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日本文化における時間と空間

「日本文化における時間と空間」(加藤周一 岩波書店 2007)

たしか去年の暮れ、追悼番組をみていたら、加藤周一さんがでてきた。
この世代のひとたちは、太平洋戦争とその敗戦についての未曾有の経験が、心身に鉄片のように食いこんでいる。
番組で、映像のなかの加藤さんはこんなことを話していた。

「あの戦争に、おれの友達を殺すだけの大義名分があったかというと、なかったんじゃないかと私は思う」

さらに、こんなこともいっていた。

「その友達が生きていたらいうであろうことを、いま生きている私がいわないというのは、どうもまずい」

さて、本書はタイトルどおり、日本文化にとっての時間や空間を考察したもの。
その考察から立ちあらわれる、日本文化の特質と行動様式についても記されている。

あつかわれている表現は、建築、言語、文学、音楽、劇、詩歌、舞踊と、ありとあらゆるものにおよぶ。
日本文化の特質について書かれた書物は多いけれど、これほど包括的なものはそうないかもしれない。
著者の見聞と教養の広さを物語る。

文章は非常に圧縮されている感じのもので、速度があり、密度がある。
話の進めかたは、中国文明や西洋文明といった各文明が、時間や空間をどうあつかったかを述べたのち、日本文化ではそれがどう表現されたかを記すいうもの。
つまり、記述はとてもシステマチック。
文化について述べた本は、わけのわからないことになりがちだから、これは貴重だ。

ただ、これには記述のレベルをあまりにも抽象化しすぎでいるののではないかという批判もあるだろう。
その点については、岩波書店のPR誌「図書」に載ったインタビューで、著者はだいたいこうこたえている。

抽象化については、全体を見通すために必要だった。
そのために「部分と全体」「今=ここ」というような概念を用いた。
ただし、その概念や論理の整合性は、精密ではない。
あまり理論にこだわっていると、実際に役に立たない。

「私は「日本の文化はどうして戦争を起こしたのか、どうしてあんなにきれいな茶碗をつくったのか」を知りたかったのです」

「あまり緻密ではないと言われるかもしれないけれども、それは、少なくとも私には事態をよりよく理解するために役に立ったと思うのです」

このインタビューは、本書の早わかりとして、とても面白い。
でも、情けないことに「図書」の何号に載ったのか忘れてしまった。

本書では、日本文化の特質は、今=ここの文化、現在集中主義であり、部分重視傾向であると結論づけられている。
それはともかく、日本人であるこちらが読んでいるせいか、やっぱり具体的な細部についての話がとても興味深い。

たとえば、「古事記」の編者について、著者はこう書いている。

「もちろん彼らは中国や朝鮮半島の存在をを知っていた」

「中国や朝鮮半島がイザナギ・イザナミから生まれたのではないとすれば、いつ、いかにして「成った」のかということについては、ただの一行も言及がない」

「古事記」の編者たちが中国や朝鮮半島のことを知っていたかどうかなんて、考えたこともなかった。
では、編者たちはなぜ中国や朝鮮半島のことを書かなかったのか。

「「古事記」の編者たちはそもそも外部世界への関心をもっていなかったようにみえる」

「すなわち関心の及ぶ空間の境界は閉じていたということになろう」

また、随筆について。
随筆には、相当するヨーロッパ語がないばかりでなく、翻訳も少ないのだそう。
現代随筆選集というべきものの、最初のヨーロッパ語訳の編訳した、ヨシダ=クラフト氏の巻頭文を著者は紹介している。

・「随筆の概念がヨーロッパ語でいう「エッセー」とは全くちがって建築的構造を備えないこと。
・しかしそれこそは「今日まで変わらない日本のエッセイストたちの基本的態度」であること。
・その内容は、つまるところ「各瞬間における生活」を反映し、それは終わりであるとともに新たなはじまりであって、止まることなく変貌していくこと。

「随筆を説明してこの巻頭論文ほど簡にして要を得、正確にして明快な文章は、国の内外に少ないだろう」

と、著者は書いているけれども、たしかにそう思う。
話はとぶけれど、「ジブリ学術ライブラリー」というシリーズのDVD「日本その心とかたち」の特別講義、「日本のとるべき道は座頭市?!」をみていたら、加藤さんはこんなことをいっていた。

「もっとも重要な文学の形式は、たぶん、量からいえば随筆でしょうね、日本では」

この指摘はとても面白い。
随筆を中心にした日本文学史というものが、ひょっとするとあるのかもしれない。

ところで、よく日本論の本でつかわれる「日本的」ということば。
このことばは、まあ指し示すことはだいたいわかるけれど、具体的にはうまく説明できないという見本のようなことばだ。

この「日本的」、あるいは「日本人の好み」を、著者は室町時代に日本が輸入した書や水墨画から察する。

「「君台観左右帳記」(室町後期)によれば日本側が好んで輸入したのは、北宋画院系の中国での大家の作品よりも禅僧の南画である。すなわち牧谿であり、玉澗である」

なるほど、輸入品の傾向をしらべれば、日本人の好みについてもわかる。
こんなことも、思いもつかなかった。
そこから、日本人の書画観についてこんな傾向がうかがえる。

「中国の文化が書においては規範、絵においては写実を貴んだのに対し、日本では書においては破格を、絵においてはたとえ写実を犠牲においてでも「気韻生動」の筆勢を珍重した」

さらに、この傾向は、日本の芸術的傾向をも鮮やかにしめす。
それは、写実よりも自己表現を尊ぶ傾向だ。

「自己の外にある規範や現実の対象、つまるところ環境の存在と機能を観察し、再現し、理解することよりもはるかに強く、自己の内にある感情や意思の表現へむかう傾向。その傾向を今かりに一種の主観主義とよぶとすれば、その主観主義こそは日本文化が含む根本的な原理の一つであって、芸術家の視線を外の世界ではなく自己の内部へむかわせる」

考察はさらに進む。

「それにしても、なぜ日本人の眼は外よりも内へむかうことが多いのか。なぜ徳川時代に石門心学が流行したのか。なぜ両大戦間に私小説が文壇を支配したのか」

「その理由は、おそらく当事者の居住空間が閉じていれば表現の空間も閉じるからである」

またDVDの話になるけれど、このシリーズには別巻として「日本のアニメーション」というものがある。
これは、高畑勲監督が加藤周一さんと対談したものだ。
本のほうの「日本その心とかたち」(徳間書店 2005)の巻末にも、テキストとしておさめられている。

内容は、タイトルどおり日本のアニメーションについて、日本文化の伝統から語ったもの。
その最後のほうで、国外に通用する表現とはなにかということに話が流れる。
そのとき、加藤さんが述べたことが含蓄に富むものだったので記しておきたい。

たとえば、絵画では、その表現は煎じ詰めれば、平面を線と面と色で組織することだといえる。
その組織の仕方は千差万別。
そこに絵画にたずさわるひとが立ち向かうべき命題があり、その命題を自分流に自由に解こうとする芸術家の立場がある。

広重の浮世絵は、広重が自分なりに命題に立ちむかった結果としてできたもの。
そのとき、広重はたぶん、日本的なんてことは考えていなかった。
そういうときにこそ、本当にいいものがでてくるし、日本人がやった結果としての独自性がでてくる。
日本的なのはあくまで結果にすぎず、描いた当人は「絵」をつくることしか考えていなかったはずだ。

「そもそもね、外国人にもわかるだろうかとか、そんな心配はしなくていいと思うんです。輸出産業じゃないんだから」

「そんなことは考える必要はなくて、「本当の絵画」をつくればそれは誰にでも、絵のわかるひとにはわかるものになるんですよ」

加藤さんがそういうと、収録しているスタジオが和気につつまれたのが印象的だった。

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