ミヒャエル宮ドーム下にシシィ博物館の入り口があります。
生涯変わらなかったウェストサイズ50センチのシシィのシルエットが飾られています。
シシィ博物館に入場すると、王宮銀器・食器調度コレクション、シシィに関する展示物、王宮各部屋の見学といった流れになります。
王宮銀器・食器調度コレクションは、膨大な数が展示されており、これをざっと眺めるだけでも1時間ほどかかってしまうようです。今回は時間がないので、ざっと眺めるだけにしました。
これは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟である、メキシコ皇帝マクシミリアンのディナーセットのようです。ハンガリーのヘレンドに注文しましたが、皇帝が銃殺されてしまったため、メキシコに送られることはありませんでした。
フランス製センターピース
ミラノ製センターピース
フランス製のアヒルのガラ絞り
シシィは、スリムな体型を保つため、このプレス器で絞られる牛の肉汁を主食とし、ミルクと乳製品を食べていたといいます。
階段で二階に上がると、シシィ博物館が始まります。
シシィに関する展示物は、突然の死、伝説の形成、少女時代、宮殿の拘束、放浪の旅路、暗殺といったテーマで進んでいきます。
1898年9月10日、皇妃エリザーベト(愛称シシィ)は、ジュネーブで暗殺され、美貌の皇妃の伝説が生まれます。
皇妃エリザーベトのデスマスク
15才のエリーザベト
エリーザベトは、1837年、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれました。ミュンヘン近くのシュタルンベルク湖の湖畔であるポッセンホフェン宮殿で自然な雰囲気の中で育ちました。
ルドヴィカの姉であるオーストリア大后妃ゾフィーが皇帝フランツ・ヨゼフの妃を探していたため、エリーザベトの姉のヘレーナを候補にしました。バートイシュタルへ娘二人を連れていったところ、皇帝はエリーザベトに一目惚れしてしまい、翌1854年4月24日に、ウィーンのアウグスティーナ教会で結婚式をあげることになります。
この写真を見ると、いとこであるバイエルン国王ルートヴィヒ2世の若い時と良く似ていますね。ルートヴィヒ2世は、ノイシュバンシュタイン城の建築など、国費の浪費を理由に精神疾患とされて幽閉され、その直後に謎の死をとげました。
ルードビヒ2世の精神的疾患が、いとこである自分にもあるのではとエリーザベトが疑う場面が、ミュージカル「エリザベート」にも出てきます。
婚礼前夜のドレスのレプリカ
しかしながら、ウィーンの王宮での窮屈な生活にはなじめず、大后妃ゾフィーとの軋轢も増していきます。
その一方で、皇妃エリーザベトの美貌に、国民の人気は高まっていきます。
この「舞踏会のドレスにダイヤモンドの星形髪飾りを付けたエリーザベト皇妃」の肖像画は、もっとも名高いものになっています。
この星型髪飾りのレプリカは、各種アクセサリーになって、お土産品になっています。
政治的には、ほとんど口を出さなかったエリーザベト皇妃ですが、ハンガリーの独立運動の際には、後押しをしてオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立に貢献しました。
そのため、エリーザベト皇妃は、ハンガリーでは絶大な愛情を集めていますが、オーストリアではハンガリーの独立を許し、ウィーンを嫌って海外を放浪していたことから、微妙な感じで受け止められていました。エリーザベト皇妃が観光の主役になったのも、ミュージカル「エリザベート」の公演の成功以来のことです。
これは、ハンガリー女王戴冠式の正装をしたエリーザベト皇妃の肖像画です。
その戴冠式衣装のレプリカ
「ルビーのアクセサリーを付けたエリーザベト」
エリーザベト皇妃は、美貌と体形を維持するため大変な努力を払っていきます。また、ウィーンを離れて各国を訪れる放浪の旅を続けます。
ルドルフ皇太子の自殺以後、エリーザベトは、常に黒い喪服を着るようになりました。
また、35才を過ぎると、顔を隠して自らの写真は撮らせなかったといいます。
1898年9月10日、エリザーベトは、避暑のためにジュネーブを訪れ、レマン湖の遊覧船に乗ろうとしますが、アナーキストのルイジ・ルケーナに刺されます。凶器は、三角の断面を持つヤスリで、切っ先は心臓に達していたため、ホテルに収容された後に死亡しました。
この服は、暗殺時に着ていたもので、胸に小さな穴が開いています。
このコートは、当日着ていたコート
暗殺に用いられたヤスリ
ルイジ・ルケーナは、終身刑を言い渡されますが、後にベルトを使って首吊り自殺しました。
かくして、エリーザベトは、伝説の人になりました。
生涯変わらなかったウェストサイズ50センチのシシィのシルエットが飾られています。
シシィ博物館に入場すると、王宮銀器・食器調度コレクション、シシィに関する展示物、王宮各部屋の見学といった流れになります。
王宮銀器・食器調度コレクションは、膨大な数が展示されており、これをざっと眺めるだけでも1時間ほどかかってしまうようです。今回は時間がないので、ざっと眺めるだけにしました。
これは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟である、メキシコ皇帝マクシミリアンのディナーセットのようです。ハンガリーのヘレンドに注文しましたが、皇帝が銃殺されてしまったため、メキシコに送られることはありませんでした。
フランス製センターピース
ミラノ製センターピース
フランス製のアヒルのガラ絞り
シシィは、スリムな体型を保つため、このプレス器で絞られる牛の肉汁を主食とし、ミルクと乳製品を食べていたといいます。
階段で二階に上がると、シシィ博物館が始まります。
シシィに関する展示物は、突然の死、伝説の形成、少女時代、宮殿の拘束、放浪の旅路、暗殺といったテーマで進んでいきます。
1898年9月10日、皇妃エリザーベト(愛称シシィ)は、ジュネーブで暗殺され、美貌の皇妃の伝説が生まれます。
皇妃エリザーベトのデスマスク
15才のエリーザベト
エリーザベトは、1837年、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれました。ミュンヘン近くのシュタルンベルク湖の湖畔であるポッセンホフェン宮殿で自然な雰囲気の中で育ちました。
ルドヴィカの姉であるオーストリア大后妃ゾフィーが皇帝フランツ・ヨゼフの妃を探していたため、エリーザベトの姉のヘレーナを候補にしました。バートイシュタルへ娘二人を連れていったところ、皇帝はエリーザベトに一目惚れしてしまい、翌1854年4月24日に、ウィーンのアウグスティーナ教会で結婚式をあげることになります。
この写真を見ると、いとこであるバイエルン国王ルートヴィヒ2世の若い時と良く似ていますね。ルートヴィヒ2世は、ノイシュバンシュタイン城の建築など、国費の浪費を理由に精神疾患とされて幽閉され、その直後に謎の死をとげました。
ルードビヒ2世の精神的疾患が、いとこである自分にもあるのではとエリーザベトが疑う場面が、ミュージカル「エリザベート」にも出てきます。
婚礼前夜のドレスのレプリカ
しかしながら、ウィーンの王宮での窮屈な生活にはなじめず、大后妃ゾフィーとの軋轢も増していきます。
その一方で、皇妃エリーザベトの美貌に、国民の人気は高まっていきます。
この「舞踏会のドレスにダイヤモンドの星形髪飾りを付けたエリーザベト皇妃」の肖像画は、もっとも名高いものになっています。
この星型髪飾りのレプリカは、各種アクセサリーになって、お土産品になっています。
政治的には、ほとんど口を出さなかったエリーザベト皇妃ですが、ハンガリーの独立運動の際には、後押しをしてオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立に貢献しました。
そのため、エリーザベト皇妃は、ハンガリーでは絶大な愛情を集めていますが、オーストリアではハンガリーの独立を許し、ウィーンを嫌って海外を放浪していたことから、微妙な感じで受け止められていました。エリーザベト皇妃が観光の主役になったのも、ミュージカル「エリザベート」の公演の成功以来のことです。
これは、ハンガリー女王戴冠式の正装をしたエリーザベト皇妃の肖像画です。
その戴冠式衣装のレプリカ
「ルビーのアクセサリーを付けたエリーザベト」
エリーザベト皇妃は、美貌と体形を維持するため大変な努力を払っていきます。また、ウィーンを離れて各国を訪れる放浪の旅を続けます。
ルドルフ皇太子の自殺以後、エリーザベトは、常に黒い喪服を着るようになりました。
また、35才を過ぎると、顔を隠して自らの写真は撮らせなかったといいます。
1898年9月10日、エリザーベトは、避暑のためにジュネーブを訪れ、レマン湖の遊覧船に乗ろうとしますが、アナーキストのルイジ・ルケーナに刺されます。凶器は、三角の断面を持つヤスリで、切っ先は心臓に達していたため、ホテルに収容された後に死亡しました。
この服は、暗殺時に着ていたもので、胸に小さな穴が開いています。
このコートは、当日着ていたコート
暗殺に用いられたヤスリ
ルイジ・ルケーナは、終身刑を言い渡されますが、後にベルトを使って首吊り自殺しました。
かくして、エリーザベトは、伝説の人になりました。