【今日の 信じられない話】
爺さんは、若いころは鰹船(かつおぶね)に乗っていたそうである。
明治35年生まれの爺さんだから、若いころと言ったら大正の初めころの話である。
だから、鰹船と言っても、今良い子のみんなが想像するような鋼鉄船ではない。
和船である、つまり木造船。木造船はワシの若いころの鰹や鮪船(まぐろせん)もオール木造であったが。
爺さんの乗った鰹船はエンジンが無く櫓(ろ)でこぐヤツ。櫓って知ってるかな。
えーい、面倒くさい!下図だ
昔、徳川家康が漁村浜から久能山まで急ぎの用事で船で出かけたとき、
「もっと速度を出せないか、できぬならばぬしらの命は無いと思え。切り捨てるぞ」と言ったかどうか知らないが、
速度を出すために、当時、櫓の数7丁までしか許されていなかった船に8丁の櫓を付けて家康を運んだそうだ。
その速さにいたく感激した家康は「漁村村(ぎょそんむら)の船だけは8丁の櫓を特例として許可する」とありがたい免許を出したそうだ。
今でいうところの「特区」である。
鎖国していた日本の漁業は、遠洋航海ができないように、国外脱出できないように、櫓の数を制限していたのであろうとワシの推測。
この船で駿河湾はもとより、遠く伊豆七島までも鰹を追って航海をしていたそうだ。(伊豆七島までもは未確認)
ところがある時、時化(しけ)に、または台風に遭遇して漂流することになった。
どうするじいさん。
・・・・・・・・・・・・・・
運よく伊豆大島か新島だかに漂着して、無事、故郷の漁村村に帰ってこられたという話である。
良かったなあ爺さん。
ワシはこれを聞いて、ロビンソンクルーソーやジョン万次郎の漂流譚を思い出した。
土佐のジョン万次郎は江戸期、アメリカの捕鯨船に救助されてアメリカ国に連れていかれたのだが、そこで英語や欧米の文化を学び、日本が開国すると帰国して大いに明治政府の力になるのだが。
ワシの爺さんは運よく日本の島に漂着して良かったと思ったよ。
死んだり、アメリカに帰化したらば今のワシはいなかったと考えると
日本の損失が防げたではないか。
これでびっくりしてはいかんぞなもし。
そのあともう一度、自分の乗った船が遭難して、再び新島だか式根島だかに漂着したということだ。
人生で、2度も生きるか死ぬかの思いをした爺さんだもの、すこしくらい酒で相手にけがを負わせたり、自分が入院したりしても、ワシは許そうと思う。
この奇譚は、悪運の強い爺さんがしらふの時に聞いた話である。
爺さんはその後ニチレイと言う冷蔵会社に勤めたが、ワシの小さいころには、そこは退職して(たぶん酒でやめたのかもしれない)馬方(うまかた)になっていた。
馬方の仕事はまた書くとしよう。
、そしてコアなブログ)
祖父の仕事やエピソードを始めて知りました。父は祖父が嫌いだったのであまり多くは語らなかったし、僕もそれを知っていたから聞かなかった。何よりも前編のことを書いてもらったことが、嬉しい。父もうかばれると思う。母に読ませてやろうと思う。(このブログは世界中の人がみる可能性があるのだから)センター・ビレッジの家が懐かしいです。ありがとうございました。