 2020/4/29 07:00 (JST)
樺太アイヌの母を持つ楢木貴美子さん=札幌市
 2011年8月、樺太(現・サハリン)の空は晴れていた。大地を駆け抜ける列車。楢木貴美子さん(72)は仲間から誘われて、樺太アイヌの母が生まれ育った地を目指していた。車窓の外には、フキやワラビが緑色のじゅうたんのように広がる。過ぎていった人影は、腰を曲げてツルコケモモ(フレップ)の実を採っていた。
 「日本人になっていなかったらここに残っていたのかな。ここにいれば幸せだったのかな」。重なったのは故郷を追われた樺太アイヌの母が山菜を採っていた姿だった。傍らに携えた母の写真を窓に向け、そっと語りかけた。「ほら、見てごらん」(共同通信=石嶋大裕)
 太平洋戦争末期、旧ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して樺太に侵攻した。樺太アイヌは多くが移住を強いられ、楢木さんの両親や8人のきょうだいも父のふるさとである青森県弘前市に逃れる。楢木さんは、1948(昭和23)年、そこで末っ子として生まれた。父は直後に他界し、一家は母の親戚や知人を頼り、樺太からの引き揚げ者やアイヌの開拓集落だった北海道豊富町稚咲内に移住した。3歳ごろのことだ。
 住まいはニシン漁の番屋。浜辺に建てられた掘っ立て小屋だった。海風にあおられた砂が壁の隙間から吹き込み、冬になると寒さで布団の襟元が霜が降りたように白くなった。
 ニシンが大量に捕れると、学校には大漁旗が掲げられ、休校になった。「でもうれしくなかった」と楢木さん。子どもも大人たちの作業を手伝わなければいけなかったからだ。浜に戻ってきた漁船の網から掛かった魚を外し、木製のリュックサックの形をした「もっこ」に入れて背負い、番屋まで運んだ。身欠きにしんや数の子に加工した後のかすは大釜で煮て、むしろに敷き、天日干しに。それをむしろで作った袋に入れて出荷すると、貨車で岡山県倉敷市まで運ばれ、綿花の肥料になった。
 生活は厳しかった。水はけが悪く、作物を作ることもままならない土地。米がとれず、わずかにご飯があるときは、大根やジャガイモを混ぜてかさましした。「白いご飯をいっぱい食べることが夢だった」
 あるときニシンがとれなくなった。原因不明の不漁は続き、さらに困窮した。姉がでんぷん工場で拾ってきたジャガイモの粉を、母がこねてかためたものを弁当箱に入れて学校に行った。見られるのが恥ずかしくて、ふたを半分だけ開けて隠れるように食べた。おなかがすいて、グラウンドのそばの木に寄りかかっているうちに、気が遠くなったこともある。
 同級生からはいじめも受けた。帰り道に石をぶつけられたり、雪に頭を押しつけられたり…。なぜそんなことをされるのか分からなかった。後に、自身がアイヌであることが理由だったと知る。
 母や知人たちは自分たち樺太アイヌを「エンチゥ」と呼び、酒を飲むと樺太アイヌ語やロシア語を話したが、当時は誰も自分がアイヌだとは教えてくれなかったからだ。ただ「周りとは違う」と思っていただけだった。
 ただ一つ、美しい思い出がある。ニシンを煮ていた大釜は、不漁で使わなくなり、五右衛門風呂に早変わり。シラカバの薪を燃やして沸かした湯につかり、夜空を見上げると満点の星が輝いていた。「あのときだけが至福の時間だったんだなと今は思う」
 10歳を過ぎたころ、生活がいよいよ立ちゆかなくなり、釜を売って汽車賃にし、小樽市に移り住んだ。母は毎日、山に行き、採った山菜を小樽駅前の「三角市場」の片隅で売った。きょうだいの養育費に充て、大人になるまで育て上げた。
 その母も1992年に86歳で逝く。遺品の中に手記が残されていた。「なんで稚咲内に来たんだろう。砂浜で泣き崩れてしまった」。ふるさとを遠く離れたつらさが赤裸々につづられていた。「どうせ読まれない」とも。楢木さんは「ちゃんと読んでいるよ」と涙が止まらなかった。
 2011年、初めて母が生まれ育った樺太へ。鉄道で北上して7時間に渡る旅路。たどり着いた湖畔の集落は荒れ果て、朽ちた住居や井戸の跡ばかりだった。母はここで、山で木を切る男たちの食事を作り、過労から血を吐いたと言っていた。「大変な思いをしたんだ…」。言葉に詰まった。
 悲しいことがあると、今でも母を思い出す。樺太アイヌ民族のリーダーを主人公とした小説「熱源」が今年1月に直木賞を受賞した。脚光を浴びはしたが、日ロ関係に翻弄され、強制移住させられた樺太アイヌの存在はまだまだ知られていないと思う。その歴史はなおさらだ。「もっと知ってほしい」。母の苦労をなかったことにはしたくないから。
 ▽一口メモ「アイヌ民族の居住地」
 19世紀以前のアイヌ民族は北海道各地のほか、樺太、千島列島などに広く住んでいた。居住地域では今もアイヌ語由来の地名が多く残る。現在では北海道など全国各地に住んでいる。
 樺太アイヌは北海道のアイヌとは異なる言葉や文化を持っていた。1875年に日本とロシアが樺太千島交換条約を締結し、日本は樺太をロシアに譲渡。住んでいたアイヌの一部は北海道江別市対雁(ついしかり)に強制移住させられ、その後、疫病で約半数が死亡したとされる。日露戦争(1904―05)では、日本が南樺太を領土にし、樺太アイヌの一部が故郷に戻ったが、太平洋戦争末期の旧ソ連の侵攻により、多くが再び移住を余儀なくされた。
https://www.47news.jp/47reporters/4765247.html

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神々の話から学べるさまざまな文化と習俗

2020-04-29 | アイヌ民族関連
ブックバン 4/28(火) 7:00配信
 直木賞を受賞した川越宗一の小説『熱源』(文藝春秋)や野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』(集英社)など、アイヌを題材にした作品が話題の昨今。萱野茂『アイヌと神々の物語 炉端で聞いたウウェペケレ』は、その文化を知る一助ともなる一冊だ。ウウェペケレとは「昔話」といった意味合いで、アイヌ語研究者である著者が自身の故郷の北海道沙流地方で録音・採集したウウェペケレが収録されている。
 神話や民話はさまざまな文化に影響を与えてきた。その筆頭はギリシア・ローマ神話だろうが、北欧神話もそのひとつ。巨人やいたずら好きの神、ロキなどは有名だが、もっと知りたいという人にはV・グレンベックの『北欧神話と伝説』(山室静訳、講談社学術文庫)を。太古の時、ギンヌンガガップと呼ばれる空隙の北には寒気きびしいニフルハイムが、南には炎燃えさかるスペルハイムがあり、氷塊が融けた雫から巨人ユミールが生まれ……という世界の成り立ちから始まり、さまざまな神話が紹介されていく。物語は多岐にわたり主要人物も多く、こちらもかなりの充実度で、初心者なら一気読みするというよりはじっくり読みたい。
 架空の設定なのに絶大な人気を誇るのはクトゥルー神話だ。生みの親は1890年にアメリカ、ロードアイランド州に生まれた作家、ラヴクラフト。彼が執筆した怪奇小説に登場する土地や神々を、彼の友人の作家や詩人たちも借用して作品世界を広げ、昨今では文学だけでなくゲームやアニメでも題材とされている。H・P・ラヴクラフト『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選』(南條竹則編訳、新潮文庫)はタイトル通りの傑作ぞろい。クトゥルーとは支配者的な邪神の名前であり、神話といっても暗黒神話。どの話もひたひたと恐怖がしのびよる展開で、震え上がるほど怖く、とてつもなく面白い。
[レビュアー]瀧井朝世(ライター)
1970年生まれ、東京都出身、慶應義塾大学文学部卒業。出版社勤務を経てライターに。WEB本の雑誌「作家の読書道」、文春オンライン「作家と90分」、『きらら』『週刊新潮』『anan』『CREA』などで作家インタビュー、書評、対談企画などを担当。2009年~2013年にTBS系「王様のブランチ」ブックコーナーに出演。2017年10月現在は同コーナーのブレーンを務める。
新潮社 週刊新潮 2020年4月23日号 掲載
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200428-00620691-bookbang-life

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「サガレン」が賢治にもたらした新たな世界

2020-04-29 | アイヌ民族関連
JBプレス 4/28(火) 12:00配信
 『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』など数々の名作を遺した宮沢賢治は、妹トシの死後、汽車でサガレンへ向かった。日本最北端のサハリン(樺太)、旧名サガレン。1923(大正12)年の夏、妹の死に打ちのめされた賢治はサガレンで何を見て、何を思ったのか。『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』、『原民喜 死と愛と孤独の肖像』、『廃線紀行』、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』など、常に話題作を送り出し続けてきたノンフィクション作家・梯久美子氏がサハリン/樺太で賢治の行程をたどる。第1回/全2回。(JBpress)
 (※)本稿は『サガレン 境界を旅する』(梯久美子著、KADOKAWA)より一部抜粋・再編集したものです。
・■ 妹トシを求めて
 宮沢賢治が樺太を旅したのは、1923(大正12)年の夏である。27歳になる直前だったこのとき、大泊(現在のコルサコフ)から豊原(同ユジノサハリンスク)を経て栄浜(同スタロドゥプスコエ)まで乗った鉄道が、『銀河鉄道の夜』のモチーフになっているのではないかと言われている。
 当時、栄浜は樺太でもっとも北にある駅で、それはすなわち日本最北端の駅であることを意味した。
 そのころ賢治は、岩手県立花巻農学校で教師をしていた。樺太行きの直接の目的は、大泊の王子製紙に勤めていた旧友を訪ねて、教え子の就職を頼むことだった。実際に2人の教え子が、のちに王子製紙に勤めている。
 だが本当は前年の1月に亡くなった妹トシの魂の行方を追い求める旅だった、というのが定説のようになっていて、樺太行きについて触れている本のほとんどに“魂”という言葉が出てくる(『地球の歩き方』にまで! )。
 死者の魂を追いかけて北へ向かう汽車に乗る、というのは、正直言って、私にはいまひとつピンとこなかった。妹が亡くなったのは生まれ育った花巻で、墓もそこにある。樺太には縁もゆかりもないし、死んだ人の魂が北方へ行くという考え方も、一般的なものではないように思う。
 私にわかるのは、鉄道好きだった賢治が、日本最北端の駅だった栄浜駅まで、汽車に乗って行ってみたいと思ったであろうことである。同じ鉄道ファンとして、そこのところはわかりすぎるほどよくわかる。
 賢治が樺太に向けて花巻駅を出発したのは1923年7月31日。注目すべきは、そのおよそ3カ月前の5月1日、北海道の稚内と樺太の大泊の間に、鉄道省による連絡船(稚泊航路)が開通していることだ。
 それまで樺太に渡るには、小樽から民間の航路を利用するしかなく、長時間の船旅を余儀なくされた。それに比べて稚内―大泊は、もっとも狭いところは42キロしかない宗谷(そうや)海峡を渡る最短の航路で、しかも運行は鉄道省である。
 これによって、内地と樺太が鉄道で一本につながり、切符一枚で樺太まで行くことができるようになった。運賃もぐんと安くなったのである。
■ 日本最北端の地
 当時はサハリンのことをサガレンと呼んでおり、北サハリンに派遣された軍をサガレン州派遣軍といった。賢治が樺太を旅した1923年は、サガレン州派遣軍が駐留していた時期である。
 しかも、この年の4月から、それまでの第二師団に代わって、第七師団と第八師団に属する部隊が派遣されている。八甲田山における雪中行軍遭難事件で知られる第八師団は、弘前に司令部を置き、おもに東北出身の兵で構成されていた。
 盛岡の部隊も北サハリンに派遣されることになり、『岩手日報』にはひんぱんに北サハリンや樺太に関する記事が掲載された。こうしたことも賢治の、日本最北端の地への関心を高めたことだろう。
 妹トシの魂の行方を追うとはどういうことなのか、また『銀河鉄道の夜』は本当に樺太での鉄道旅の経験が反映されているのかについては、旅をしながら考えるとして、まずは賢治がたどったルートを私もたどり、賢治が見た景色を見てみたいと思った。
■ ロシア最大の流刑地
 サハリンの南部は、もともとアイヌの土地だった。時代は17世紀にさかのぼる。1679(延宝7)年、アイヌの人々がクシュンコタンと呼んで生活していた現在のコルサコフに、松前藩の重臣・厚谷四郎重政が藩の出先機関に当たる拠点を設け、部下たちとともに越冬した。
 何をするための拠点だったかというと、アイヌや清国との交易である。コルサコフは、日本人がサハリンに足場を築いた最初の土地だったのだ。
 時は流れて1752(宝暦2)年、松前藩主の命を受けた加藤嘉兵衛が、クシュンコタンほか2カ所に漁場を開いた。当初、漁はほとんどアイヌが請け負っていたが、1795(寛政7)年からは日本人の出稼ぎ漁民を雇って行われるようになり、以後、サハリンでの漁場の開拓が進められていく。
 サハリンにはすでにロシアも進出していて、次第に南下してクシュンコタンの近くまでやって来るようになった。1806(文化3)年には兵を率いたロシア人がクシュンコタンに入り、家屋や倉庫を焼き払う事件が起きている。
 1855(安政元)年の日露和親条約にサハリンの帰属は記されなかった。その後、1867(慶応3)年に日本とロシアは「樺太島仮規則」に調印したが、これは共同領有の原則を再確認するもので、領土問題を先送りしただけだった。
 1875(明治8)年の「樺太千島交換条約」によってサハリン全島がロシアの領有となった。コルサコフという地名は1871年まで東シベリア総督だったコルサコフにちなんで命名されたものだ。
 これで日本人がサハリンに出入り禁止になったわけではなく、コルサコフには日本領事館が置かれた。日本人居留民とロシア人の関係は良好だったという。
 樺太千島交換条約によって正式に自分たちの領土になる前から、ロシアはこの島に囚人を送り込んでいた。
 帰属が不安定な土地については、しばしば自国民を大量に移住させて既成事実を作る政策がとられる。だが気候が厳しく、インフラといえるものはほぼないサハリンに、普通の人はまずやって来ない。
 それなら流刑地にして囚人たちの労働力で開拓させるのが合理的というわけだ。この島はロシア最大の流刑地となり、3万人にのぼる囚人が送られた。
 流刑囚たちの実態を取材するためにサハリンにやって来たのがチェーホフである。1890(明治23)年、モスクワから大陸を横断する長い旅の末にサハリンにたどり着いた。サハリン全島がロシアのものになってから15年後のことで、チェーホフは30歳。3カ月にわたって島内各地で調査を重ね、『サハリン島』と題する本にまとめた。小説ではなくルポルタージュである。
 日露戦争が始まったのは、チェーホフが没した1904(明治37)年。おもに遼東(りょうとう)半島と満洲南部、日本近海で戦闘が行われ、当初はサハリンが戦場となることはなかった。
 だが、1905(明治38)年5月の日本海海戦に勝利をおさめた日本軍は、7月にサハリンに侵攻した。講和を有利な条件で進めるためである。
 このとき上陸したのが、コルサコフの東にあるメレイ(女麗)で、翌日にはコルサコフを占領した。サハリンは、日本が初めて占領したロシアの土地なのだ。
 その後、ウラジミロフカ(樺太時代の豊原、現在のユジノサハリンスク郊外)にも侵攻して占領、別の部隊が北サハリンのアレクサンドロフスク・サハリンスキーに上陸してここも占領し、ロシア軍は降伏した。
 そして、講和会議で締結されたポーツマス条約で、日本はサハリン島の北緯50度以南を手に入れる。地名はすべて日本風に改められ、コルサコフは大泊になった。以後、第二次大戦末期にソ連軍が侵攻してくるまで、この島の南半分は、日本人の生活の場となったのである。
■ 賢治の感じたオホーツク
 95年前の夏の朝、宮沢賢治は樺太の栄浜(現在のスタロドゥプスコエ)の海岸を歩き、「オホーツク挽歌」を書いた。119行にわたる長い詩である。末尾に(1923、8、4)と日付があり、樺太に着いた翌日に書かれたことがわかる。
 海面は朝の炭酸のためにすっかり錆びた
緑青のとこもあれば藍銅鉱(アズライト)のとこもある
むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液だ
チモシイの穂がこんなにみじかくなって
かはるがはるかぜにふかれてゐる
(それは青いいろのピアノの鍵で
かはるがはる風に押されてゐる)
あるいはみじかい変種だらう
しづくのなかに朝顔が咲いてゐる
モーニンググローリのそのグローリ
(「オホーツク挽歌」より)
 北の海は、晴れた日でも微妙にくすみを帯びて見える。青一色ではない複雑なその色を賢治は、緑青、藍銅鉱、瑠璃液と、鉱物に由来する語を使って表現している。緑青は銅の緑色の錆(さび)、藍銅鉱は藍色の炭酸塩鉱物、瑠璃は紫がかった深い青色の石、ラピスラズリの和名である。
 私たちが栄浜に行ったのは9月上旬で、夏はもう終わりかけていたが、強い陽射しのふりそそぐ日だった。だが海面は鈍(にび)色がかっていて、この詩のように、藍、青、緑のグラデーションになっていた。
 そのとき撮った写真を見ると、この詩の冒頭3行の詩句が、巧みにオホーツクの海を描写していることに改めて気づく。光を透過させる南の海は軽やかに見えるが、オホーツクの海は重量を感じさせる。賢治の比喩の通り、まさに鉱物質といった感じの海なのである。
 海の描写のあと、賢治の目線は岸へと移る。「チモシイ」とはイネ科の多年草で、和名はオオアワガエリ。細長い円筒形の穂をつける牧草で、日本には明治時代に輸入され、北海道や東北に多い。
 まるでピアノの鍵盤が押されるように、どの穂がかわるがわる風に揺れていたという。おそらく賢治もよく知っている草だったのだろう。見慣れたものよりも短いので、変種ではないかと考えているのだ。
■ サガレンの妖精
 「オホーツク挽歌」は、樺太に足を踏み入れてから賢治が書いた最初の詩である。樺太への旅で書かれた詩のうち、「挽歌」とつくのは「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」の三篇だが、前の二篇の暗さに対して、「オホーツク挽歌」は、寂寥(せきりょう)の中にもある種のさわやかさがある。
 それは、ここに描かれている樺太の花たちによるところも大きいように思う。詩全体を一枚のタペストリーとするなら、そのあちこち、可憐な花たちが織り込まれているのだ。
 ここにたどり着くまでずっと、トシの死にとらわれ、自分の内面ばかりを見つめていた賢治。詩にも、読む者の理解を拒むような心象風景が延々と綴られていたが、この詩では自分の外側の世界に目を向けている。
 波の来たあとの白い細い線に
小さな蚊が三足さまよひ
またほのぼのと吹きとばされ
貝殻のいぢらしくも白いかけら
萱草の青い花軸が半分砂に埋もれ
波はよせるし砂を巻くし
 白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさっきあの熟した黒い実のついた
 まっ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
 サガレンの朝の妖精にやった
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤(なみ)のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復(かいふく)しなければならないから
(同前)
 ここに出てくる花たちはどことなく外国風である。実際には内地でも見られる植物なのだが、初めて見るような新鮮さをもって描写されている。それはおそらく樺太という土地ゆえなのだろう。乾いた冷涼な空気、まぶしい陽射しとくっきりした影、光る雲―――。
 それらに加えて、「サガレンの朝の妖精」という語に象徴される、この土地のもつ不思議な力が、自分を取り巻く世界を見る新たな眼を賢治にもたらしたのだ。
 わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
 強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡ったりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
(同前)
 死んだ妹はいったいどこにいるのかという問いをずっと抱き続けてきた賢治は、オホーツクの海で、ようやくトシの存在を直観する。
 水平線まで延びる緑青。層をなして重なりあう雲の継ぎ目からのぞく天の青。樺太の海岸で出会った、海と空のふたつの青に、賢治は「トシの特性」を見る。そして、その「青いところのはて」にトシがいると感じるのだ。(後編https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60256へつづく)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200428-00060255-jbpressz-life&p=1

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作家の宮本輝さんら春の叙勲受章 旭日大綬章に榊原定征氏ら6人

2020-04-29 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/29 05:07 更新
 政府は29日付で2020年春の叙勲受章者を発表した。今回最高位の旭日大綬章には榊原定征前経団連会長(77)ら6人を選んだ。作家の宮本輝(本名・宮本正仁)さん(73)、北海道アイヌ協会理事長の加藤忠さん(81)らに旭日小綬章を贈る。受章者は旭日章1012人、瑞宝章3169人で計4181人。このうち女性は03年の制度改正以降最多となる412人で、全体の9・9%を占めた。民間人は1944人で46・5%だった。
 旭日大綬章はほかに、岡部喜代子元最高裁判事(71)、荻田伍元アサヒビール会長兼CEO(78)、鬼丸かおる元最高裁判事(71)、竹歳誠元官房副長官(70)、常盤百樹元四国電力社長(78)。瑞宝大綬章は折木良一元統合幕僚長(70)が受章した。
 分野別では、産業振興から東哲郎元東京エレクトロン社長兼CEO(70)が旭日重光章に、大嶋光昭パナソニック名誉技監(70)が旭日小綬章に選ばれた。各種団体では萬歳章元全国農業協同組合中央会(JA全中)会長(74)が旭日重光章に決まった。学術研究では、代数解析学で重要な役割を果たす「D加群」と呼ばれる理論を基礎から築き上げた柏原正樹京都大名誉教授(73)らに瑞宝重光章が贈られる。
 芸術文化で洋画家の寺坂公雄さん(86)が旭日中綬章を受ける。医療・福祉では斉藤勝青森県医師会長(82)らが旭日小綬章を受章。「人目につきにくい分野」で、約30年にわたり保護司として更生保護活動を推進した甲府市の高野美智子さん(76)、歯科医師としてへき地の業務に従事した長崎県新上五島町の山村雄治さん(66)らが瑞宝双光章に決まった。
 別枠の外国人叙勲は57カ国・地域の117人(うち女性23人)。米マイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツさん(64)らに旭日大綬章を贈る。
 今年は新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言の発令を踏まえ、5月に皇居で予定した大綬章親授式と重光章伝達式が延期となった。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/416783

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春の叙勲、4181人 道内253人

2020-04-29 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/29 05:00
 政府は29日付で2020年春の叙勲受章者を発表した。今回最高位の旭日大綬章に前経団連会長の榊原定征さん(77)ら6人を、瑞宝大綬章には元統合幕僚長の折木良一さん(70)を選んだ。作家の宮本輝(本名・宮本正仁)さん(73)、北海道アイヌ協会理事長の加藤忠さん(81)=胆振管内白老町=らに旭日小綬章を贈る。受章者は旭日章1012人、瑞宝章3169人の計4181人。道内在住者は旭日章58人、瑞宝章195人の計253人で、都道府県別では東京都に次いで2番目に多い。
 全国の受章者のうち、女性は03年の制度改正後で最多となる412人で、全体の9・9%を占めた。民間人は1944人で全体の46・5%だった。
 旭日大綬章はほかに、元最高裁判事の岡部喜代子さん(71)、元アサヒビール会長兼最高経営責任者(CEO)の荻田伍(ひとし)さん(78)、元最高裁判事の鬼丸かおるさん(71)、元内閣官房副長官の竹歳誠さん(70)、元四国電力社長の常磐百樹さん(78)が受章した。
 分野別では、産業振興から元東京エレクトロン社長兼CEOの東哲郎さん(70)が旭日重光章に、パナソニック名誉技監の大嶋光昭さん(70)が旭日小綬章に選ばれた。
 各種団体では、元全国農業協同組合中央会(JA全中)会長の万歳章さん(74)が旭日重光章を受章。学術研究では、抗インフルエンザ薬タミフルの有効成分を石油から合成する方法を開発した北大名誉教授の柴崎正勝さん(73)が瑞宝中綬章に決まった。
 道内在住者では、元道議で前日高管内新ひだか町長の酒井芳秀さん(75)=同町静内=と、元札幌市議の湊谷隆さん(82)=札幌市=が旭日中綬章を受章。小樽商大名誉教授の倉田稔さん(78)=小樽市=や旭医大名誉教授の塩野寛さん(77)=札幌市=ら14人が瑞宝中綬章に選ばれた。
 別枠の外国人叙勲は57カ国・地域の117人(うち女性23人)。米マイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツさん(64)らに旭日大綬章を贈る。
 今年は新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が発令されたことを踏まえ、5月に皇居で予定した大綬章親授式と重光章伝達式が延期となった。(野口洸)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/416777

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<体感 ウポポイ>2 学ぶ 国立アイヌ民族博物館 展示企画室長・田村将人(たむら・まさと)さん(44) 歴史をリアルに感じて

2020-04-29 | アイヌ民族関連

北海道新聞 04/29 05:00
 アイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」には、先住民族であるアイヌ民族の歴史と文化を主題にした道内初の国立博物館が開設されます。
 メインはアイヌ民族の生活や文化にまつわる約700の多彩な展示品を「くらし」や「ことば」など六つのテーマに分けて紹介する基本展示室です。解説文や音声ガイドはアイヌ語、日本語、英語などの多言語で対応しています。
 その中の一つ、「しごと」の展示では、過去から現在までのさまざまな職業のアイヌ民族9人を取り上げています。狩猟や漁業など伝統的な生業だけでなく、料理人や家具職人など今を生きる姿から、アイヌの歴史をリアルに感じることができます。
 さらに、アイヌ文化に直接触れ体験する学習プログラムもあります。それが探求展示「テンパテンパ」です。アイヌ語で「さわってね」という意味で、サケの皮で作る靴の模型を組み立てたり、マレクというサケ漁に使っていた漁具の仕掛けの模型を試したりして楽しむことができます。アイヌ語のかるたやすごろく遊びもできます。
 私は大学でアイヌ語や文化を学び、北海道開拓記念館(現北海道博物館)の学芸員などを経て、4月から現職に就きました。道内外各地のアイヌ文化や歴史に関わる大勢の人が協力し作り上げた博物館で働けることに誇りを持っています。
 博物館にはアイヌの文化や歴史を楽しく学べる工夫がたくさんあります。ぜひ気軽に足を運んでもらいたいです。
◆マレクのクは小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/416675

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<体感 ウポポイ>1 舞う 体験交流ホール 舞踊グループサブリーダー・新谷史織(しんたに・しおり)さん(27) 踊り通じ文化伝えたい

2020-04-29 | アイヌ民族関連

北海道新聞 04/28 10:36
 国立民族共生公園の中に四つある体験型フィールドミュージアムのうちの一つ、体験交流ホールでは、国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産に登録されている「アイヌ古式舞踊」のほか、ムックリ(口琴)などのアイヌ民族楽器の演奏を観賞できます。
 ホールのステージは、アイヌ民族伝統の輪踊りを大人数で踊れるよう広い半円形に仕立てられ、そこを取り囲むように客席が配置されています。客席とステージの距離が近く、演舞者と観客が同じ目線でお互いの表情を見ながら踊りを楽しめるのが特徴です。
 披露する舞踊は全部で15種類。このうちの一つ、「サルルンカムイリムセ」は、高さ約6メートルの巨大スクリーンに映し出される自然や鶴の映像を背景に、鶴の鳴き声に合わせて鶴のしぐさを表現します。また「イヨマンテリムセ」(クマの霊送りの踊り)はかつて撮影した白老のアイヌ民族の映像とともに輪になって踊ります。
 本番に向けて、さまざまなルーツを持つ26人のスタッフが踊りを学び、練習を重ねてきました。観客がステージで、一緒に踊れるプログラムもありますよ。ぜひ参加してください。
 私は道外の大学を卒業後、地元の白老に戻りました。母方がアイヌ民族ですが、これまでアイヌ民族を意識することはあまりありませんでした。踊りを通じて自分たちが学んできたアイヌ民族の文化や歴史を責任を持って伝えていきたいと考えています。

 5月29日に白老町に開業するアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」。約10ヘクタールの敷地内には道内初の国立博物館「国立アイヌ民族博物館」や伝統的なコタン(集落)、民族舞踊などの体験プログラムを通じてアイヌ民族の文化を体感できる「国立民族共生公園」などが配置されている。運営するアイヌ民族文化財団の職員たちに各施設の魅力や見どころを聞いた。(鈴木雄二と斎藤佑樹が担当し、6回連載します)
◆サルルンカムイリムセの2つ目のムは小さい字
◆イヨマンテリムセのムは小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/416444

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釧路の魅力、FBで紹介 歴史やアイヌ文化、担当学芸員が解説 休館中の市立博物館

2020-04-29 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/28 05:00

釧路市立博物館のフェイスブックで同館の展示物を解説する学芸員加藤ゆき恵さん
 新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため休館中の釧路市立博物館は、「無観客『ようこそ釧路へ』」と題し、釧路の魅力を伝える動画をフェイスブック(FB)で公開している。
 同館は毎年4月の2日間、学芸員が各展示物を解説する企画「ようこそ釧路へ」を開催。市に転入した人に釧路を知ってもらう目的で、例年80人が来館し、交流を深めている。今年は新型コロナウイルス感染拡大で開催を延期した。
 学芸員の加藤ゆき恵さん(41)は「自分が生活するところを知り、好きになってもらいたい」という思いから、自宅でも見られるように動画を公開した。
 動画は3分程度のものが9本。学芸員7人が炭鉱が盛んだった釧路の歴史、イトウや湿原に生息する昆虫などの生物、アイヌ文化を紹介している。公式アカウント(https://www.facebook.com/kushiromuseum)で見ることができる。加藤さんは「博物館は釧路の文化を支えている。再開したら来てほしい」と呼びかけている。
 同館は5月7日の再開を予定しているが、「ようこそ釧路へ」の開催時期は未定。(田村雪乃)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/416333

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作法を大切にした樹木希林さんが愛読 アイヌに関する随筆集

2020-04-29 | アイヌ民族関連
ニュースポストセブン 4/28(火) 16:05配信
 新型コロナウイルスの脅威にさらされ、自然と人々の心も蝕まれていく。こんなとき、強くたくましく生きた樹木希林さんならどう行動しただろうか。
 2018年9月に亡くなった樹木希林さん(享年75)。言葉にこだわりを持ち、言葉の力を信じていた樹木さんは大の読書家でも知られた。しかし、自宅に遺されていたのは、100冊だけだった。樹木さんは100冊以上の本を手元に置くことはなかった。持っておきたい本ができたら、100冊の中から1冊を誰かにプレゼントしたというのだ。
 書斎に遺した最後の100冊にはどんな本があったのだろうか、樹木さんの考えの「源泉」ともいえる愛読書の中から、2冊を紹介する。
◆『ユーカラの人びと』金田一京助著
「菓子などの手土産は受け取らない」「いいねと言われたものはその人にあげる」など、樹木さんにはマイルールがあった。どんな一流レストランへ行っても、食べきれなかったものを折り詰めにしてもらい持ち帰るのも樹木さん流だった。
 作法を大切にした彼女が大切に読んでいた金田一京助の『ユーカラの人びと』(平凡社)。国語辞典の編者として誰もが知る金田一は、アイヌ語、アイヌ文学研究の第一人者でもある。ユーカラとはアイヌの叙事詩。単身北海道に渡った金田一とユーカラの世界の人々との交流を描く随筆集だ。アイヌの人々は飲み干した汁椀をなめ、指でぬぐい、それを自分の毛や着物になすりつける作法がある。得たものを自分の守護神へ与える行為だという。“ものを賜る”という心持ちが、そのものから御霊に触れるということに外ならなかったと本にはある。
 樹木さんと40年以上にわたって親交があり、彼女が残した100冊と彼女とのエピソードをまとめた『希林のコトダマ』(芸術新聞社)の著書がある椎根和さん(しいね・やまと 78才)は、こう話す。
「希林さんは、残りものを折に詰めて、と言うとき、『御霊に触れたいから…』といつも心の中で言っていたのだろう。そんな希林さんの振る舞いの奥底にあった思いが、『ユーカラの人びと』を読んでわかった気がします」
◆『無頼の墓碑銘 ―せめて自らにだけは、恥なく瞑りたい―』竹中労著
 芸能界から政界まで、真相を追い続けた反骨のルポライター竹中労(1928-1991)が、がんで余命宣告後も世界を飛び回り、自らの墓碑に記した言葉が「せめて自らにだけは、恥なく瞑りたい」だ。
『無頼の墓碑銘 ―せめて自らにだけは、恥なく瞑りたい―』(KKベストセラーズ)は竹中が亡くなった直後に刊行された。「無益な延命通夜葬儀、一切無用」というのも竹中の口癖だったという。
「希林さんは、どこかで破天荒な竹中の生き様、生き方を信用し、憧れてもいた。竹中にからむさまざまな会にも参加していました。『万事なりゆき』という考え方も影響を受けていたと思います。闘病中の彼女の主調音でした」(椎根さん)
※女性セブン2020年5月7・14日号
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200428-00000010-pseven-ent

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布マスクに魔よけのアイヌ文様 日テレ7がネット予約販売

2020-04-27 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/26 22:09 更新

魔よけの意味を持つアイヌ文様を施した布マスクのイメージ図(日テレ7提供)
 通販サイト運営などを手掛ける日テレ7(東京)は、アイヌ文様が入った布マスクの予約販売をウェブサイトで始めた。文様づくりはアイヌ文化の活用を監修する一般社団法人阿寒アイヌコンサルン(釧路市阿寒町)が協力した。アイヌ文化を発信しつつ、マスクの需要の高まりに対応する。
 マスクは2枚組2200円。ポリエステル生地にデニム風のプリントを施し、魔よけの意味を持つアイヌ文様、ブランドロゴを配置した。サイズは2種類。
 日テレ7は3月、岡山県井原(いばら)市で生産される「井原デニム」のジャケットやパンツに、アイヌ文様を入れた商品を製造することを企画。井原被服協同組合のウェブサイトで販売中だ。
 布マスクは新型コロナウイルスの感染拡大に伴い需要が高まっており、日テレ7はアイヌコンサルンの監修を受け、今月中旬から販売を始めた。同社の担当者は「デザインがかっこいいと好評。マスク不足の力になれれば」と話す。
 購入はウェブサイトhttp://www.ibara-denim.com/item_category/turano/へ。(光嶋るい)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/415936

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中世・謎の安藤一族とアイヌとのかかわり|発掘された「天目茶碗」と12の館【「半島をゆく」知られざる北海道の歴史】

2020-04-27 | アイヌ民族関連
サライ 4/26(日) 6:04配信
『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。
文/藤田達生(三重大学教授)
「半島をゆく」渡島半島編の楽しみは、道南の和人が築いた館群「道南十二館」のうち、代表的な館跡を訪問することである。
「道南十二館」の名称は、享徳3年(1454)に津軽十三湊(青森県五所川原市)の安藤政季が南部氏に追われ武田信広らとともに道南に渡り、配下の武将を12の館に配置したことに由来するといわれる。
取材初日の最初に訪ねたのが、北斗市の郷土資料館。来館の目的は、矢不来館跡(北斗市)からの出土品を拝見することである。実は、志苔館と勝山館と花沢館(発掘中)以外の館は、発掘がほとんど進んでいないという。したがって、矢不来館跡からの発掘データはきわめて貴重なのである。
発掘を担当された学芸員の森靖裕さんからは、同館は箱館(函館)近郊の志苔で和人とアイヌとの間に起きた対立をきっかけとする長禄元年(1457)のコシャマインの蜂起直後の1460年頃に築かれ、下国安藤盛季の一族が入ったと解説された。なお、この戦いで12館のうち、茂別・花沢以外の10館は落城したという。
道南の中世史は、箱館から松前、上ノ国にかけての海岸沿いの12館を橋頭堡とする和人と、アイヌとの交流史にほかならない。ただし困難を伴うのは、同時代史料が伝存しないことである。これまでの研究は、基本的に松前藩が正保3年(1646)に編纂した『新羅之記録』によるものだから、当然のこととして「松前藩史観」が貫かれており、客観性という問題がクリヤーできない点にある。
出土品のなかでひときわ目を引いたのは、すばらしい天目茶碗と青磁碗だった。これらからは、戦国時代の安藤氏が、明との交易をおこない、高級陶磁器を輸入したことがわかる。実は、他の館跡からも茶の湯に関係するこのような遺物が出土するという。北の武士たちが、文化的な環境にあったことがうかがわれる。
もうひとつ重要だと感じたのは、中国銭をはじめとする質量とも豊富な出土銭である(郷土資料館では117枚が整理されている)。12館の館主は、奥羽各地から渡海したと思われるが、武田信広のように由緒を若狭守護武田氏に求める者がいる。
元来、道南から十三湊さらには加賀から若狭にかけての広域流通ネットワークがあり、海の商人的領主の一部が道南地域に根を下ろし、先住の和人集団を従えて館主となったとみるべきであろう。なお、出土品のなかには越前焼が含まれている。
『新羅之記録』には、中世の最盛期には若狭から箱館に年3回商船が来航したと書かれている。中国や本州からもたらされる商品は、和人が消費するだけではなく、アイヌとの交易に必要不可欠な物品でもあった。アイヌからは、昆布・鰯・鰊やアシカ・アザラシ・トドなどの皮革がもたらされた。
アイヌ交易がもたらす富は、莫大なものだったといわれる。たとえば、奥州藤原氏の繁栄は、蝦夷地も含む北方との交易にあったとする指摘がある。あるいは、源頼朝がわざわざ奥州に出兵した理由に、北方との交易権の奪取にあったとする説がある。執権北条氏は、「関東御免津軽船」といわれる大船で日本海交易に乗り出している。これらから考えられることは、貨幣経済が早期に浸透していたことである。
●松前に遺された巨大城郭「大館」
資料館を後にした私たちは、森さんのご案内で茂別館跡(国指定史跡)に向かった。この館は、嘉吉3年(1443)に十三湊の城主安藤盛季が渡海して普請したものという。大手前の道筋にクルマを止めて、海が近いことから交易を前提とした立地であること、縄張は「大館」と「小館」からなることの説明があり、そのうえで矢不来天満宮の鎮座する「大館」跡に向かった。
ここは、大型土塁に囲まれており、広大な曲輪が切岸によって独立していることが確認できた。このような遺構からは、筆者がかつて訪れた奥羽の諸城郭が思い起こされた。たとえば、天正19年(1581)の九戸一揆の際の有力拠点となった姉帯城をはじめとする南部氏配下の城郭である。やはり、道南の館は奥羽の南部氏や安藤氏の城郭の影響を受けているに違いないと確信した。
懇切にご案内いたいた森さんとはここで別れて、私たちは松前町の大館(国指定史跡)をめざした。海岸沿いの道路を走るのだが、はるか遠くに下北半島の先端に位置する大間付近が見えた。私たちは、北海道新幹線の玄関口となった木古内町を経由して松前町に向かった。車窓からは、新たな木古内駅の立派な駅舎が目に焼き付いた。松前線や江差線が廃止された結果、北海道最南端の駅になったという。
大館跡からは、松前町教育委員会の学芸員・佐藤雄生さんにご案内いただいた。永正10年(1513)に、アイヌ人の攻撃をうけて大館は陥落した。翌年には、蠣崎(松前)光広が入って徳山館と名を改めて、蝦夷地の支配拠点とする。慶長11年(1606)に福山館(後の松前城)を築いて移転したため、廃されたといわれる。ただし遺物の残存状況からは、松前氏の隠居城として維持されていたと佐藤さんは指摘される。
佐藤さんのご案内で、徳山大神宮近くの小道から登城する。ところで、大神宮の脇にはロシア人提督「ブローウニン幽閉地」の石碑があった。ブローウニンとはゴローニンで、高等学校の教科書では「ゴローニン事件」として登場する。ディアナ号に乗船して測量をしていた彼は、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、松前城下そしてこの地であわせて約2年3か月間も抑留された事件である。
最初に向かった「小館」は、先端まで歩いたが、至近に海が見えた。やはり、ここも交易を意識した拠点だったのだ。一同、引き返して「大館」に向かう。広大な遺構である。佐藤さんは、元はアイヌの城郭「チャシ」があったのではないかとおっしゃる。
「大館」内は広大であり、谷あり畑ありである。ここに多くの居館が普請されており、先端には柵が結ばれ大規模な堀切があった。そこを越えると墓地になっている。巨大な城域には、松前氏が居住したと思われるが、踏査した印象では、家臣団屋敷も十分に営める規模である。
一般的に、戦国、織豊期には大名権威が高まり、主郭(本丸)の規模と高度が突出してゆく傾向にあるが、ここでは感じられなかった。大館から現在の松前城までの距離は、一キロにも満たない。新たに城下町と港湾施設を普請するための海岸部への移転であろう。ただし、城下町には商人町はあったが職人町はなかったという。手工業品については、交易を通じて購入することで事足りたからだそうだ。
茂別館といい大館といい、土塁や堀切を伴う大規模で大味な縄張だった。海運を意識した立地であり、内部には館主を中心とする家臣団と商人らの和人、そしてアイヌが混住したようである。館とは、交易都市といってもよいのではないかとの印象をもった。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
サライ.jp
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200426-00010000-seraijp-life

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札幌の秀才中学生は、なぜ料理人を目指したか 進路指導の教員は「アイヌは受験させない」と言った

2020-04-27 | アイヌ民族関連
全国新聞ネット 2020/04/27 07:00
© 全国新聞ネット 今博明さん
 店内に入ると、昆布の香ばしい香りが漂っていた。観光名所の「札幌市時計台」からほど近いアイヌ料理専門店「ケラピリカ」。アイヌ語で「おいしい」という意味だ。エゾシカのサッカム(干し肉)、サケのサッチェプ(薫製)、キトピロ(ギョウジャニンニク)の漬けもの。昆布の香りの出元は、具だくさんの汁物「オハウ」だ。自然の食材を優しい味付けで整えた民族の家庭料理がテーブルに並ぶ。伝統楽器ムックリのビョン、ビョーンという幽玄な音色も相まって食欲をそそる。
 店主はアイヌ民族にルーツを持つ今博明さん(52)。23年腕を磨いた大阪を離れ、昨年、店を開いた。「国内唯一のプロのアイヌ料理人」と胸を張る今さんがこの道を選んだのは、すさまじい差別を受けたことがきっかけだった―。(共同通信=大日方航)
 「アイヌは受験させないよ」。1983(昭和58)年、夏のある昼すぎ、札幌市内の市立中学校の狭い進路指導室だった。学習机を挟んだ向こうで進路指導の教員が放った一言。36年以上がたった今も忘れることはない。
 怒りも湧いてこなかった。ただぼうぜんとした。口を突いて出たのは「へぇ、そうなんや」。小学校時代を過ごした大阪で身に付いた関西弁だった。年上に敬語を使わなかったのは、後にも先にもこの時だけだ。
 勉強が大好きで、朝3時ごろまで机に向かうのが当たり前だった今さんの志望校は、北海道有数の進学校「函館ラ・サール」だった。模試の理数系科目は北海道で10位以内。学習塾では「体調を崩さなければまず受かる」と太鼓判を押されていた。
 だが、アイヌであるというただそのことだけで、願書すら出せなかった。
 あきらめが全身を襲い、学校への不信感が募る。受験勉強への意欲を失い、入試前日まで徹夜でマージャンに明け暮れた。「ばか校」と自嘲する高校に入学したものの、生活は漫然と過ぎていった。大学進学はせず、学歴に頼らない職に就こうと思っていたとき、父の勧めもあり、調理師になることを決めた。
 卒業後、親元を離れ大阪へ。調理師専門学校を出た後、東京と大阪のイタリア料理店を経て本場イタリアで1年修業、96年には大阪で自分の店を開いた。27歳の若さだった。
 「アイヌの踊りや歌を継承する人はいても、食を継承する人がいない」。あるときアイヌの友人に言われたことが刺激になった。約10年後、店でアイヌ料理を出し始めた。当初は色モノとして扱われた。が、人気漫画「ゴールデンカムイ」の影響で、徐々に料理を目当てに訪れる人が増え、評判も高まっていった。
 母ミエコさん(74)は、アイヌ料理を提供していることを告げると、普段見せたことのない涙を流した。「ありがとう」。アイヌである母の涙の理由は、差別された過去だった。
 「アイヌ」と聞くだけで動悸(どうき)が激しくなるミエコさんの右頰には、幼いころ鉛筆で刺されたいじめの痕がある。今さんは「おかんは中学を卒業するとすぐに家を出て美容師になった。ひどい差別を受け続けてきたのだと思う」とおもんぱかった。
 大阪で腕を磨きながらも、自らが育った札幌市にアイヌ料理専門店が少ないことがずっと気になっていた。「俺がやるしかない」。心を決めた。
 長年募らせていた望郷の念もあった。昨年5月末、札幌市に店を移すと、北海道のアイヌも通ってくれるようになった。3月末にはいったん店を閉め、札幌市内で店を移転予定だが、引き続きアイヌ料理を提供する。
 教員のあの一言は人生を暗転させた。でも、あの日があったから今の自分があるとも思う。「ショックだったけど、おかげで自分らしい人生が送れている」
 「ラーメン、焼き肉、それともオハウ?」。アイヌ料理が当たり前の選択肢になる未来をつくろうと、今さんは日々腕を振るっている。
 ▽一口メモ「アイヌ料理」
 狩猟や採取などで得た肉や魚、山菜や海藻を用いた料理。オハウを主食に、煮物やあえ物、刺し身やたたきを食べる。素材の味を生かし、調味料には塩のほか、魚や獣の脂肪も使う。サケは特に大切な食糧で「カムイチェプ(神の魚)」「シペ(本当の食べ物)」と呼び、乾燥貯蔵して余すところなくいろいろな料理に用いる。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/e6-9c-ad-e5-b9-8c-e3-81-ae-e7-a7-80-e6-89-8d-e4-b8-ad-e5-ad-a6-e7-94-9f-e3-81-af-e3-80-81-e3-81-aa-e3-81-9c-e6-96-99-e7-90-86-e4-ba-ba-e3-82-92-e7-9b-ae-e6-8c-87-e3-81-97-e3-81-9f-e3-81-8b-e9-80-b2-e8-b7-af-e6-8c-87-e5-b0-8e-e3-81-ae-e6-95-99-e5-93-a1-e3-81/ar-BB13eE3G

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アイヌ食文化を味わう、給食に伝統料理登場【白老】

2020-04-26 | アイヌ民族関連
室蘭民報2020.04.25

アイヌの伝統料理を楽しむ子どもたち=小鳩保育園(提供写真)
認定こども園・保育園
 白老町内の認定こども園・保育園で24日、アイヌの伝統料理が給食として提供され、子どもたちが食文化を通してアイヌ民族の歴史や文化に理解を深めた。
 地場産を使った「ふるさと給食」の一環。認定こども園・保育園でアイヌ伝統料理が提供されるのは3年目。今回は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、幼稚園は休園、保育園は登園自粛となっていたが、5カ所の全認定こども園・保育園で実施された。
 料理は、栄養士がアイヌの伝統料理のメニューとレシピを作成、各園で調理した。メニューは「いなきびごはん」、大根やニンジンなどを使った「キナオハウ」(汁物)、「チマチェプ」(焼いたサケ)、「ラタシケプ」(カボチャとひよこ豆のあえ物)。
 このうち、緑丘保育園では登園した5人が伝統食を味わった。同園では「子どもたちに好き嫌いはありますが、アイヌ文化に触れる給食として今後も進めていきたい」と話していた。
 同事業はアイヌ政策推進交付金を活用している。小中学校は昨年、アイヌ伝統料理の食材を取り入れた給食が実施され、今年は民族共生象徴空間・ウポポイの開業を記念してアイヌの伝統料理の提供が予定されていたが、休校中のために秋に延期になった。
 ※「ラタシケプ」の「シ」と「プ」は小文字
http://www.hokkaido-nl.jp/article/17003

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