MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

ヒューマン・ジャーナリストの死

2012-08-26 15:25:29 | 国際・政治

戦場ジャーナリストとして
常に覚悟はしていたに違いないが、
やはり実際に犠牲になれば割り切れない思いが残る。
今回のシリアでの日本人女性ジャーナリストの惨劇は
米国でも取り上げられ、
彼女のジャーナリストとしての魂が伝えられている。

8月24日 Time.com

The Freelancer as Martyr: Mika Yamamoto (1967-2012) 犠牲になったフリーランサー:山本美香
Possessed of an unsung bravery but pursuing a heroic mission, the Japanese journalist dies amid gunfire in Syria and exposes the dangers of the freelance war correspondent
勇敢さを内に秘め強い使命を遂行していた日本人ジャーナリストがシリアの銃撃により死亡、フリーランスの従軍記者の危険性が浮き彫りに

Mikayamamoto
By Lucy Birmingham
 似たような二つの非業な出来事がジャーナリスト山本美香さんの人生を襲う。最初の出来事は2003年4月3日に起こった。バグダッドにある Palestine Hotel の砲撃の直後に撮影されたビデオから彼女の取り乱した声が聞こえる。バグダッドは当時米軍によって支配権を握られていた。彼女の声はひどく興奮し必死の様相だったが、アメリカの戦車が18階建のビルに砲撃し、重体となった仲間たちの惨状に目が向けられていた。倒れたジャーナリストたちの救助を求めて声をあげていた。結局彼らのうち2人がその攻撃の結果死亡することになる。
2つ目のできごとは2012年8月20日に起こった。独立したフリーランスの通信社 Japan Press に所属していた山本さん(45才)と彼女の内縁の夫(原文では common-law husband)である佐藤和孝さん(56才)は日本テレビの仕事で Allepo にいたが、その時、シリア内線のさなかにある同町で起こった銃撃に巻き込まれた。「我々は迷彩服を着た兵士と遭遇しました」と佐藤さんは日本テレビに語った。「前にいた一人がヘルメットをかぶっていたのですぐに彼らが政府軍であると思いました。私は(山本さんに)逃げるように言いました。と同時に、彼らは発砲したのです」と思い起こす。「私たちはわずか2、30メートルのところにいたはずです。別々の方向に散らばりました。そのあと二度と彼女に会うことはできませんでした。それから私は病院に行くように言われ彼女の遺体を見つけました」反体制派勢力によってオンラインに流され、Associated Press によって報道されたビデオで、悲しみに暮れながら山本さんの遺体に語りかけている佐藤さんの姿が映し出されている。「どうして?」彼は泣きながら問いかける。「苦しかったか?頭を撃たれたのか?」彼女が頸部を撃たれていたことが後に日本の外務省当局によって確認されている。
 戦争報道は、勇敢さと虚栄に満ちた自慢話が組み合わさって桁外れなジャーナリストのヒーローを生むことがある。山本美香さんは決してそんな一人ではなかったが、内に秘めた勇気を持っていた。とはいえ、彼女には使命があった。日本と世界をつなげたいと思っていると山本さんは友人に語っている。「彼女は戦争に巻き込まれた罪のない女性や子供たちの苦しみを伝えたいと思っていました」彼女の友人で朝日新聞社の北郷美由紀さんは言う。「いつかは日本もそうなると彼女は感じていました。それはすべてつながっていると」山本さんは特に若い日本人のことを心配していた。「日本の平和な社会が第2次世界大戦の犠牲のもとに築かれたことを理解する必要があると彼女は感じていました」彼女の父、山本孝治さんはそのように言う。娘は単なる戦争ジャーナリストにとどまらない「人間ジャーナリスト(human journalist)でした」そう彼は言う。
 図々しい記者たちが行くところどこにでも山本さんは向かった。「美香さんはユニークな前線記者でした」と北郷さんは言う。「経済的な利益や認識はほとんどないにもかかわらず、彼女は命を懸けて戦争の事実を、日本と日本の若者世代に伝えようとしていました」仲間たちは何でも扱うことのできるベテランだった彼女を思い出す。「彼女は冷静で意志が強く、職務にはいつも慎重に準備をしていました」と、通信社 Asia Press で自由契約によって仕事をしている友人で紛争ジャーナリスト仲間の玉本英子さんは言う。この二人の女性はコソボ、アフガニスタン、そしてイラクの紛争の取材を通じて友人となった。玉本さんがシリア・イラク国境で取材していた7月、シリアでの仕事となるかも知れない場合に備えて防弾チョッキを入手する経路について山本さんから問い合わせの連絡を受けた。「危険すぎることを彼女に伝えませんでした」と今、彼女は後悔しながら言う。「彼女は行くべきではなかった。そのことが非常に悔やまれます」
 この二人は、危険のために大手の有名な新聞社やテレビネットワークが専従のスタッフを送りこめない戦闘地域を取材するために、これらと契約する少人数の日本人フリーランサーのメンバーである。「毎年私がサインするフリーランスの契約では、もし私が誘拐されたり殺されたりしても私の会社に責任はないことになっています。自分の遺体を日本に送り返すのは金がかかると指摘されています」と玉本さんは言う。日本のメディア支局は、日本のジャーナリスト2人がイラクで殺害された2004年以降危険な紛争地域に自社のスタッフを送り込んでいない。
 二人の女性はともに、自分たちのジャーナリストとしての功績を示したいという気持ちを抑えながらインタビューの対象により近づくためにできる限り謙虚であり続けることを望んでいた。「私たちは小さな存在であり、そんなに強くは見えません」と玉本さんは自身や山本さんを CNN や他の西側メディアの記者たちを比較しながら言う。「しかし私たちは内面的には強いのです」と付け加える。「美香さんは会社で働いていたときには美しい女性に見えました。彼女が戦争ジャーナリストであると想像できる人はいませんでした」
 2004年(正確には2003年)、山本さんと佐藤さんは、イラク戦争と負傷した市民の窮状の取材で、誉れ高い Vaughn-Uyeda memorial prize(ボーン・上田国際記念記者賞)の特別賞で評価された。「美香さんは現実を伝えるという職務を遂行したことからジャーナリストの間でも非常に尊敬されていました」と北郷さんは言う。「ただ、存命中にもっと広く彼女の名前が知られていても良かったと思います。死によって彼女が国民的著名人となったことは悲しいことです。彼女を失って心から残念に思います」

山本美香さんの人となりは
ジャーナリストの上杉隆氏が『週刊上杉隆』で語っている。
実に謙虚な女性だったようである。
彼女の死を無駄にしないためにも
平和な生活を送っている私たちが
彼女のメッセージを真摯に受け止め、
戦争の悲惨さを後世に伝えてゆかなければ
ならないと思うのである。

コメント
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