朝の連ドラ「マッサン」は好評のうちに最終週を迎えるという。私も好きな番組で毎日楽しみに見ている。「人生は冒険旅行」というこのドラマのメインテーマが私にピッタリくるのだ。テレビのような大冒険旅行じゃないが、私なりの小冒険旅行をしたという思いがある。
主人公と違って田舎者の私は生来「臆病者」だと自認していたが、30を過ぎてただ一度の人生なら思い切って冒険してみようと徐々に考えるようになった。学生時代の夢だったコンピューター技術者になり10年後技術者から管理者になった頃、「やりたいことをやった、これからは仕事以外に限らず新しいことをやろう」と、何でも面白いと思ったことをやろうという気になった。最初に熱中したのは趣味で、バイク・バドミントン・登山で、週末になるとそのどれかをやった。仕事がうまく行かない時に憂さ晴らしになった。
バイクは地元のお祭りで50ccのバイクを買ったのがきっかけではまり、毎年排気量の大きい機種に買い替えた。単独行で週末は河口湖とか軽井沢等近場への日帰りツーリング、長く休みが取れる時は四国の実家まで往復したこともある。バドミントンは職場の同僚に誘われ昼休みのレクリエーションから始め、クラブに加入してコーチを受けローカルな大会に参加するようになった。Cクラスから始め数年かかけて世田谷区のAクラスまで上った。
会社で管理職になると技術者として生きていける道は限られ、入社当時は考えもしなかった分野の仕事をこなすことが求められた。資材調達交渉や商品計画などの未経験分野で仕事をし、海外向け商品で現地法人との交渉することもあった。やってみると若い時絶対と思っていた技術開発じゃなくても面白かった。そこそこの仕事ぶりが評価されたのか、遂には20日に投稿したように米国で現地生産の責任者を打診され受けた。自分が適任かどうかやって行けるか等グズグズ考えなかった。
その時は「マッサン」と同じく「人生は冒険旅行」であり、こんな機会は滅多にないと考えた。私の前に米国赴任を打診された先輩の生産のプロは子供の教育を理由に断ったと聞いた。実はそこに私の問題があった。私が素人ということではなく、3人の子供がいたのに冒険の機会を躊躇せず受け入れた。最初から単身赴任を覚悟したが、要は身勝手な親だった。悩みもしなかった。良く言えば子供の教育は家内に何とかしてくれると思った。
米国赴任後の生活も冒険旅行の精神でやりたい放題だった。地元のバドミントンクラブに単独で乗り込んで入会を申込み、積極的に各地のローカル大会に参加し州の協会長の知己を得た。(実は私を送り出した上司も趣味が出来る場所を見つけるか気にしてたと聞き感激したものだ。)同じ頃仕事の為にと勧められたマッサージにもはまった。現地の不動産屋さんに紹介されたブルックリン生まれのシングルマザーのセラピストと懇意になった。彼女のお蔭で疲労回復だけでなく、米国生活のコツを教わり英会話の練習や情報収集に役立った。
その後引っ越しして電話帳(イエローブック)をひいて、危険だから行くなと言われた地区に住むセラピストの家でマッサージを受けたこともある。更に加州に引っ越して後も同じ経験をした。マッサージは止められなくなり仕事やレジャーで海外旅行をする度にその土地毎に異なるマッサージを受けた。詳しくは10年前に「世界マッサージ紀行」と題してその頃の経験を記事にして投稿したので興味のある方はご覧になって下さい。
実は私の人生最大の冒険は会社を退職後3年余り経ってに投資を開始し、退職金の相当部分を金融資産に注ぎ込んだ。正直言うと最初はそれ程冒険をしたという意識はなかった。意識があろうとなかろうと、リーマンショックでその大半の価値を失った時は大ショックだった。賭け事はしないとか言いながら、競馬や競輪の損失とは2桁くらい違う大損だった。「人生は冒険旅行」とかいって済まなかった。だが、幸運にも取り戻せた。
元々私は子供の頃から用心深い性格で冒険など絶対にしない臆病者だった。上記の様に30を過ぎて仕事を通じて徐々に社会観が変わった。だが、冒険が失敗しても最悪ケースに備える用心深さがあったと思う。金融資産が半減した時も家族が生活できる程度の年金は貰っていた。「無鉄砲な冒険旅行」ではなかった。
実は私の子供達も非常に「用心深い臆病」な性格であり、孫もその性格を受け継いでいると長男は言うから、用心深さは遺伝するみたいだ。その意味では私は「用心深い冒険者」だった。一方で問題なのはマッサンと違って私は「自分勝手な冒険者」だった。冒険旅行のお蔭で家族は何度も内外に旅行し、美味しいものを食べ、教育の機会等と色々な経験をしたと思う。だが、彼等に感謝された記憶はない。ガン疑惑等で体調を崩した時に心配の声も聞かなかった。私は身勝手なお父さんだった。私は「人生は冒険旅行」に満足しているが、身勝手な冒険旅行の後味はちょっとホロ苦さがある。■
主人公と違って田舎者の私は生来「臆病者」だと自認していたが、30を過ぎてただ一度の人生なら思い切って冒険してみようと徐々に考えるようになった。学生時代の夢だったコンピューター技術者になり10年後技術者から管理者になった頃、「やりたいことをやった、これからは仕事以外に限らず新しいことをやろう」と、何でも面白いと思ったことをやろうという気になった。最初に熱中したのは趣味で、バイク・バドミントン・登山で、週末になるとそのどれかをやった。仕事がうまく行かない時に憂さ晴らしになった。
バイクは地元のお祭りで50ccのバイクを買ったのがきっかけではまり、毎年排気量の大きい機種に買い替えた。単独行で週末は河口湖とか軽井沢等近場への日帰りツーリング、長く休みが取れる時は四国の実家まで往復したこともある。バドミントンは職場の同僚に誘われ昼休みのレクリエーションから始め、クラブに加入してコーチを受けローカルな大会に参加するようになった。Cクラスから始め数年かかけて世田谷区のAクラスまで上った。
会社で管理職になると技術者として生きていける道は限られ、入社当時は考えもしなかった分野の仕事をこなすことが求められた。資材調達交渉や商品計画などの未経験分野で仕事をし、海外向け商品で現地法人との交渉することもあった。やってみると若い時絶対と思っていた技術開発じゃなくても面白かった。そこそこの仕事ぶりが評価されたのか、遂には20日に投稿したように米国で現地生産の責任者を打診され受けた。自分が適任かどうかやって行けるか等グズグズ考えなかった。
その時は「マッサン」と同じく「人生は冒険旅行」であり、こんな機会は滅多にないと考えた。私の前に米国赴任を打診された先輩の生産のプロは子供の教育を理由に断ったと聞いた。実はそこに私の問題があった。私が素人ということではなく、3人の子供がいたのに冒険の機会を躊躇せず受け入れた。最初から単身赴任を覚悟したが、要は身勝手な親だった。悩みもしなかった。良く言えば子供の教育は家内に何とかしてくれると思った。
米国赴任後の生活も冒険旅行の精神でやりたい放題だった。地元のバドミントンクラブに単独で乗り込んで入会を申込み、積極的に各地のローカル大会に参加し州の協会長の知己を得た。(実は私を送り出した上司も趣味が出来る場所を見つけるか気にしてたと聞き感激したものだ。)同じ頃仕事の為にと勧められたマッサージにもはまった。現地の不動産屋さんに紹介されたブルックリン生まれのシングルマザーのセラピストと懇意になった。彼女のお蔭で疲労回復だけでなく、米国生活のコツを教わり英会話の練習や情報収集に役立った。
その後引っ越しして電話帳(イエローブック)をひいて、危険だから行くなと言われた地区に住むセラピストの家でマッサージを受けたこともある。更に加州に引っ越して後も同じ経験をした。マッサージは止められなくなり仕事やレジャーで海外旅行をする度にその土地毎に異なるマッサージを受けた。詳しくは10年前に「世界マッサージ紀行」と題してその頃の経験を記事にして投稿したので興味のある方はご覧になって下さい。
実は私の人生最大の冒険は会社を退職後3年余り経ってに投資を開始し、退職金の相当部分を金融資産に注ぎ込んだ。正直言うと最初はそれ程冒険をしたという意識はなかった。意識があろうとなかろうと、リーマンショックでその大半の価値を失った時は大ショックだった。賭け事はしないとか言いながら、競馬や競輪の損失とは2桁くらい違う大損だった。「人生は冒険旅行」とかいって済まなかった。だが、幸運にも取り戻せた。
元々私は子供の頃から用心深い性格で冒険など絶対にしない臆病者だった。上記の様に30を過ぎて仕事を通じて徐々に社会観が変わった。だが、冒険が失敗しても最悪ケースに備える用心深さがあったと思う。金融資産が半減した時も家族が生活できる程度の年金は貰っていた。「無鉄砲な冒険旅行」ではなかった。
実は私の子供達も非常に「用心深い臆病」な性格であり、孫もその性格を受け継いでいると長男は言うから、用心深さは遺伝するみたいだ。その意味では私は「用心深い冒険者」だった。一方で問題なのはマッサンと違って私は「自分勝手な冒険者」だった。冒険旅行のお蔭で家族は何度も内外に旅行し、美味しいものを食べ、教育の機会等と色々な経験をしたと思う。だが、彼等に感謝された記憶はない。ガン疑惑等で体調を崩した時に心配の声も聞かなかった。私は身勝手なお父さんだった。私は「人生は冒険旅行」に満足しているが、身勝手な冒険旅行の後味はちょっとホロ苦さがある。■