かぶれの世界(新)

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江戸時代のポツンと一軒家

2019-11-08 20:22:48 | 日記・エッセイ・コラム
日曜のゴールデンタイムはテレ朝の「ポツント一軒家」が人気だそうだ。私も不人気の大河ドラマから「ポツン」に乗り換えた。何故山奥に住んでいるのか夫々に事情があり、夫々の人生を営んでいる。多分それが人気で高視聴率を取っているのだと思う。

番組を見ながら数年前に実施した「国調」(国土調査)に立ち会ったことを思い出した。立ち合いで行ったこともない山奥に向かうよう連絡を受け、地図を見て先祖は山の上に住んでいたと想像した。そこは山中でも細かく区切られた平坦地だが、登記上は私の所有でかつて住居があったようだ。

遡ると、江戸時代の何時の頃か山中から現在の大洲盆地の山裾の家に引っ越しした。現在の実家は大正初めに建て築100年余になるという。その西隣にある2階建ての今は物置の住居に住んでいたようで、多分150年から200年前に「ポツンと一軒家」から平地に移り住んだと推測される。

四国統一した長曾我部氏が滅亡した時、家臣だった先祖は当地に残り大洲藩主に許されて刀を捨て山中で百姓として生きていくようになったと住職に聞いたことがある。それがどういう経緯でポツンと一軒家から平地に降りて来たのか定かでない。私が子供の頃の集落は全家族同姓だった。

田んぼや畑での農作業をする百姓にとって極めて重要な引っ越しだったはずだ。引っ越しの経緯は分からないが、江戸時代後期に生まれた曾祖父名の石碑やその義父の墓が立派だった事から推測すると、江戸中期頃に移住を許される何かがあったと思われる。負け犬が頑張ったのだろう。

60年前に私の子供の頃はご近所の家は全て藁葺(わらぶき)で我が家だけ瓦だった。祖母からご近所の殆どは小作人で、我家が地主だったと聞いた。祖母は戦後の農地解放で田んぼを「とられた」と残念そうに言うのを何度か聞いた。良く言えば彼女は戦前の地主の香を残していた。

実は、今でもその後遺症は残っている。名義は私になっているが、実質は小作人の子孫が利用、毎年利用料(年貢)を収めている。戦後生まれの小作の息子と、これまた戦後生まれの私が元気でいる間に地主小作関係を無くし、彼の所有に登記を変更しようと検討中だ。

多分、父が長生きしていたら彼がそうしたろうと思う。我が家は祖父が20代半ば、父が定年前に死に、ポツンと一軒家以来の歴史が子孫に伝えられないまま来た。昔の資料はそれなりに残っているが、私には読み取れない。歴史を知っている人も亡くなった。もう少し頑張って生き、出来るだけファミリーヒストリーを息子達に伝えたいと思う。■
コメント
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