ほなさんの汗かき日記

かくれ肥満の解消に50歳を超えてはじめた健康徒歩ゴルフ。登場する個人名、会社名、内容はフィクションである。

忙中に閑をつくり

2009年04月12日 | 日記
個人的に自粛しなくていけない時期なのでしょ
うが、やっと休みがとれ、昼まで爆睡、その後、
河川敷の薄暮ゴルフに行きました。

広いところでストレス気分を一掃したい、散歩
がてらに歩きたいと思ったのです。

天気は快晴、半袖で十分の気温です。
歳をとると日焼け対策に年中、長袖ばかりが
必要です。厚い生地、薄い生地と、いくつか
持っていますが、スポーツブランド物は高いか
ら持っていません。ウエアまでお金が周らない
のが実情です。

今日は白の長袖ワイシャツ、綿100%の薄地の
ものにします。一応、それに綿ベストを重ね着
して、暑ければ脱ぐ作戦です。

3時に事務所前に行くと、けっこうな人数が待っ
てしました。フェアウエイもどこも緑一色なん
ですから、そりゃゴルファーも多いですよね。

すぐ前には、スリクソンのバッグのおじさん、
この人は上手そう。
その前には、30代から私ぐらいまでの5人連れの
集団。

その前は、順番でモメテいます。色黒、筋肉質で
ガタイの良いおっちゃんが、大声出しています。
言葉つきは乱暴ですが、ゴルフはかなり上手そう
でした。

ひとりで周るよりはと、前の5人組の方にお願い
して、同行させてもらうことにしました。
もちろん、すぐ前の、スリクソンさんに、
「先に行かせてもらいますがいいですか。」
と一応のおことわりをいれました。

入れてもらった5人組は、なんと歯科医の先生の
グループでした。

春らんまん

2009年04月07日 | 日記
障害者ゴルフのシュガーさんのブログに書いて
あった、障害者ゴルフの大会が、来年、四国で
開催するために、つい先日、高知黒潮カントリ
ーで関係者がラウンドされたそうです。

障害者の○村さんとショートコースを一緒にラ
ウンドしたら、○村さんが参加し同行していた
らしく、その模様を教えてくれました。
「来年だけど、ほなさんも来ない?」
と○村さんに誘われました。でも重い返事しか
できません。というのも、私の休みは、スタッ
フの最後でしかきめられないのですよ。


桜満開、春というより初夏めいた風を受け、と
てもいい気分です。
ちょっと疲れたので、休みが欲しいなぁと思う
ほなさんでした。

大願成就の死

2009年04月05日 | 日記
過日、私の父が亡くなりました。
ご多忙中にもかかわらず予期した以上の方々のご参列
いただきました。みなさまには心からお礼申し上げます。

私の父は、大正8年10月、鳴門の小さな漁村の船づくり
を生業とする家に産まれました。経歴では小学校卒業と
いうことにはなっていますが、10人もの子供を育てる
ためには、ロクに学校へ行かしてもらえず、幼少は兄弟
の子守、少し大きくなってからは船屋の手伝いばかりを
していたと申します。でもこれが当時は普通の風景でし
た。ですから、字を知らない父は、新聞を見ては、漢字
の練習を一生懸命し、小学生や中学生の私に「これであ
っているか」とよく尋ねたものです。

戦争へは二度徴収され、終戦は満州でむかえ、ソ連軍の
捕虜収容所でシベリア送りの日をまっていました。もと
もと体力のない父は、シベリアへ送られたら死んでしま
うと、死の宣告された日々だったといいます。送られる
直前、父を気の毒がってくれた中国人に助けられ、日本
に帰ってくることができました。

徳島に帰ってからは、戦後の混乱をいくつもの仕事で食
いつなぎ、親戚のおじさんの好意で、現在の地に落ち着
くことができました。土地代しか調達できなかったので
建物は夫婦の手作りになりました。母は3歳の姉の手を引
き、身重の体で手伝ったそうです。小さな店が完成した
のが1月、翌月、私はそこで産まれました。
母からは、
「こんな重いの持ったら、子が出てしまう。」
と言ったと聞きました。父は子が産まれるまでに作ら
なきゃと、必死だったそうです。この前年、一歳の長男
を肺炎で失っていたからです。

たった5坪という小さな店でも、仕入れた商品を並べる
と店いっぱいになりませんでした。
「かあちゃん、品を出した空箱を捨てるなよ。」
と父は言ったそうです。
空き箱を壁際に積み上げ、外からみると店一杯にみえる
ようにしたそうです。

それから数年後、店を建て替え、繊維の好景気の波にのり
問屋街にも卸売り店を出すなど、事業はうまくいったので
すが、無理をしすぎて体がもたないのか、私が朝目覚める
と、父は居なく、数日後、白浜温泉や別府から電話がかか
ってくることがありました。湯治専門の安い旅館からでし
た。

体が弱いから55歳で死んでしまうと常にいい、特に自分
の体を大事にする父でしたから、いくつものこだわりがあ
りました。
空気の良いところで住みたい、寿命を全うしたい、最後ま
で魚釣りがしたいというのです。

吉野川の川に近い、空気の良いところで住みたいと、3年前、
夫婦だけが住む、二部屋の小さい家に引っ越しました。
魚釣りは55歳から34年間つづけました。釣りに使う車を手
放したのは、つい先月のことです。免許の更新は、高齢に
なるにつれ成績が上がり、試験官から誉められておりまし
た。

今年2月、はじめて寝たきりとなりましたが、亡くなる前日
に2時間もの長電話をしていたほど、頭は元気でありました。

4月1日午前8時12分、妻、子供、孫に看取られながら、
九十年の生涯を自宅で閉じました。老衰による自然死で、苦
しみのない安らかな最後でありました。
最後の言葉は、はっきり聞き取れませんでしたが、確かに
「ありがとう」
でした。
大願成就の結末に、父は心から喜んでいるとことと思います。
みなさまからも父の門出を祝っていただきたく、ここに記し
ました。

最後になりましたが、みなさまのご健康をお祈り申し上げて
おります。
                  合掌