さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 フンザ その10

2013年11月15日 | 海外旅行
旅の第7日目、フンザでの滞在を終え、再びカラコルム・ハイウェイのバス移動を再開しました。



ウルタルⅠ峰(左)とウルタルⅡ峰が見送るように紺色の空に聳えていました。



移動するうちにフンザピークやレディースフィンガーも姿を見せて、車窓から目を離せなくなりました。



フンザピークを背景に、岩山のアルティット・フォートが姿を現しました。



それほど走らないうちに、バスストップになって、岩絵の見学になりました。



ここの岩絵は、アイベックスなどの動物が主です。







岩絵よりも、山の姿に目が引かれます。



フンザから先のカラコルム・ハイウェイは、途中土砂崩れで迂回路が設けられている場所は別にして、良く整備された舗装道路が続きました。中国からの資金や建設業者が入っているためのようですが、労働者のパキスタン人をこき使うため、評判は悪いようです。



再びバスに乗って走り出すと、レディースフィンガーの全容を眺められるようになりました。



カラコルム・ハイウェイの行方にも、新しい山が現れてきました。



おそらく トリボール7733m(右)とモミヒル・サール7343m(左)だろうと思います。



モミヒル・サール7343mの鋭鋒。



レディースフィンガーともお別れ。



カリマバードの山として、最後にウルタルⅡ峰が、険しい山頂を表してきました。





ウルタルⅡ峰の姿は、カリマバードからでは下から見上げることになってしまうため、少し離れた所から見る必要があるようです。山頂は、垂直の大岩壁に囲まれています。



ウルタルⅡ峰は、長谷川恒夫が亡くなった山として知られています。佐瀬稔著 「長谷川恒男虚空の登攀者」に著されていますが、今回この本が手に入らなかったため、同じ著者による「残された山靴:志なかばで逝った8人の登山家の最期」を参照しました。この本には、長谷川恒夫が亡くなった後のウルタルⅡ峰の初登頂を目指した者の敗退と成功が描かれています。

長谷川恒夫は、アルプス三大北壁の冬期単独登攀に世界で初めて成功し、栄光の人になります。しかし、ヒマラヤに転身してからは、運に見放されて敗退の連続になります。

長谷川恒夫は、1990年にウルタルⅡ峰へのアタックを行うも失敗。翌1991年の再挑戦で、雪崩によって亡くなってしまいます。

当時、8000m峰は全て繰り返し登られ、未踏の高峰は、第一位ナムチャバルワ(7782m 1992年に初登頂)、第二位ブータンのガンケール・ブンズム(Ⅰ峰7541m)、ウルタルⅡ峰(73388m)は第三位の高さを持っていました。ブータンのガンケール・ブンズムは、政府によって登山が禁止されていたため、ナムチャバルワが登られた後は、ウルタルⅡ峰は事実上登山家に残された地上最高の未踏峰になりました。

長谷川恒夫亡き後も、この未踏峰をめざして、日本人隊も含む各国の登山隊が挑戦しましたが、死者を出すも登頂はかないませんでした。ウルタルⅡ峰の初登頂は、1996年の松岡・山崎(下山後に死亡)隊によってようやく成し遂げられました。

このウルタルⅡ峰の初登頂によって、登山家の関心は「最も高い未踏峰」から「無酸素・バリエーション・単独」へ移っていくことになりました。その点からも、ウルタルⅡ峰は、興味深い山ということになります。

晴天に恵まれてフンザの山の眺めを堪能することに満足し、カラコルム・ハイウェイを先に進みました。
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