かぶれの世界(新)

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白秋の生家で無知をさらす

2015-03-02 20:50:50 | 旅行
西九州旅行最後の日に天草から柳川に立ち寄った。旅行エージェントの案内書を見た時、何故柳川に行くのか理解できなかった。時間調整程度にしか思わず、調べもしなかった。野球ファンの私は柳川商業が甲子園で活躍した事くらいしか思いつかず、それ以上何も調べなかった。

家内と息子が人気のオプションツアー「柳川川下り」に行った後、私は一人柳川の旧市街を散策しガイドに勧められた北原白秋の生家を見学に行った。生家は大きな造り酒屋で明治の頃一時は地元の名家だったらしい。文学に疎い私は、白秋といえば牧水と並び大酒のみで自由気ままに生きた詩人という印象しかない。

入館料400円を払った後、入館者が殆どいないのを幸いに見学そっちのけで受付の女性2人と白秋がらみの雑談を続けた。酒屋の息子では白秋が大酒のみだったのも当然と会話が弾んだ。57で死んだのも酒が原因だったらしい。私の唯一の記憶である牧水との酒まみれの関係について得々と語った。

かつての名門の造り酒屋だったというだけあって、酒倉2棟の他にも白秋が勉強したという洒落た離れ等予想以上に大きな作りだった。白秋の肉声が聞ける録音とか作品集、交友関係など興味ある資料があった。私の実家のある故郷の松山が生んだ子規とは別の流派だったようだ。私風に言うなら写実派と耽美派というより、硬派とナンパの違いというところか。

沢山あった展示資料を一通り見て回ったが、どこにも牧水の名前が出てこずちょっと困惑した。受付に戻って私は間違ってたかもしれない、牧水の名前が無かったと言い訳した。すると博学そうな初老の女性が出て来て議論に参加した。早稲田で牧水と友人になったはずだと言い、受付の後ろに積まれた資料を調べ始めたが出てこなかった。東京に戻りウィキペディアで調べると確かにそうだった。

白秋が19歳で上京し数年後に柳川が大火に襲われ、実家は焼け残った2軒の一つだったらしいがその後商売は傾き間もなく人手に渡ったそうだ。白秋が30歳になった頃に家族揃って東京に引っ越してきたという。何故倒産したのか、「マッサン」のせいかと聞いた(我ながら洒落た質問だ)。

そのオバサンによると、焼け残ったが建物に煙が染み込んでお酒の味が変わりお客が離れて行った。全国的なトレンドとして日本酒はビールと焼酎に食われた。確かに九州は焼酎の一大産地だ。私の実家の近くでも地域の名士で唯一の造り酒屋が数十年前に店を閉めた。

ということで白秋の生家で詩の話は一切なし、最初から最後までお酒の話で終わった。どちらかというと世間話の類だ。私に詩を語るセンスは全くない。■
コメント
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