王宮の中も撮影禁止のため、ガイドブックからの写真になります。
謁見のための控室
フランツ・ヨーゼフ皇帝は、毎週二回謁見を行いました。民間人も許可され、男性は燕尾服、軍人は制服、女性はドレスに帽子着用が求められましたが、それを準備できない人のため、各地の民族衣装も認められました。国民のあらゆる地方の各階層の人々が集まったといいます。
謁見の間
皇帝は立ったまま謁見を受け、1日100人以上の謁見を受けて、個々の謁見時間は数分であったようです。
会議室
ここでは、皇帝が議長を務めた大臣会議が行われました。
壁際には、皇帝の母ゾフィー女大公の胸像が置かれています。
ゾフィー女大公は、生涯、政治的助言者として息子を補佐し続けました。
息子の嫁のエリザーベトと対立し、エリザーベトがウィーンを離れて放浪の旅に出る原因になります。ミュージカル「エリザベート」では、完全な敵役になっていますね。
フランツ・ヨーゼフの執務室
皇帝は、早朝の4時から夕方の5時まで書類の処理に取り組み、朝食と昼食もこの執務室でとりました。
皇帝にとっては、ここが個人的空間である居間でもあったので、家族のポートレートが飾られています。
部屋着姿で、長い髪を解いて胸元で結んでいる絵は、とりわけ皇帝のお気に入りの絵だったといいます。
美しい肖像画ですが、少し深読みをする必要があります。
19世紀頃までのキリスト教の影響下では、長い髪は女性の罪の象徴とされたといいます。そのため、女性が人前で髪をほどくことはあり得ず、寝室でのみ、その豊かな髪を開放することが許されていました。ほどかれた髪は、現在よりも、セックスアピールとして受け止められていたようです。
この二点のプライベートな絵を執務室に飾り付けることによって、皇帝はシシイに対する愛を思い起こしていたのでしょうね。
皇帝の寝室
持ち運び可能なベッドをはじめ、簡素な家具が置かれています。
フランツ・ヨーゼフの大サロン
このサロンでは、身内の来訪者をここで迎えましたが、エリーザベト皇妃の部屋と続いており、皇妃の死亡以後は使われませんでした。
エリーザベト皇妃の居間兼寝室
この部屋は、マリア・テレジアの時代にはロココ様式で内装されていましたが、エリーザベト皇妃のためネオロココ様式に乾燥されました。
皇妃の化粧及び体操室
エリーザベト皇妃が日常生活の大半を過ごした場所です。
室内には、木製の体操器具が置かれており、大サロンへの出入り口の上には吊り輪が取り付けられています。皇妃のためには、もっと大きな体操室も設けられていましたが、今は無くなっています。
エリーザベト皇妃のトイレ
水洗トイレになっています。
皇妃の衣装室
画家ベルグルが、マリア・テレジアの委託で風景がを描いています。
エリーザベトの大サロン
エリーザベトの小サロン
大きな控えの間
赤いサロン(プーシェの部屋)
これらの部屋は、アレクサンドル皇帝の部屋とも呼ばれます。
名前は、ロシアの皇帝アレクサンドル1世が1815年のウィーン会議中にこれらの部屋で過ごしたことに由来します。
アレクサンドル・アパトメントと呼ばれる一連の部屋は、エリーザベトのディナールーム、応接室として使われました。
内装は18世紀のもので、19世紀の家具が置かれています。
ディナールーム
フランツ・ヨーゼフの時代のディナーセットが置かれています。
公式の会食はフランス料理が中心で、最初は必ずコンソメスープで始まり、次いでカキ料理、サラダ、魚料理、肉料理が続き、デザートとチーズが締めくくりになりました。通常7種類から11種類の料理が出たといいます。
ウィーン市内の王宮は、日常的に使われていたため、シェーンブルン宮殿と比べると、華やかさには少し劣るものの、シシィの生活の一端がうかがわれて、興味深いものでした。
謁見のための控室
フランツ・ヨーゼフ皇帝は、毎週二回謁見を行いました。民間人も許可され、男性は燕尾服、軍人は制服、女性はドレスに帽子着用が求められましたが、それを準備できない人のため、各地の民族衣装も認められました。国民のあらゆる地方の各階層の人々が集まったといいます。
謁見の間
皇帝は立ったまま謁見を受け、1日100人以上の謁見を受けて、個々の謁見時間は数分であったようです。
会議室
ここでは、皇帝が議長を務めた大臣会議が行われました。
壁際には、皇帝の母ゾフィー女大公の胸像が置かれています。
ゾフィー女大公は、生涯、政治的助言者として息子を補佐し続けました。
息子の嫁のエリザーベトと対立し、エリザーベトがウィーンを離れて放浪の旅に出る原因になります。ミュージカル「エリザベート」では、完全な敵役になっていますね。
フランツ・ヨーゼフの執務室
皇帝は、早朝の4時から夕方の5時まで書類の処理に取り組み、朝食と昼食もこの執務室でとりました。
皇帝にとっては、ここが個人的空間である居間でもあったので、家族のポートレートが飾られています。
部屋着姿で、長い髪を解いて胸元で結んでいる絵は、とりわけ皇帝のお気に入りの絵だったといいます。
美しい肖像画ですが、少し深読みをする必要があります。
19世紀頃までのキリスト教の影響下では、長い髪は女性の罪の象徴とされたといいます。そのため、女性が人前で髪をほどくことはあり得ず、寝室でのみ、その豊かな髪を開放することが許されていました。ほどかれた髪は、現在よりも、セックスアピールとして受け止められていたようです。
この二点のプライベートな絵を執務室に飾り付けることによって、皇帝はシシイに対する愛を思い起こしていたのでしょうね。
皇帝の寝室
持ち運び可能なベッドをはじめ、簡素な家具が置かれています。
フランツ・ヨーゼフの大サロン
このサロンでは、身内の来訪者をここで迎えましたが、エリーザベト皇妃の部屋と続いており、皇妃の死亡以後は使われませんでした。
エリーザベト皇妃の居間兼寝室
この部屋は、マリア・テレジアの時代にはロココ様式で内装されていましたが、エリーザベト皇妃のためネオロココ様式に乾燥されました。
皇妃の化粧及び体操室
エリーザベト皇妃が日常生活の大半を過ごした場所です。
室内には、木製の体操器具が置かれており、大サロンへの出入り口の上には吊り輪が取り付けられています。皇妃のためには、もっと大きな体操室も設けられていましたが、今は無くなっています。
エリーザベト皇妃のトイレ
水洗トイレになっています。
皇妃の衣装室
画家ベルグルが、マリア・テレジアの委託で風景がを描いています。
エリーザベトの大サロン
エリーザベトの小サロン
大きな控えの間
赤いサロン(プーシェの部屋)
これらの部屋は、アレクサンドル皇帝の部屋とも呼ばれます。
名前は、ロシアの皇帝アレクサンドル1世が1815年のウィーン会議中にこれらの部屋で過ごしたことに由来します。
アレクサンドル・アパトメントと呼ばれる一連の部屋は、エリーザベトのディナールーム、応接室として使われました。
内装は18世紀のもので、19世紀の家具が置かれています。
ディナールーム
フランツ・ヨーゼフの時代のディナーセットが置かれています。
公式の会食はフランス料理が中心で、最初は必ずコンソメスープで始まり、次いでカキ料理、サラダ、魚料理、肉料理が続き、デザートとチーズが締めくくりになりました。通常7種類から11種類の料理が出たといいます。
ウィーン市内の王宮は、日常的に使われていたため、シェーンブルン宮殿と比べると、華やかさには少し劣るものの、シシィの生活の一端がうかがわれて、興味深いものでした。