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MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

隠し絵の真意

2010-07-04 13:53:41 | アート・文化

今回は、
脳神経外科の医学誌 Neurosurgery に掲載された
ミケランジェロによる隠し絵についてのお話。
まず具体的な図解が載せてあった記事、
CNN.com から紹介する。

6月28日付 CNN.com

Michelangelo hid brain image in chapel, scientists say ミケランジェロが礼拝堂に脳の画像を忍ばせていた、と科学者が指摘

By Elizabeth Landau

 ミケランジェロの最も有名な作品のいくつかには、人間の脳が神の最大の創造物の一つであることを示唆する隠されたメッセージが託されている可能性がある。
 この偉大なイタリア人のルネッサンス芸術家は人間の身体をよく知るために死体を解剖していた。このためよりうまく人体を描くことができた。そして、新しい分析によると、1508年から1512年にかけて彼が描いたシスティーナ礼拝堂の天井の神の絵の中に彼は脳幹の描写を忍ばせていたという。
 Johns Hopkins University の神経外科医 Rafael Tamargo、Ian Suk 両医師は、天地創造を描いたミケランジェロの天井画 “Separation of Light From Darkness” を詳細に観察した。彼らはこの作品の中の神の頸(正確には喉)の部分に人間の脳幹が描かれていることを発見した。
 「彼は脳が重要な構造物であると認識しており、それゆえ天地創造にそれを盛り込んだのだと思います。なぜなら、脳が神によって創造された最も崇高な物の一つであると考えていたからです」と、Tamargo 氏は言う。
 脳幹は、脳から、あるいは脳へと伝達されるすべての信号が通過する脳の最も重要な部位である、Tamargo 氏は言う。

Michelangelo

 上の写真の左側、絵画の中の神の頸と実際の脳幹との比較をご覧いただきたい(左の図Aと図B)。右側では絵画上の異なる二つの光の向きに注目いただきたい(右の図Aと図Bの矢印)。これはミケランジェロでは珍しいことである。
 芸術家がより正確な作品を作り上げる目的で解剖を行うことはルネッサンス期においてはめずらしいことではなかったと、彼は言う。ミケランジェロより23才年上のレオナルド・ダ・ヴィンチも自身が行った脳の解剖を記録しており、脳幹の研究も行っていた。

Michelangelo2

 上図のGのように拡大して見てみると、ミケランジェロが描いた神の頸部は解剖学的に異常である。この画家の他の作品では図AからDに示すように、頸部の状態を彼がよく理解していたことがわかる(なお、Eはレオナルド、Fはラファエロの作品)。このことから、『単にミケランジェロの調子が悪かったのではなかった』ということがわかる、と Tamargo 氏は言う。

Creationofadam

 ミケランジェロが自身の絵に脳の解剖を忍ばせていることを指摘したのは Tamargo 氏らが最初ではない。1990年 Frank Lynn Meshberger 医師による Journal of the American Medical Association の論文では、このルネッサンスの巨匠によるシスティーナ礼拝堂のもう一つのフレスコ画 “Creation of Adam(アダムの創造)” に人間の脳が描かれていることが示唆されている。
 恐らくミケランジェロは脳の様々な構成要素の機能までは知らなかっただろうが、脳が重要な構造物であったことは理解していただろうと、Tamargo 氏は言う。
 システィーナ礼拝堂の聖餐台の上方にある “Separation of Light From Darkness” はミケランジェロの時代の人々にとってははるか高いところにあったため、脳幹を確認できるほど細部を見ることはできなかっただろうし、まだ望遠鏡もない時代である。しかし、この芸術家には、いつの日か、誰か気付かれにることが恐らくわかっていたのだろうと、Tamargo 氏は言う。
 「彼は、解剖を理解していることを人々に知らしめるために、そして恐らく、そのフレスコ画の意義を高めるために、未来に向けてそこにメッセージを残したのだと思います」と、Tamargo 氏は言う。

この記事では
ミケランジェロの目論見が今一つ理解できないので、
ハッフィントン・ポストからの記事を次に紹介する。

5月26日付 Huffingtonpost.com

Michelangel's Secret Message in the Sistine Chapel
システィーナ礼拝堂に隠されたミケランジェロのメッセージ

Michelangelo5

写真はI Suk and RJ Tamargo, (2010) Concealed neuroanatomy in Michelangelo's Separation of Light From Darkness in the Sistine Chapel, Neurosurgery 66, 851-861 より

By Douglas Fields

 17才の時、彼は教会の墓地から得た死体の解剖を始めた。1508年から1512年の間に、彼はローマのシスティーナ礼拝堂の天井に絵を描いた。並はずれた天才画家、彫刻家、建築家としてそのファーストネームで世界中に知られている Michelangelo Buonarroti は解剖学者でもあったのだが、彼の解剖のスケッチやノートのほとんどすべてが破棄されていることから詳細は謎である。
 それらが描かれて500年経った今、彼によって隠された解剖学的な図が発見されつつある。システィーナ礼拝堂の天井に描かれていながら、ローマ教皇ユリウス2世や数えきれないほど多くの宗教的礼拝者、歴史家、さらには何世紀にもわたる芸術愛好家たちの目をのがれ、神の身体の中に巧妙に仕込まれていたのである。
 以上が科学雑誌 Neurosurgery の最新号の論文にある Ian Suk、Rafael Tamargo 両氏の結論である。Suk、Tamargo 両氏はメリーランド州バルチモアにある Johns Hopkins University School of Medicine の神経解剖学のエキスパートである。
 1990年、Frank Meshberger 医師は、Journal of the American Medical Association に論文を発表し、天井の中央のパネルにある God Creating Adam の描写は間違いなく人間の脳の断面となっている解剖図であるという驚くべき発見をもってミケランジェロの表現を解析した。神が Adam に授けようとしたものは生命だけでなく、崇高な人間の知性でもあったことを示そうとしてミケランジェロが人間の脳を表した布で神を覆ったとMeshberger 氏は考察する。
 そして今回、もう一枚のパネル、Separation of Light from Darkness で、Suk、Tamargo の両氏が新たな発見をしたのである。神の胸中央を上にたどり喉の部分を形づくりながら、人間の脊髄と脳幹の正確な描写が成されていることをこの研究者たちが見出した。
 システィーナ礼拝堂の天井は、今ようやく解き明かされようとしている500年に及ぶ謎だということなのか?神の喉頭を人間の脳幹で構成することによってミケランジェロは何を言おうとしていたのだろうか?それは神への冒涜なのだろうか、それとも敬服なのだろうか?
 ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井の完成させるのに4年を要した。彼は東から西に進み、礼拝堂の入り口から始めて聖餐台の上で終えた。最後のパネルには光と闇を区別しようとしている神が描かれている。そしてこれこそが、ミケランジェロが聖餐台の直上にある神の姿の中に人間の脳幹、眼、視神経を忍ばせているとこの研究者たちが報告している作品である。
 芸術批評家や歴史家たちは、ミケランジェロによるこのパネルに見られる神の頸の描画における異様な解剖学的不整さと、この部位の不統一な照明効果に長く頭を悩ませてきた。このフレスコ画の人物は左下から対角線に沿って光が当てられているのだが、スポットライトを浴びているかのように浮かび上がった神の頸部には真っすぐやや右よりから照明が当てられている。世界的な人間の解剖学の達人であり光を巧みに操る肖像画家でもある人物による聖餐台の上方に位置する神の像を台無しにしてしまうような不手際をどう理解したらいいのだろうか?
 Suk と Tamargo の両氏は、この奇妙な甲状腺腫によって変形したように見える神の頸は失敗ではなく、むしろ隠されたメッセージであると提唱する。他のいかなる絵のどの箇所にもミケランジェロによる人間の頸の描写に解剖学的な不正確さは見られなかったと彼らは主張する。Separation of Light from Darkness に見られる神の頸の異様にでこぼこした細部を、やや下方から見た人間の脳の写真と重ね合わせたところ、神の頸部の輪郭が正確に人間の脳の外観と一致した、という事実を彼らは示した。
 この写真には他にもどこか奇妙なところがある。巻かれた筒状の布が奇妙にも神の服の中心を上方へ伸びている。生地はここに集められているが、このような箇所は他の部位には見られない。そして、この折れ返り部分は神の胴体を覆う布の自然な襞とぶつかる。実際にはこれは人間の脊髄であり、神の頸に存在する脳幹に向かって上行していると彼らは見る。神の腰の部位では神の服は奇妙に皺を作って再びねじれており、2つの眼球から出た視神経を示しているようだが、これはまさにレオナルド・ダ・ヴィンチが1487年の彼のイラストで示した通りである。ダ・ヴィンチとミケランジェロは同時代の人間であり、お互いの作品をよく知っていた。
 謎なのはこれらの神経解剖学的な絵が隠されたメッセージなのか、それとも誰かが有意義なイメージを取り出すことができるようなシスティーナ礼拝堂製ロールシャッハ・テストなのかということである。ただし、この論文の著者らは、所詮神経解剖学者である。彼らが天井に見る神経解剖は、月の表面が人間に見えるようなものに過ぎない可能性もある。
 しかし他の学者によればミケランジェロはまた天井の別の箇所に解剖学的な絵を描いているという。それは明らかに腎臓なのであるが、ミケランジェロは腎臓によく通じており、自身が腎結石だったことから彼には腎臓に対して特別興味があった。
 もし隠された絵が意図的であるとしたらそれらは何を意味するのだろうか?著者らは推測を避けているが、偉大な芸術家は単に芸術作品の中に物を再現するだけでなく、象徴的なものを通じて意味を呼び起こそうとする。Separation of Light from Darkness は、科学と宗教の間の果てしない衝突に対する芸術的な主張なのだろうか?当時は、地球が太陽の周りを回っているという理論を司祭のコペルニクスが立てたことに対し教会が糾弾した時代であったことを思い出していただきたい。科学的観察と教会の権威との間の闘争の時代であり、プロテスタントとカトリックの間の激しい論争があった時代である。
 ミケランジェロとカトリック教会との関係が緊迫していったのも不思議はない。この芸術家は元は純真な男だったが、次第に教会の贅沢と堕落を嫌うようになっていった。最高傑作の二ヶ所にミケランジェロは自身の肖像画を残したが、それらは両方とも苦悶する自分を描いている。生きたまま皮を剥がされることによって殉教する12使途の一人、聖バーソロミューの身体と、ユーディトに誘惑され斬首されたホロフェルネスの切断された頭部に、自身の顔を描いたのである。
 ミケランジェロは信心深い人間だったが、晩年、スピリチュアリズム(心霊主義)を信ずるようになり、そのために彼は教皇パウルス4世から非難された。スピリチュアリズムの基本的な信条は神への道は教会を通じてだけでなく、神との直接的な交信によって見つけることができるというものである。教皇パウルス4世は、天井画の完成から20年後にシスティーナ礼拝堂の壁に描かれたミケランジェロの Last Judgment を、イエスや彼を取り巻く人たちが教会を必要とせず直接神と通じていたことを示すことによって教会の名を汚していると解釈した。教皇はミケランジェロの恩給を差し止めこのフレスコ画の裸体にイチジクの葉を描き加えさせた。ミケランジェロの希望に従って、彼の遺体はヴァチカンの地には埋められず、フィレンチェの墓地に埋葬されている。
 おそらくシスティーナ礼拝堂の意味は、神がアダムに知性を与えているということではなく、知性と順守、そしてそれらを可能にする身体の器官を用いれば教会を必要とすることなく直接神につながることができるということであろう。推測の材料は豊富であり、新たな知見は間違いなく果てしない解釈を生むことだろう。私たちは決して真実を知ることはないかもしれないが、Separation of Light from Darkness において、ミケランジェロの最高傑作は、刺激的で神々しい作品の中で、芸術、宗教、科学、そして信仰の世界を結合させている。一方でそれらは何かを映し出す鏡のようなものなのかもしれない。

ヴァチカンン市国にあるシスティーナ礼拝堂は
教皇選挙コンクラーヴェが行われるカトリックの重要施設で
『天使と悪魔』にも登場した。
そのような施設にある天井画、しかも神の姿の中に
人体の解剖図を隠しこませるとは、なんとも図太い遊びごころ?
それとも依頼者ユリウス2世や教会に対する反抗心か?
当時の状況について知るすべもないが、
「言いなりにはならないよ」という
ミケランジェロの芸術家ならではの抵抗が
隠し絵に込められているように思うのである。
(皆さんはいかがでしょう?)。

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ゲイ・プライド

2009-06-30 21:47:52 | アート・文化

ちょうど40年前の 1969 628日、

ニューヨークの同性愛者たちの権利獲得運動の原点と

なった、ストーンウォールの暴動が起こった。

当時、同性愛者たちは、発覚すれば刑罰を受けたり、

解雇されるなど差別を受けていたが、この事件を契機に

同性愛者たちの権利獲得運動が、一気に高まることとなった。

その甲斐あって、1970年代には、同性愛者たちの

権利、自由、誇りが守られることとなったのである。

さて、人間以外でも、同性愛的行動が1,500に近い動物種で

認められるという。

動物同様、同性愛は種の存続のための行動なのか?

それとも人間に特有な逸脱した行為なのか?

動物の同性間の性行為を人間の同性愛と並べて論ずるのには

ちと無理があると思われるのだが…

ここではゲイにちなんだ話題を紹介しよう。

617日付 TIME.com より

Why Some Animals (and People) Are Gay なぜゲイの動物(そして人間)が存在するのか?

Gayanimals_4

 鳥類、爬虫類、軟体動物、そして、もちろん人類など、数百種の動物が、同性愛行為をすることは、少なくとも10年前からわかっている。しかし、その理由を確信している人はいない。所詮、同性のカップリングでは通常子孫を残すことはない(通常という言葉を用いたのは、オスの海カタツムリが他のオスとペアになるときには、パートナーの片方が都合よく性を転換し、生殖が可能となるからである)。

 一年間にわたり行われてきた Riverside にある University of California における研究は、なぜ同性間の性行為が存続してきたのかについて興味深いが相矛盾するいくつかの理論を提供している。今月6月が gay-pride month (ゲイ・プライド月間)であり、ゲイの権利運動の口火となった Stonewall の暴動からちょうど40周年に当たるが、これらの理論のすべてが同性愛者に祝福の理由を与えることにはなりそうにない。   発見の一つは、人間以外のほとんどの種において、同性愛のペアが生涯の関係となることはまれであるということだ。たとえば、一頭の魅力的なオスのボノボはコンゴの沼沢林の素敵な場所で別のオスの一頭に色目を使う時、彼らは時に接吻をし、他にも口を使って楽しいことを始めるが、

open-banana-bar の儀式に対する権利を正当化しようとして後で誰かを困らせるようなことはしない。実際、彼らはメスのボノボに容易に移ってゆく。同性間の性行為を行う動物の大部分は、異性のパートナーに出会えない時のみ行動を起こすのである。

 この研究の著者、UC Riverside の生物学部門の Nathan Bailey Marlene Zuk の両氏は、コアホウドリをはじめとするいくつかの例外を報告している。昨年、コアホウドリのハワイの群生を研究していた研究者は、すべてのつがいのほぼ3分の1にメス2羽が含まれており、それらは求愛し合うとともに子育ての責任も分担していることを発見した。(アホウドリには引越しトラックのU-Hauls がないので、レズビアンのジョークはできませんです、どうもすいませ~ん[三平風])。オスのアゴヒモ・ペンギンも、少なくとも捕らわれの状態で長期の関係を形成する。さらに、オスのオオツノヒツジは、メスがオス様の行動を体得した後だけメスにのしかかるのだ。

 これらすべてのバリアンスはどのように説明できるだろうか?Bailey Zuk の論文、および彼らの元となる資料から集めた仮説を紹介する。

1.ロッカールームの少年説

 高校でスポーツをしたことのある男性は、同性愛的ジョークやタオル合戦がサブカルチャーの基本的な部分であることを知っている。同様に、バンドウイルカは彼らの社会的関係を維持し強化するために同性間の性行為を用いる。ただし、イルカでは同性愛行為についてはるかに露骨であり、お互いにのしかかったり、(子供の耳は塞いでほしいのだが)オスイルカの部分に鼻を突っ込んだりする(きわめて恒常的に、オスイルカの性行為のおよそ半分は他のオスとの間で行われる)。ボノボの間では、同性間の性行為は社会的緊張を和らげ、和解を促進するとも考えられている。また、ガータースネイクにおいては、オスとオスとの接触は孤立したオスの体温調節を行い、それによって生き延びることを可能にしているとも考えられる。

2.去勢説

 あるオスの動物は、メスへの接触を認めない手段として他のオスにのしかかるのかもしれない。たとえば、2006年、Journal of Natural History に述べられたように、オスのフンバエは、メスとの受精のためにしばしば激しく張り合わなければならない。そのような状況では、目標とするメスへの競争において競合相手を打ち負かす最も理にかなった戦略は、その相手にのしかかり、可能な限り長くそのままに留めておくことだろう。メスのフンバエが近くに来たとき、攻撃的なオスは、支配しているオスから離れて上になっているのでメスにより速く到達できるのだ。

3.『しまった』説

 昆虫の間では、同性間の性行為は通常、人(虫?)違いの例である。たとえば、ハエのオスは別のオスのハエに求愛するが、これは性別の識別を可能にする遺伝子を欠いているからである。さらに驚くことに、オスのヒキガエルは、メスとオスの違いを見分けることができず、そのためやたらと他のオスに抱きつくが、従属的なオスは優勢なオスに対してすばやく解放を促す鳴き声を備えている。他の種では、異性愛のオスは動物的女装に身を包んだ他のずる賢い異性愛のオスにひっかかる。たとえばオスのグデア科の魚は、子を宿しているメスに見られる斑点に似せた黒い斑点を時々持つことがある。その時、支配的なオスはそれらと闘うよりむしろ求愛を行う。支配的なオスが、メスに似せた従属的なオスへの求愛にいそしんでいるあいだ、後者はメスとの交尾をこっそり済ませることができると、Bailey Zuk は書いている。私は、これを Hugh Grant 説と呼びたい。多くの女性を手に入れるのは必ずしも男らしい男性というわけではないということだ。

4.これがどのように役立つかやってみよう説

 若い動物(特に男性、人間を含めて)は時々、練習のために同性間の性行為を行うが、これによって、後に異性間の関係の準備が整った時に繁殖の成功率を高めることにつながるのかもしれない。若い時に同性の他のメンバーと交尾を試みるミバエは、試みないものよりあとでより多くの赤ちゃんミバエを持つことになっているかもしれない。

5.2プラス1

 コクヌストモドキでは、オスはごく普通に他のオスに襲いかかる。Bailey Zuk によれば、このオスのレイプの間に貯められた精子が後になって時々メスに移し換えられ、メスが子孫を残す可能性を高めるという。

 これらすべての説に共通に見られるのは、同性間の性活動が偶発的なものであるか、あるいはオスがメスに孕ませるのを助けるための風変りな遺伝的手段であるかのいずれかである。そのことはなぜ排他的なゲイやレズビアンの男女が存在することになったのかという進化上の疑問を生む。排他的なゲイやレズビアンが比較的新しい生物であるというのが一つの答えである。排他的同性愛の概念は近代以前にはほとんど存在しなかった。1世紀前でさえ、同性に魅かれる男性や女性の大部分は結婚し子を成していた。

 Bailey Zuk、さらに多くの人たちが指摘したように、比較的最近にみられる、人間における排他的同性愛の進展については十分な進化論的説明が提示されていない。1月、journal Evolution and Human Behaviorは、ある対立遺伝子が、胎児の発達段階においてアンドロジェンの効果を阻害することで同性愛になる可能性を高めるという考察を調べた論文を載せている。それらの対立遺伝子を持つことは人格に影響を及ぼす脳のある部分の男性化を阻害し、ゲイ化する、とその説は展開する。その対立遺伝子の一部しか持っていないゲイ男性の兄弟は異性愛者ではあるが、通常の男性より攻撃性が低いことがわかっている。そしてその兄弟たちは精神病理的一面を見せないため、彼らはより多くの女性を惹きつけ、多くの子供を持っている。これは刺激的な説ではあるが証明されていない。ゲイ男性の兄弟は実際には、異性愛男性の兄弟よりも多くの子供を持っていなかったのだ。

 そういうわけで、私たちは出発点に立ち戻ることになる。Stonewall 40周年(628)が近づくが、Alan Miller Satoshi Kanazawa が彼らの2007年の著書で進化心理学について問うた『なぜ美しい人々には多くの娘が生まれるのか?』という疑問も関連を持たないようだ。同性愛者をクローゼットから出てこさせ、異性愛者のふりをしなくてよくさせる彼らの解放は、はたして同性愛の目的に貢献することになるのだろうか?私たちは今後千年たっても理解できないかもしれないが、これは重大な疑問なのである。

つたない邦訳で申し訳ない…

要するに現在のところ、なぜゲイが存在するかは

わかっていないということのようだ。

ただ、自然の摂理として互いに理解を深めあうことが

今、私たちに求められているのは確かなようだ。

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『モナ・リザ』の真実

2009-05-02 00:17:40 | アート・文化

『モナリザの微笑』:ザ・タイガース(古っ!)
“君の帰りを待っていた壁に飾ったモナリザも…”
うーん、怪しい…
新型インフルのパンデミックが直前というこの時期に
のんびり美術鑑賞でもないだろうが…
またちょっとした『モナ・リザ』ブームが
巻き起こりそうなのである。
世界的名画と言われる『モナ・リザ』が
1911年にルーブル美術館から盗み出され、
2年以上行方不明となった後に発見された事件を
ご存知だろうか?
未だに謎が多く残されているこの盗難事件を
ロジャー・ドナルドソン監督が、新作で挑戦するという。
作家シーモア・ライトのノンフィクション小説
「モナ・リザが盗まれた日」(中公文庫刊)の映画化である。
(eiga.com:ウェブ魚拓)

またこの他にも『モナ・リザ』盗難事件を扱った著作が
この春出版されている(記事参照)。
絵そのものにも謎が多く隠されている『モナ・リザ』、
果たして盗難事件の真相はどうだったのだろうか…

4月26日付 TIME.COM

Art's Great Whodunit: The Mona Lisa Theft of 1911

美術界の重大ミステリー:モナ・リザ盗難事件(1911年)

Monalisa2

 大量の複製画やフランスへのパック旅行、そして『ダビンチ・コード』が登場する前の20世紀前半でも Mona Lisa(モナ・リザ)は他の絵画とは違っていた。謎めいた微笑をたたえる女性には多くのラブレターが届いたため、“彼女”の肖像画はルーブル美術館で独自のメールボックスを持つ唯一の作品となった。かつて失恋した求婚者が“彼女”の前で銃で自殺したこともあった。
 そういうわけで、“彼女”と駆け落ちしたものがいたとしても驚くことだろうか?1911年8月21日の朝、おそらく世界で最も有名な絵 Mona Lisa はルーブル美術館から盗まれた。誰が、どのようにして、なぜ、“彼女”を連れ出したのかが、この春出版された新しい二つの著作に記述されている。
一冊は R A Scotti 作Vanished Smile: The Mysterious Theft on Mona Lisa (Knopf 社, 239ページ)は事実を忠実になぞり、華美に語られている。この作品は速い展開で進み、所々で散文詩のようにも読める。もう一冊 Dorothy & Thomas Hoobler による The Crimes of Paris: A True Story of Muder, Theft, and Detection (Little, Brown 社, 376 ページ)は、20世紀前半にパリ警察が悪党や無政府主義者の世界とどのように苦闘していたかについて、職人らしい文体とスケールの大きい物語の中に、この窃盗事件を組み入れている。残念ながら、両作品の著者は、誰がこの窃盗事件の裏側にいたのかということについての全く実証されていない見解を復活させることで彼らのテクストを引き伸ばすことに決めているようだ。
 私たちが知っていることは以下の通り:月曜日の朝の早い時間、ルーブル美術館が見学者のために開館する前、警備員の隙をついてすばやく行動した泥棒によって Mona Lisa は盗まれた。この盗難事件は翌日まで発覚すらしなかった。(この絵がなくなっていることに気づいた警備員は写真撮影のために一時的にはずされたものと思っていた)。館員が事実に気づくとすぐにルーブル美術館は閉鎖された。警察がやってきて職員に質問し、犯罪と断定、当時としては最新の犯罪対策の技術だった指紋採取を行った。フランス国境は封鎖され、船舶や列車はチェックされた。9日後同美術館が再公開されたが、それまでにこの盗難事件は世界中の第1面のニュースとなった。素人探偵、風変わりな教授、透視能力者たちから情報が続々と寄せられた。この絵が掛けられていて今は空いている場所を一目見ようと数千人の人たちが行列を作った。その中には Franz Kafka がいた。彼はパリを訪れていて、当然のことながら彼の登場によって、この話は一層カフカらしい雰囲気となった。
 この盗難から約1週間が経ったころ、この犯罪についての情報に懸賞をつけていた新聞、Paris-Journal に、ある謎めいた人物が接触してきたことから、この物語は急展開を迎えた。その男性は小さな彫像を持って新聞社に現れたが、彼はそれを4年前にルーブル美術館から盗んだもののうちの一つであると主張した。その匿名の窃盗犯は Honoré Joseph Géry Pieret という名の両性愛の詐欺師であることが判明した。フランスの出版業界における現代美術をめぐる国民的論争にあって一貫して Picasso(ピカソ)の支持者であり、詩人であり、美術界の論客でもあった Guillaume Apollinaire の“秘書”をかつてつとめていたが、そしておそらく他の役割も果たしていたのであろう。まもなく Pieret は Apollinaire をこの一連の窃盗事件に巻き込んだ。警察が Apollinaire を逮捕した時、自白を迫られた彼は、Pieret が盗んだ作品を Picasso だけに売っていたことを認めた。Mona Lisa 事件の背後にあるかもしれない犯罪の輪に彼らが関係していたと考えた警察官は、尋問のため治安判事の前に Picasso を引っ張り出した。当時29才で放浪者から上級なブルジョアジーへとようやく成り上がりつつあった Picasso はこれを恐れた。彼はフランスでは外国人であり、法的な重大なトラブルがあればただちに国外に追放されるからだ。彼の罪状は真実であったため、このことは大事に至る可能性があった。4年前、盗まれた2つの彫像を彼は Pieret から買っていた。それはローマ時代のイベリア人の頭像であり、そのたくましい姿と大きな眼を、彼がちょうどとりかかろうとしていたすばらしい絵画 Les Demoiselles d'Avignon に取り入れようとしていた。そのことを法廷で否定したが、その両方の作品がルーブル美術館より盗まれたことを当時彼は九分九厘知っていた。ひょっとしたら、彼は最初から Pieret にそれらを盗ってこさせようとしていたのかも知れない。しかし、検察官は Picasso もしくは Apollinaire が、Mona Lisa はもちろん、その頭像についても彼らが盗んだとして事件を立件できず、二人とも釈放された。
 その後この事件の手がかりは途絶えてしまった。Mona Lisa はスイスあるいは南アメリカに運ばれたと伝えられた。“彼女”は Bronx のアパート、St Petersburg の個人画廊、JP Morgan のマンションの秘密の部屋にいたという噂も。しかし実際には、“彼女”はパリから出ていなかった。窃盗犯は Vincenzo Peruggia であると判明した(Hooblers 夫妻はこれを Perugia と綴っている)。彼はフランス在住のイタリアン・ハウスの塗装工であり大工であるが、1913年12月にフィレンチェで逮捕された。フィレンチェの美術商 Alfredo Geri と接触した後、その絵を持って当地に出向いていた。彼はいくらかの現金を手に入れるため、彼の質の処分の手助けを Geri に頼んでいたのだ。Geri はこれに協力し直ちにその絵が本物であることを証明するために Uffizi Gallery の責任者のもとへ持ち込んだ。Peruggia が本物を持ってきたことを確認し、彼らは彼を警察に引き渡した。
 これらすべてのエピソードはフランスにとってたいそう決まりの悪いこととなった。Peruggia がかつてルーブル美術館で働いていたことがあり、出口や逃走路を知っており、さらに Mona Lisa が展示されているガラスで囲まれた枠の作成を手伝ったことがあったことから、その運命の朝、彼はそこから“彼女”を迅速に連れ出す術を知っていたというのは事実だが、彼がフランス警察の捜査網をかいくぐっていたのは間違いない。それから彼は、自分のみすぼらしいアパートへ“彼女”を連れて帰り、Patty Hearst(パトリシア・ハースト)と同じように、暗いクローゼットの中に“彼女”を放り込んだが、まさにそこは“彼女”が2年以上にわたって留まっていた場所である。
 Peruggia がその絵を繰り返し売却しようとしていた証拠はあるが、彼が Mona Lisa を盗んだ唯一の動機は、それを栄光の中でイタリアに返すこと、そしてナポレオンによるヨーロッパ中の美術品の大量の略奪に対する復讐を行うことだったと常に主張していた。ここでひとつ問題がある。Mona Lisa は決してナポレオンの略奪品にはなかったのだ。レオナルドは1503年にフィレンチェでこの絵を描き始めたのだが13年後にフランス国王フランソワ1世の宮廷に定住することになった時、その絵をフランスに持って行ったのである。1519年にそこで彼が死去したあとこの絵は数人の手を経て、最終的には熱心だったフランソワ1世が現代の額にして約1,000万ドルでそれを購入した。
 Peruggia のこのような愛国的な動機はイタリアの報道機関が彼をヒーローに祭り上げたが、そのことでイタリアの陪審が説得されることはなく、1914年8月、彼に有罪を宣告した。彼の判決は未決拘留期間分に減じられた。結局彼はフランスにもどり、Haute-Savoir に塗装店を開業した。一方、Mona Lisa はイタリアへの凱旋旅行を続けることがフランスより許されその後帰国した。
 実際にこの絵を盗んだのが Peruggia であったことを疑うものはいないが、あの夜彼に共犯者がいたのか、あるいは彼がもっと大きな作戦のために動いていたのかについての疑問が今日まで残っている。この点において両方の著書がでたらめ話の山に突き進んでしまっているのである。
1932年、Karl Decker という名の向こう見ずなアメリカ人ジャーナリストは The Saturday Evening Post に記事を発表した。その中で彼は1914年にモロッコで、貴族出身のペテン師 Marqué Eduardo de Valfierno と会い、6人のだまされやすい百万長者に Mona Lisa の精巧な6つの贋作を売りつける計画の一環として、その窃盗に関して彼が陰で糸を引いていたという話を聞いた。6人の百万長者たちには、ちょうどルーブル美術館から盗まれたことが知れ渡っていたその絵を彼が密かに手に入れていたものと信じ込ませようとしたのだ。詐欺行為をうまく行うためには大々的に報道された実物の絵の盗難を成し遂げておく必要があった。この計画で de Valfierno は何百万ドルもの利益を上げ、Peruggia にも分け前が支払われたが、Peruggia はオリジナルの絵を売却することを考えながら手元に置いていたと de Valfierno は主張した。
 これらすべては想像するには面白いがくだらない話である。この犯罪からほぼ一世紀が経つが、その 6つの贋作はいずれも見つかっていない。De Valfierno という人物は実在していたのか、それとも雑誌の記事を売るために Decker によって作られた架空の人物だったのか?誰にもわからない。しかし、ここ数年、市販された本の著者たちは Decker の全く根も葉もない話を取り上げている。Hooblers 夫妻は最後の章で Decker の話に再び触れているが、力ない但し書きが付け加えられている。「それについての外部的立証は存在しない。しかし、この事件について書いている著者たちによってしばしば真実であるとみられてきた」と。しかし、今月彼らの本が雑誌 Vanity Fair に引用されたとき、当然のことながら、引用のほとんどを占めていたのは Decker の話であり、最後に Hoober 夫妻の肩をすくめながらのお断りが載せられていた。どうでもいいが、この数日内、Boston Herald ウェブサイトのブログはde Valfierno がその窃盗事件を陰で糸を引いていたことをHoober 夫妻の著書が“暴露”していると伝えていた。
 Scotti によるこの話の扱い方も似たようなものだ。Vanished Smile はMarqué という人物が彼の贋作を売りさばくために米国にやってくるところから始まるが、この巧妙な仕掛けは、疑うことを知らない読者に、この架空の人物が犯罪の裏にいる実在の男であるかのように思わせてしまうだろう。しかし、この Marquéという人物は最終章までに彼女の本から消えてしまう。そして最終章で Scotti は Decker の説明を提示し、なぜそれがばかげた話であるとみなされるのかについての理由を詳しく記述している。
 Scotti はある一点については正しい。窃盗事件を取り巻く大がかりな報道はレオナルドの偉大な絵画を高名という成層圏へ打ち上げる手助けとなった。「Mona Lisa はルーブル美術館に美術品を残した。“彼女”は偶像として戻ったのだ。」と彼女は書いている。「“彼女”は大衆文化の有名人として戻ったと言った方がより正しい。それは“彼女”についての自由な語り草が世界中に広がることを阻止できない存在となっている。それはこれらの本のいずれもが抵抗することのできない誘惑となっているのである」

画面の右端と左端が連続している背景、
しかもその背景にはレオナルドの空想の世界。
また顔の左右が著しく異なると言われる怪しい表情。
様々な謎が隠されたこの絵は見る者を虜に
してしまうようである。
500年以上も見る人を見つめ返してきた『モナ・リザ』、
真実を是非知りたいものである。

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Gender Gap

2008-09-11 20:51:18 | アート・文化

男と女は最大の異人種?

男と女が心底理解しあえるような日が果たして訪れるのか?

そんな不安を一層増長するような記事 ↓ 。

9月8日付 New York Times 電子版

http://www.nytimes.com/2008/09/09/science/09tier.html?_r=1&oref=slogin

As Barriers Disappear, Some Gender Gaps Widen
『障壁が消えゆく一方で、性差は広がってゆく』

男性と女性が性格検査を受けた時、古くからの Mars-Venus の定型概念の復活傾向が見られ続けている。(MrK 注釈:Mars, Venus はいずれもローマ神話に出てくる神。Mars(マーズ)は戦と農耕の神で「武勇」「男性」の象徴。Venus(ヴィーナス)は愛と美の女神、「愛」「女性」の象徴。)
平均的に女性は、より協力的で、面倒見がよく、用心深く、感情に流されやすい。
一方男性は、より競争心が強く、強情で、向こう見ず、感情的には鈍感だ。
この明らかな差異は小児期早期に出現し、決して消えることはない。

この差がどこから生ずるのかは明らかでない。
進化心理学者たちはこれらは古代の狩猟採集民から受け継がれた先天的な性格であると論じている。
一方、それぞれの性格は伝統的な社会的役割によって形成されるのであり、女性が子供の世話にかける時間が減り、外で働く時間が増えるにつれ、この性格の差異は縮まってゆくだろうと主張する別の学派の心理学者もいる。

この仮説を検証するために、いくつかの研究チームが世界中の 60 ヶ国以上で、男性、女性に受けさせた性格検査を繰り返し解析した。
進化心理学者にとって不利と思えるその結果は、性格の性差の大きさが文化ごとに異なっていたことだ。
一方、社会的役割派の心理学者にとって不利となった結果は、その性差が予想に反する方向に向かっていることだった。
男女の性格差はインドやジンバブエの様な伝統的文化圏の方がオランダや米国よりも小さいように認められた。
ボツワナの家長制氏族社会における夫と専業主婦の妻は、デンマークやフランスの勤労夫婦間より性格が近かった。
Venus と Mars が同等な権利と類似の仕事を持つようになればなるほど彼らの性格は乖離してゆくように思われる。

この結果があまりに直観とかけ離れているため、人格検査自体に異文化の問題が影響しているに違いないと主張する研究者もいる。
しかし、6大陸の男女、40,000 人からの新たなデータを解析した結果、David P Schmitt らはこの傾向が真実であると結論した。
イリノイ州 Bradley University の心理学者であり、International Sexuality Description Project の責任者である Schmitt 博士は、裕福な近代社会で男女間の外面上の障壁がなくなってゆくことによって古くからの内面の差異が増大してきていると提言する。

観察された最も大きなばらつきは男性の性格側に認められ、女性のそれには見られなかった。伝統的な農耕社会や貧しい国々の男性は、ヨーロッパや北米の最も発展した裕福な国々の男性に比べ、より用心深く不安感が強い。また自己主張せず、競争心も弱い。

この違いを説明するために、オーストリアとエストニア出身の Schmitt 博士と共同研究者たちは、より貧しい国々における生活苦に注目している。
ある人種では環境ストレスが不均衡に性に影響を与え、(たとえばオス鳥の羽飾りによる誇張のような)きらびやかな二次性徴を抑制する傾向が見られると、彼らは述べている。
そして、生物学的な性差を弱めるストレスの実例が人間にもみられるという。たとえば、男女間の平均的身長差は、貧しい国においては裕福な国におけるほど顕著ではない。それは、男児の成長が低栄養や疾病などのストレスによって極度に抑制されるからである。

もちろん性格は身長より複雑である。Schmitt 博士は、伝統的農耕社会において、性格は単に肉体的だけでなく社会的ストレスによっても影響を受けるだろうと言う。
そこにいる村人達は、現代の西洋の国々―あるいは狩猟採集民族―に比較して、より強い抑圧を受けながら彼らの性格を規則やヒエラルキー(階級制度)、あるいは性的役割に適応させなければならなかった。

一神論、農業基盤経済、および少数の人間による権力と富の独占への人類の流れは多くの意味で『不自然』であった。狩猟収集民族が比較的平等主義であった証拠を挙げながら Schmitt 博士はそう述べた。
「ある意味、現代の発展した文化は我々を狩猟収集民族のルーツに心理学的に回帰させています。それは、最終的に高度の社会政治学的男女同権を意味しますが、そこでは男女は異なる領域に興味を示す傾向にあります。伝統的な農耕社会のストレスを取り除くことで、男性には、また、より程度は小さいが女性にも、より自然な性格特性が備わってくるようになるでしょう」

この仮説に対する批判者は、性格の国際間に見られた多様性が、性格検査における質問に対する異なる文化の人たちの解釈の仕方に関係しているのではないかという点を問題にする。(この議論についての詳細は www.nytimes.com/tierneylab へ)
彼らは性格特性のより直接的な評価を見たいと思っており、これについては Schmitt 博士も同じ考えだ。
しかし、ある特性については興味深い傾向が既に報告されていると彼は言う。
競争心である。これは、男女のランナーで行われた直接的評価に基づいている。

競走はよい事例研究となる。競技を研究事例として用いる目的で、米国においては過去20年間、女性に男性と均等な機会を与えてきた。ほぼ同数の男性、女性が高校や大学のチームで、ロードレースで走っている。
NCAAによれば、女性ランナーは同額の賞金を獲得するために走り、一部リーグの大学から男性選手よりほぼ50%多い奨学金を受けてきた。

しかしこういった社会的な変化は、ミシガン州 Grand Valley State University の心理学者 Robert Deaner 氏により解析が行われたが、ランナーにおける性差が小さくなる傾向は認められなかった。
彼は、世界最高のランナーのペースに近い場合、その選手を比較的速いとして分類したのだが、Deaner 博士が、レースでそれぞれの性の上位40人を見た時、そういった比較的速いランナーは女性に比べ男性が2倍から4倍多かった。

こういった大きな性差の傾向はレースの全種目で20年間続いて見られている。高校や大学の大会、精鋭のロードレースでも通常のロードレースにおいても、である。
そしてこの結果は、男性ランナーがより厳しく訓練し、競走によって激しくやる気を駆り立てられていると報告した他の研究結果に一致している、と Deaner 博士は言う。
「この永続的な "競争心における性差" は、女性に新たな役割が与えられるにつれ性格の違いが縮小してゆくだろうと主張する社会文化的条件仮説にとって間違いなく不合理な事実と考えるべきでしょう」と彼は結論する。

もし彼の主張も Schmitt 博士の主張もともに正しいならば、男性と女性は将来、お互いをずっとよく理解できるようになることは期待しない方がよいだろう。
もし男女が平等になるにつれ性格の違いが広がるのなら混乱の度はさらに深まってゆく可能性がある。
しかしそうは言っても、Mars と Venus をサバンナに長く一緒に留め置いたのはおそらく神秘的な相手のその魅力だったのだろう。

以上の記事内容をまとめると次のようになる。

もともと男性と女性の間には大きな性格の隔たりがある。

それが種々の社会的要因により男性の"弱体化"?があり

差が縮まった時代があった。

しかし社会制度が変化し、女性の社会進出が進むなど

環境的に男女間の障壁がなくなると、

内面的な性格特性はそれぞれ本来の姿に近づいてゆく。

こうして、現代から将来にかけては、

男女間の性差は広がってゆくばかりと推察される。

MrK 個人としては、女性の社会進出により、

男性がより男性らしくなるなどという説は

とても日本人には当てはまらないと思う。

農耕民族である日本の男性は、

女性の社会進出により自身の地位保持に不安を抱いたり、

女性と対等に付き合うことの不慣れから

セクハラや差別発言で追及されたりすることなど、

そういったストレスにはめっぽう弱く、

ますます萎縮してゆくばかりではないかと心配する。

たとえばマラソン競技では、

今回の北京オリンピックでは男女とも惨敗したものの、

これまでの日本人選手の活躍を見ると、

明らかに女性で目立っている。

今回のソフトボール、野球の対照的な結果でも明らかだ。

日本においては競争心は男性より女性で勝っていると言えそうだ。

ちょっとしたことでキレてしまう男性が確実に増えている一方で、

真に男らしい男性が数を増してゆくだろうとは

とても期待できない島国・日本、なのである。

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ビミョ~語の達人

2008-04-04 21:43:11 | アート・文化

病院を訪れた今どきの若者への問診は大変だ。

「この前出した鎮痛薬で頭痛の方はどう?」

(若者)「ビミョ~」…

「夜は眠れるの?」、(若者)「ビミョ~」

「食欲はどうよ?」、(若者)「ビミョ~」

「痛いのか?痛くないのか?」、

そんな単純な質問に対して

明快な答えが返ってくることを期待していたら、

それがなんで「ビミョ~」なんだよっ!(怒)

「じゃぁ、もう薬、出さなくていいんだねっ?」、で、

(若者)「えっ?マジっすか?」…

会話にならないこんな微妙表現がまかり通るようになったのは

一体いつからのことだろう。

ま、そもそも日本語ってのが、

婉曲表現豊富な言語であるのは間違いないのだが…

断定表現を忌避する国民性が災いしてるのか。

それにしても、「……、みたいな~」とか「て、ゆうか~」などの

言い方や、断定文なのに語尾を上げる話し方など

あいまい表現がますます横行している。

お国のトップである、あのオランウータン総理が

ここんとこ毎日のように、『微妙語』を連発する時代である。

若者の使う『ビミョ~語』だけを責めることはできまい。

「つい口に出る『微妙』な日本語」の中で著者の濱田秀彦氏は

微妙語を無意識に使ってしまう危険性は

中高年ほど高いと述べている。

http://s02.megalodon.jp/2008-0404-1804-08/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080404-00000005-gen-ent
(ウェブ魚拓、YAHOO! JAPAN ニュース 日刊ゲンダイ)

オランウータンが最近頻回に発する、

「~すべきだと思いますよ」とか「何度も申しますように」は

遠まわしに相手をバカにしたようで、

嫌味なヤツとの印象を与えるそうだ。

あの人が発する、「ん?どうなんでしょうね?」も、

とってもいやらしく思うのだが、

長嶋さんの、「ん~、ど~なんでしょ~?」は

ちっともいやらしくないことから、

やっぱり言葉を発する人間の問題かぁ。

その他、「~ってものはだね」、「オレの若い頃は…」など

説教臭い『高飛車系』も敬遠されるのは当然だろう。

MrK 的にたまらんのは、「要は~」。

一回だけの使用なら納得もするが、

しつこいくらい「要は~」を連発するヤツ。

ちっとも要約になってないよ。

濱田氏によれば、むしろ話をまとめる能力のない人ほど

使いたがり、的外れなことを言うタイプが多いそうだ。

あと、「~って話なんですよね」できっちり話を締めた気になってる

尊大なやつ。

話にオチがなく、収拾がつかなくなった時に用いる常套句。

そのほかに、こんなのもどうよ。

いよいよ昨夜から始まった、『渡る世間は鬼ばかり』。

この中でしか聞くことのできない、

「~って道理はないでしょう」(笑)。

昨夜の2時間スペシャルでも、早速連発しており、

その回数を数えるのは大いに楽しかった(爆笑)。

さすがに『道理』がわかってらっしゃる脚本家の大先生は

違うと感心した。

自分のしゃべりの癖ってのはなかなか自覚できないものだし

他人から注意を受けることも少ないだろう。

一方で、しっかり陰口を叩かれるのは間違いない。

反芻しながら言葉を発する習慣を身につけるよう

努力してゆきたいと思う(ムリムリッ!)。

コメント (2)
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