かぶれの世界(新)

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西日本豪雨1年4か月後の教訓

2019-11-17 10:37:40 | 日記・エッセイ・コラム
いまや義務的になった散歩の帰り道に堤防の草刈りをやっている若者を見かけた。堤防の斜面の除草から刈り取った雑草を束ねるまで全て機械化されているが、どうしても取り残されて枯れた草が残る。その分は人手で拾い集めるしかない。重労働だ。彼にご苦労様と言いながら、普段疑問に思っていることを問いかけた。

それは今年は庭や畑の雑草が例年よりも伸びが早く手間がかかったからだ。彼は堤防でも雑草の育ちが早いと認めた。年最初の7月の除草は理解できるが、2度目の11月に雑草の丈が2mにもなることはないという。私が夏場の雨量が多かったからかと聞くと、雨量もさることながら気温が高かったのが最大の理由ではないかという。

彼がもう一つ付け加えたのが昨年の西日本豪雨が今年の草の伸びに影響しているという。昨年肱川と矢落川合流点で越流が起こり、東大洲の新興商店街一帯が洪水に見舞われた時、彼の実家の農地も河川敷にあり水没したそうだ。今年その農地で育った玉ねぎは異常に育ちが良く野球ボール大になったという。

確かにかつては日本各地の川が毎年のように氾濫し、結果としてその周りの農地が肥沃になったと学校で教わった記憶がある。洪水でも冠水しないようやや高めの山裾に家を建て、農地は肥料代わりに毎年洪水になり豊かになる。そんな生活が田舎の農民の暮らしだった。我々は逆戻りしているのだろうか。■
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WORKMANスタイル再び

2019-11-16 21:06:57 | ファッション
WORKMANスタイルで東京に戻ることにした。先月買ったジャケットだけではさすがに寒いので、暖かいインナーが欲しくなった。先ずWORKMANのお店に行き、なければ隣にあるユニクロを覗いてみる積りだった。週末のせいか駐車場は満杯、店舗内は家族連れの多いのが目立った。

WORKMANの特徴は機能と品質については不安が無く、安価で好みのスタイルが見つかれば即買いの積りでいた。980円のインナーが沢山あったが、根気よく調べていると何と591円のバックコットン裏起毛長袖ハーフジップが売り物を見つけた。

メッチャ安いので店員に型落ちかと聞くと、否定された。どっちにしても私は温かくて着やすければ気にしない。これで決まった。果たして家族が私の作業員ルックをどう見るか興味がある。雲一つない秋の空の下を、お店から家までインナーに着替えて歩いて帰った。快適だった。

値段以上に驚いたことがある。WORKMANの店を出て、隣のユニクロの駐車場に向かう人がいた。ここは歩きでくるお客はいない。私は例外だ。ユニクロの駐車場がやや大きいが、それにしても2-3割割は空いていた。柳井社長、意外な競争相手にお気を付けください。■
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仮説:ポピュリズムは「ベルリンの壁」崩壊が原因か(1)

2019-11-14 21:33:31 | 国際・政治
先週土曜日に前後して日本経済新聞は「ベルリンの壁」崩壊後30年間の歴史を辿り、現在と未来を予測する多数の記事や論説が掲載された。内外識者から記事は色々な視点からの分析は読み応えがあり、かつ自分の経験に基づく考え方と照らし合わせ理解が深まったと思う。

同時期の私も個人的には激変の人生を過した。80年代末にIT企業の幹部になり、90年代半ばに米国工場に出向、帰国後事業責任者になったがITバブル崩壊で躓き、リストラを実行する羽目になった。その後に会社を早期退職し、既にブログで紹介したように第2、第3の人生を始めた。

つまり「ベルリンの壁」崩壊後の30年間は、私がサラリーマン最後の10年間とその後の介護・終活の20年間と重なった。言い換えると私の人生にとっても最も劇的な30年間であり、世の中で起こった出来事に最も影響を受けた時でもあったと思う。

身近な体験から私なりに「30年間に何故世界はポピュリズム化したか」を論じてみたい。グローバリゼーションの必然的な前段階とそれを加速させた要因から始めたい。

「ベルリンの壁」が崩壊する前から、先ず米国企業が製造部門の低付加価値作業を外注し安価なモノづくりを始めた。国内の製造専門会社(例えばJabil)から更に人件費の安い台湾へ、簡単な組み立てから複雑な電子部品・機器へ展開して行った。日本企業も続き低付加価値部門を海外展開した。

記憶では当時「アウトソーシング」と呼び、部品収集から組み立てまで世界に展開し最適なSCM(サプライチェーン・マネジメント)の構築を目指した。「ベルリンの壁」崩壊は国境がなくなったことを意味し、瞬く間にグローバルSCMは中国や東欧などの旧共産圏国まで広がった。

私が米国の工場に出向したのは正にこの流れの中で行われた。ある時「アウトソーシング」はあらゆる経済活動を含む意味で「グローバリゼーション」に変わっていた。初め違和感があったが、全経済活動の世界展開という意味でグローバリゼーションを理解すると納得できた。

当時はグローバリゼーションは避けられない世界的な動き、議論の余地のない流れだと見做されていた。記憶では金子慶大教授がグローバリゼーションの問題を指摘していたが、少数派で無視され消えて行ったと思う。彼の私的は先見の明があったのかもと今になって思う。何れにしろグローバリゼーションの30年は国民や国家の経済格差を拡大した。

アウトソーシングが始まった頃から、経営判断した者はかつてない富を得るが、海外に仕事を持っていかれた作業員は置いて行かれる。このトレンドが続けば経済格差はどんどん広がって行くだろうと想像した。今世紀に入りIT企業がプラットフォーマー化すると更に格差は拡大し、人々の不満は膨らみ放置できない状況になった。

ここまでを纏めると、グローバリゼーションが進行するにつれ、経済格差が徐々に拡大して行った。そこにGAFAに代表される巨大プラットフォーマーが現れ、その格差を急速に拡大させた。彼等は正に「格差拡大マシン」だった。

国内外ともに残りの世界を容赦なく置いてきぼりにし、国境の内と外でポピュリズムを生み対立が激化させた。先日一人歩き遍路の米人女性ドナに、失礼にもカリフォルニアンに格差拡大の責任ありと指摘した理由だ。意外にも彼女が反論しなかった。仮説に同意したか、ヘボ英語のせいか?(続)■
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田舎暮らし雑感2019(13)

2019-11-13 16:20:46 | 日記・エッセイ・コラム
2019年の実家での独居老人暮らしも残り1週間になった。2003年に早期退職後、自宅を母の自宅介護と長期滞在できるよう改築し、徐々に田舎暮らしの時間を増やして来た。その数年後母は脳梗塞で入院、リハビリ入院を経て介護施設に入居し、3年前に死んだ。

この数年は春から秋にかけて東京と田舎を行き来し、年の半分を田舎で過ごすようになった。3年前に母が死んでからも相続した実家と不動産等の管理の為に引き続き田舎に滞在しているが、費用削減の為往来を減らし継続して滞在し、独居老人の食事など生活費を切り詰めてやって来た。

帰京すると質素な独り暮らしと家族の豊かな(?:ケチな田舎暮らしに比べ)暮らしにカルチャーギャップを感じる。帰京日程が迫ってくると何時までこのような二重生活が続けられるか考えこむようになった。とすれば、元気でいる間にやれることを出来るだけやらねばという思いだ。

その中でも優先順位の高かったのは、江戸時代からの「いわくつきの不動産」の処分で、来春にも終了する見込みとなったのは良かった。詳しい事情を知らない都会育ちの息子にはすっきりした形で相続させたかった。幸い買い手の方も私と同じ年代で、元気な間にスッキリさせたいと考えていた。

両者に共通するのは資産を保有する父親が早くに亡くなり、他家から嫁いだ母親に全てを任されてしまったことだ。子育てと現在の資産管理だけでも大変、ましてや歴史を遡ってファミリーヒストリーなんぞと言われても優先度は低い、引き継げなかったとしても母親の責任など問えない。

私は祖父と父親が早死にしたので家族の歴史は聞けなかった。曾祖父の時代に残された文書と昔を知る住職から聞いた知識等々だけ、何分の一かは息子達に引き継げるかも知れない。残された時間を費やして出来るだけ自分は何者なのか調べて引き継ぎたいと思う。

実は、そんな境地になったのは残された時間が余り無いと感じた時で、私が子供達の年代の時に父に聞きたいなぞと思ったことはなかった。幼い頃に田舎で父と住んだので何気なく雰囲気を感じていただけだ。大人達は、祖父と父を無視して曾祖父の名前を出し彼の跡取息子と言われてた。

子供や孫が興味を持ってくれる為には、私が出来るだけ生き延びて実家に興味を持ちたまに田舎を訪れることだ。今年の夏は経験したことのない多雨で家のあちこちにカビが生え、都会暮らしの長男家族が折角来てくれたのに嫌な思いをさせた。昔からの出入りの建設会社に実家を見て貰い、湿気で傷んだ部分の改修提案を受け、そのまま了解して来春施工の予定だ。

改修にはほかの目的もある。家内と相談し小学3、4年生の子供を田舎に旅行させ母親と過ごしたことを孫も経験させたらと思う。勿論、子供夫婦の考えは私達とは違うかもしれないし、受入れ側が気が利かないジーサンの私の問題もある。なので、今回は最低限の改修に留めた。

この齢になって食事は自炊だと聞いて大抵の人は驚く。味は二の次で、生きていく為の栄養摂取だと割り切り、最低コストと時間短縮で料理する。そう目標を明確にすればそれなりに達成感も出て来て苦にならない。家内の勧めで冷凍食品を利用、味はレストラン並みでバリエーションも増えた。

9月に前歯が欠け治療を始めて以来、次々と虫歯が見つかった。西日本豪雨以来治療をお願いしている若先生は、私の帰京日程に合わせて約2ヵ月で6ヶ所の治療をやって本当に貰い助かった。お蔭で看護婦さん全員と仲良くなれ別れを惜しんだ。スーパーのレジ係りや散歩仲間の主婦、ご近所のお婆さんともお別れの挨拶を済ませた。女性だけじゃない、先週は恒例の庭師にも挨拶。■
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時代遅れの農地解放の後片付け

2019-11-11 08:59:37 | 社会・経済
3日前に投稿した記事で紹介した農地(小作地)は、実質は旧小作人が一定の利用料(年貢)を支払い自由に利用している。戦争直後に施行された農地解放後も、登記上は父から相続した私の所有する不動産で税金も払っている。ある意味、江戸時代からの地主小作制度の関係が続いていた。

最近まで私の不動産だと考えて何かすべきとは考えてなかった。今年の春に旧小作人の息子から買い取りの申し出があり、お互い元気な間に中途半端な関係を解消すべきだと一致した。実は、母が生きている間に他の小作地は全て売却し、私は言われる通り対応したが十分に理解していなかった。

今回は自分で法的な理解と手続きをした上で適切に対応する積りだ。取引金額が小さいので不動産屋を経由しない等必要コストを減らそうと思っている。市役所や農業委員会・地域の農業委員に教えを請うた。勿論、最後に司法書士の手を借りる。

取引相場は農業委員会に勧められて地域の農業委員に調べて貰った。結局、彼が不動産屋に聞き相場は場所により20万から10万円の範囲だという。堤防拡張工事で切り取られた三角形の小さな田んぼだ。まず20万円から提示して交渉で値決めすればいいと助言を受けた。

昨日の午後散歩の途中に畑仕事中の元小作人の息子を見かけ、助言された通り提案すると最初彼は驚いたような顔をし。提案価格が彼が想定したより一桁安かったようで、一気に前向きになった。ただ彼は次男で都会に住んでいる兄と弟がいた。来春までに取りまとめて取引することを合意して別れた。

その他にも買主は自家所有か或いは委託を受けた農地が3反以上あるのが条件だと農業委員から聞いている。その件も彼は承知していて家族間で調整するという。私が立ち入れない領域だが、彼は何とかするという口ぶりだった。帰京直前になって懸案事項が前進してホッとした。■
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