新しいできごとに対する記憶は20秒間だけしか持続しない…
そんな世界で生きる人生とはどんなものであったのか?
記憶力を失った実例として心理学領域の教科書にも紹介されていた
HM氏が12月2日死去した。
深刻な障害を持ちながら、神経科学の研究にすすんで協力し、
その発展に多大な貢献をしてきたHM氏とは
一体どのような人物であったのか?
12月6日付 asahi.com より
New York Times 紙はさらに詳しく伝えている。
H.M., an Unforgettable Amnesiac, Dies at 82
忘れることのできない記憶喪失者、HM氏、82才で死去あ
あ
あ
あ
彼は自分の名前は分かっていた。しかし彼が覚えることができたのはそれだけだった。
父親の家族がルイジアナ州 Thibodaux 出身であり、母親がアイルランド出身であることは知っていた。また、彼は 1929 年の株式市場の暴落と 1940 年代の第2次世界大戦やそのころの生活は覚えていた。
しかし彼はそれ以後のほとんどすべてを思い出すことができなかった。
1953 年、彼はてんかんを抑えるために実験的脳手術を Hartford で受け、それによって根底をくつがえす、取り返しのつかない変化が起こった。
神経学者が超記憶喪失 profound amnesia と呼んでいる症状を来たしたのだ。彼は新たな記憶を行う能力を失ってしまった。その後の 55 年間、友人と出会ったり、食事をしたり、森を歩いたりするたびごとに、彼にはそれらがまるで初めてのことのように映った。
そしてその 50 年余の間、脳科学の歴史において最も重要な患者と認知されてきた。
何百もの研究へ参加し、学習、記憶、身体的巧妙さについての生物学的考察のみならず、人間の自己認識の脆弱性についても科学者たちの理解を深める助けとなった。プライバシーを守るため世界的にはただHMの名で知られていた Henry Gustav Molaison 氏は、火曜日の夕方、5 時 5 分、コネチカット州 Windsor Locks にある老人ホームで呼吸不全で死去した。
彼の死は Massachusetts Institute of Technology(MIT)の神経科学者 Suzanne Corkin 氏によって確認された。彼女は数十年にわたって彼と緊密に研究を行ってきた。Henry Molaison 氏は享年 82 だった。集中的研究の研究対象者としての生活が始まったのは 27 才の時だったが、彼は両親と暮らした後、親戚の一人と生活し、最後には施設での暮らしとなった。
彼の記憶障害は、知能を損なうことはなく、また人格を根本的に変えることもなかった。
しかし彼は職に就くことができず、その時間を誰よりも神秘的に生きた。「色々と言われていますが、今にしてわかること、それは、HM氏が失ったものが、自己認識の重要な部分だったということです」と、Irvine にある University of California の神経科学者であり、Society for Neuroscience の会長でもある Thomas Carew 博士は言う。
神経科学が飛躍的に進歩し、学生や金が世界中の研究室にあふれ、研究者たちが強力な脳のイメージ・テクノロジーを用いた大規模な研究を推し進める現代では、20 世紀の半ばの神経科学がいかに古くさいものであったかということは容易に忘れ去られてしまう。
Molaison 氏は 9 才の時、Hartford 近郊で自転車にはねられ頭部を強く打撲したが、当時は脳を調べる手立てがなかった。
また、記憶や学習などが生物学的にどのように複雑に機能しているのかについては正確に理解されていなかった。
さらに、事故のあとこの少年がなぜ重症のけいれんに見舞われたのか、頭部への打撃がこのけいれんに何らかの関係があるのかについてさえも説明することはできなかった。自転車事故の 18 年後、Molaison 氏は Hartford Hospital の脳神経外科医 William Beecher Scoville 氏の診察室を訪れた。
Molaison 氏は頻回に意識を失い、激しいけいれん発作があり、生計を立てるための自動車修理もできなくなっていた。治療に万策尽きた後、Scoville 医師は Molaison 氏の脳から左右二ヶ所の指の形をした小部分を外科的に切除することを決断した。
あ
あ
あ
その結果、けいれんはおさまった、しかしこの手術―特に、おおよそ耳の高さで脳の深部にある領域、海馬を切除するという手技―はこの患者に大きな変化をもたらした。
事態を深刻に思った Scoville 医師は、モントリオールにある McGill University の高名な外科医、Wilder Penfield 医師に相談した。
Penfield 氏は心理学者 Brenda Milner 博士とともに二人の別の患者の記憶喪失について報告していたのだ。すぐに Milner 博士はカナダから夜行列車に乗り Hartford の Molaison 氏のもとを訪れ、彼に様々な記憶の検査を行った。
この協同作業がその後、学習と記憶に対する科学者の理解を永久に変えることにつながった。「彼はたいへん礼儀正しく、忍耐強い人間で、我々が課す作業をいつも進んで成し遂げようとしてくれました。しかし、私が部屋を訪れるたびに、これまで一度も会ったことがない相手だと思っていたようでした」と、現在、Montreal Neurological Institute と Mcgill University で認知神経科学の教授を務めている Milner 博士は最近のインタビューで言った。
当時、記憶は脳全体に広く分布し、一ヶ所の神経組織や領域に依存するものではないと、多くの科学者たちは信じていた。
手術や事故によって生じた脳の病変は、人の記憶力に変化を与えていたが、それは簡単に予見できるような状況にはなかった。
Milner 博士による研究成果の発表に対し、多くの研究者たちは、HM氏の障害は、繰り返すけいれんによる脳の全体的な障害、あるいは潜在的な損傷などの他の要因に起因しているのではないかと考えた。「すべてが手術の切除によるものであると信ずることは当時の人々にはむずかしかったのです」と、Milner 博士は言う。
それが変わり始めたのは 1962 年だった。HM氏の記憶の一部が完全に保たれていたことを示した画期的な研究を Milner 博士が発表したのである。
一連の試行の中で、彼女は Molaison 氏に、一つが他方の内側にある5角形の星型の二重の輪郭の隙間に、自身の手と図形を鏡に映しながら線を引く作業を試みてもらった。
これは彼に限らず最初からうまくやることはむずかしい作業である。HM氏がこの作業を行うたびに、この作業が彼には全く初めての経験と感じられた。
彼にはこれを以前に行ったという記憶がないのである。
しかし、練習によって彼は上達した。
「この作業を何度もやったある時、彼は私にこう言いました。『はぁ、この作業は思っていたより簡単だ』」と、Milner 博士は言う。この結果が意味するところは非常に大きかった。
脳には新しい記憶を作るために少なくとも二つのシステムが存在していることが科学者たちに明らかとなった。
一つは、陳述記憶として知られているが、名前、顔、新たな経験を記録するもので、意識的に取り出されるまでそれら情報を保存する。
このシステムは側頭葉の内側領域、特に、目下集中的研究の対象となっている海馬と呼ばれる部位に依存している。もう一つは、一般に運動学習として知られているもので、これは無意識的で、別の脳のシステムに依存している。
なぜ人は何年も経った後で自転車にまたがり、乗ることができるのか、あるいは、なぜ何年も弾いてなかったギターを手に取り、それをかき鳴らす方法をいまだに覚えているのかがこれで説明される。やがて「みんなは研究のために記憶喪失者を必要とするようになりました」と Milner 博士は言う。
そして、研究者たちは記憶のさらに別の側面を見極めようとし始めた。
彼らは、HM氏の短期記憶が良好であることに注目した。すなわち、彼の頭の中で約 20 秒間は考えを保持することができたのである。
信じがたいことだったが、脳は海馬なしでも記憶を保持していたのだ。「 Brenda Milner 氏によるHM氏の研究は近代神経科学の歴史において重大な画期的できごとの一つとなっています。この研究は、顕在記憶と潜在記憶の脳内の二つの記憶のシステムの研究への道を開き、後に続くすべて―すなわち人間の記憶とその異常の研究―の基礎を提供することになりました」」と、Columbia University の神経科学者である Erie Kandel 博士は言う。
両親の家に住み、その後 1970 年代は親戚の一人と生活しながら、Molaison 氏は買い物を手伝い、芝を刈り、落ち葉をかき集め、テレビの前でくつろいだ。
彼は最初の27年間に記憶していたことを頼りに、日常の瑣事―昼食の準備をしたり、ベッドを整えたり―に取り組みながら一日を過ごしてゆくことができた。彼はまた、彼の人生を通り過ぎてゆくすべての科学者、学生、および研究者らから、詳細については不確かだが、より大きな目的に向けて貢献していたことを、幾ばくかは感じとっていた、と Milner 博士の研究室で研究していた時に Molaison 氏と出会い、彼の死まで彼とともに仕事を続けた Corkin 博士は言う。
1980 年、54 才で老人ホームに移る時までに、アルバムのポラロイドのスナップ写真で、すべてではないが生活の一部が写し出されており、Corkin 博士のMITチームの知るところとなっていた。
HM氏は子供のころの風景を詳しく話すことはできた。Mohawk Trail へのハイキング。両親との車での長旅。自宅近くの森でのターゲット射撃。
「私たちはこれを要点記憶 gist memories と呼んでいます。彼は記憶を持っていましたが、正しい時系列でそれらを思い出すことができなかったのです。彼は体験談を話すことはできませんでした」と、Corkin 博士は言う。
それでも彼は面白いジョークを受け入れ、部屋の中のみんなと同じくらい感受性豊かで、自己を意識する存在だった。
ある日、Milner 博士、HM氏とともに会話を楽しんだある研究者は、彼女に向かって、この患者は実に面白い症例だ、と述べたことがあった。「HM氏はちょうどここに立っていたんです。そして、ちょっと顔を赤らめ、いえ真っ赤になって、自分がそれほど面白いとは思わないことをブツブツつぶやきながら立ち去ってゆきました」
彼の人生の最後の年も、Molaison 氏はいつものように研究者の訪問を受け入れようとしていた。
そして Corkin 博士は毎週彼の健康をチェックすると言い、また彼女は最後の研究プログラムを準備していたところだった。
火曜日、Molaison 氏の死の数時間後、科学者たちは彼の脳の徹底的なMRIスキャンを行うなど徹夜で作業を行った。
そのデータは、彼の側頭葉のどの領域がまだ損なわれていないか、どこが障害されているか、そして、そのパターンが彼の記憶にどのように関係しているかの情報を正確に手に入れる助けとなるのだ。Corkin 博士は、さらに、科学史のかけがえのない所産として、アインシュタインの脳が保存されているのと同じ精神で、将来の研究用に彼の脳を保存するよう手配した。
「彼は家族の一員のようでした。認識できない人と交流することは不可能だと思うわれるでしょう。しかし私は交流したのです」」と Corkin 博士は言う。
同氏は現在 "A Lifetime Without Memory" と題されたHM氏についての本を執筆中である。Molaison 氏は、自分のやり方で、頻繁に訪れる者を認知していた。彼女はこう付け加えた。「彼は私を高校時代から知っていると思いこんでいました」
Henry Gustav Molaison 氏、1926 年2月26日生まれ、遺族はいない。しかし彼は消し去ることのできない科学の遺産を残したのである。
Molaison 氏は、クロスワード・パズルやビンゴゲームを楽しみ、
テレビを見たり、世話をしてくれる人たちと交流したりすることが
大好きだったそうである。
研究材料としてその半生を捧げてきた Molaison 氏だが、
それ以外の道を選んでいたとしたら
果たしてどのように生き抜いていただろうか?
刹那刹那でしか自分を認識できず、遠い昔を除いては、
自分を振り返ることのできない 50 年余を
世界の人々のために生きてきた Molaison 氏。
側頭葉に影響を受けないすばらしい人格を
側頭葉以外の脳(前頭葉?)に持ち合わせていたに違いない。
ご冥福をお祈りする。