さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 長春 その3

2011年06月17日 | 海外旅行
偽満皇宮博物院における緝煕楼(しゅうきろう)の一階の東側では、溥儀や皇后、皇妃の生活写真が展示されています。



この時代は、カメラの普及も進んでおり、古い写真も数多く残されているようです。



溥儀と皇后の婉容(えんよう)



婉容は、北京で生まれましたが、天津で育って英語を含めた西洋的な教育を受けていました。

17才の時に、溥儀の皇后として迎えられましたが、溥儀の同性愛的性向あるいは性的不能によって、夫婦仲は冷えていき、アヘンに手を出して、重篤な中毒に陥っていきます。

溥儀が満州国皇帝となると婉容も再び皇后になりますが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を見せず、最後は身なりにも気を使わないような精神的錯乱に陥っていきます。

婉容は、満州国皇后時代に愛人を作り、娘を出産しますが、生まれた子供は、すぐに彼女の前から姿を消してしまいます。本人には、親族の手で育てられていると告げられましたが、実際は溥儀の命を受けた従者の手によって、ボイラーの中に投じて殺害されました。

日本の敗戦後の逃亡の際に溥儀一行から置き去りにされて、共産党軍の手におち、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に死亡したといわれています。



婉容が皇后に迎えられる前日に、側室として紫禁城に迎えられたのが、13才の文しゅう(ぶんしゅう)です。紫禁城の中で、溥儀や婉容とともに過ごす日が続きます。天津の日本租界に移ってから溥儀のもとから逃亡して、3日後に離婚の訴訟を裁判所に申し出ます溥儀が慰謝料を支払うことになって、離婚は成立して、文しゅうは平民に戻ります。文しゅうは、私立学校の先生になりますが、皇帝の側室であったことが世間に広まったことから退職を余儀なくされて、最後は45才で、飢え死にに近い状態で亡くなりました。



婉容はアヘン中毒になり、文しゅうは逃げ去っていたため、満洲時代になって15才の譚玉齢 (たんぎょくれい)を側室に迎えます。溥儀との仲は良かったのですが、重い病におちいります。清朝以来の習慣で漢方薬医に治療をさせますが、衰弱していく一方でした。この病気は御用係りの吉岡の耳に入り、日本人医師に診察させるよう勧めます。吉岡の言葉に反対できない溥儀は、日本人医師に治療を行わせます。栄養剤の注射と輸血を行ったその晩に譚玉齢は急死してしまいます。

譚玉齢は、愛国心が強く関東軍に反感を持っていたために、吉岡の指示によって暗殺されたという疑いがわいてきました。溥儀は後の東京軍事裁判で、譚玉齢は吉岡に毒殺されたと証言しました。



関東軍としては、満州国皇帝に世継ぎができる必要がありました。そこで側室を迎えることを溥儀に勧めました。関東軍の手で集められた候補のうち、新京市内の料理屋の店で働く労働者階級の娘の15才の李玉琴が選ばれました。

皇帝の側室というよりは、召使のような扱いで、廃人と化した皇后婉容を最後まで世話したといいます。

溥儀の収容所時代に、離婚することになります。



最後の夫人になった李淑賢です。満洲時代に関係者ではないため、別の所に掲示してあった写真です。中華人民共和国の人民となった溥儀が知人の紹介で知り合った看護婦で、結婚生活は5年ほどでしたが、溥儀の最後を看取りました。



譚玉齢の寝室



譚玉齢の居間

蓄音機が置かれていますね。



譚玉齢の書斎

溥儀とは、多くの女性が関係を持ちましたが、幸せであったのは、平民として結婚した李淑賢だけであったようです。
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