K&A

kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1

2006年09月13日 | 大森町界隈あれこれ 風景
三原通り商店街

現在、旧東海道(三原通り)が第一京浜国道とは別個に独立して存在しているのはどうしてかを追い、旧東海道の面影を辿りました。


徳川幕府時代の東海道の整備
徳川幕府時代の1601年(慶長6年)に道路網整備を行い、この時東海道の要所要所に人馬の常備を義務つけた宿駅が配置され、江戸から一番目の宿駅として品川宿が置かれ、その次の宿として神奈川宿が置かれました。その後、1615年か1627年頃川崎宿が置かれることになりました。
東海道の利用者は、京・大阪に赴く旅行者のほか、川崎大師、池上本門寺や古川薬師などの江戸近郊の名所旧跡、社寺を廻る日帰りあるいは一、二泊宿泊の旅行者も多く通行しました。

立場茶屋
品川宿と川崎宿の中間に当たる品川や大森には、立場茶屋が設けられました。当初、立場茶屋は、馬子人足の休息のために設けられましたが、旅行者の増加に伴って、これらの人びとの利用にも供されるようになり、この立場茶屋を間(あい)の宿とも呼ばれました。大森の立場は、三原通りの南約500m付近の東大森村の谷戸(やと)の立場(現在の大森中二丁目、西六丁目付近 地図参照)がありました。大田区には、このほか雑色村の花の立場(現在の六郷二丁目、仲六郷二丁目付近)の二か所の立場茶屋がありました。
 東海道
立場には、馬子人足の溜場や、旅行者の休息のための煮売茶屋がありました。後になって、歩行不能となった旅行者に、宿泊を提供する煮売茶屋がでてきたので、宿駅を保護するために煮売茶屋の旅籠行為と、立場付近の村民による馬による運送業務の禁止令がだされました。しかし、1820年頃の江戸後期には、東海道は相当数の社寺参詣者が通行して、大森の間(あい)の宿ではかなりの旅籠の類似行為が行なわれていたと見られております。
(出展 大田の史話その2 大田区史編纂委員会編集 昭和63年3月発行)

三原通りの繁華街の生い立ち
三原通り周辺の大森村は、大部分は田畑でしたが、海辺では塩も生産し、1733年(亨保18年)には海苔の生産地としての記録があります。

海苔採り
東海道利用者は、相当数の社寺参詣者も通行するようになり、川崎大師、池上本門寺や古川薬師などの江戸近郊の名所旧跡、社寺を廻る日帰りあるいは一、二泊宿泊の旅行者も増えてきました。旅行者の休息のための煮売茶屋では、名産の海苔茶漬を出す茶屋も多くありました。江戸時代の後期には、歩行不能となった旅行者に、宿泊を提供する煮売茶屋もでてきました。

旅行者の増加に伴ってこれらの人びとでとても賑わい、三原通りは人家や商家が増加してきました。三原通りの名前(石碑)は、旧東海道のうち北原、中原、南原の三つをまとめて総称したもので、現在旧東海道は美原通りと呼ばれております。
この頃の三原通りは、城南では北品川と大井三ツ又とともに大変な賑わいを見せるようになってきました。

大森村商店街の誕生
・『海苔の松尾』は1669年に創業し、御膳海苔を将軍家に献上した歴史を持ち、江戸前の大森産の海苔をつくり、三原通りに開業しました。現在まで240年に亘り、三原通りで開業(大田区大森東1-6-3)を続けている大老舗です。
・1711年頃には、谷戸(やと)の間(あい)の宿には、和中散を売る老舗の『梅木堂』が開業し、東海道沿いの大森村では和中散を売る店が3軒あったと云われております。
・1783年頃には、『麦わら細工』が、江戸中期頃から作られた麦わらを編んで作る細工もので、大林寺の12世日好により、村民の困窮を救うために始められたと云い、「海苔」、「和中散」と共に東海道の名産として有名な土産物として喜ばれたと云われております。
 麦わら細工

・1715年に、元祖甚三郎が駿府駿河の国安倍川のほとりより、三原通りに出て『駿河屋』の屋号で開業し、東海道を往来する旅人の疲れを癒す為、一辺の餅に特製のみつと黄名粉をかけ、茶を添え、旅情を慰める茶店ができました。駿河屋は、代々甚三郎という名を継いできました。しかし、明治の後期に八代目甚三郎が主に餅を扱っている事から餅甚という名に改め、現在も、和菓子店として、名代のあべ川餅をお勧めの餅菓子として営業を続けている老舗です。
・現存する三原通りの商店には、三浦屋提灯店もまた、江戸時代から続く伝統的な店です。手書きで丹念に江戸文字を書く提灯は、主に祭りや婚礼用のもの。絵馬や駒札に文字を書くこともでき、勘亭流、行書体、楷書などの文字を巧みに使い分ける仕事は、江戸時代からの流れをくむ昔懐かしい、今も昔も職人気質のお店です。

和中散(わちゅうさん)
江戸時代に、食傷の薬として有名な売薬である。時には万能薬とも宣伝されました。草創の地は近江国栗太郡六地蔵村の梅木で、東海道の草津宿に近い間の宿の地の利と、和中散の薬効から、「梅木の和中散」として諸国に流布しました。
1711年頃、大森の南原で『梅木堂』は開業して、その後、忠左衛門が譲り受け北蒲田村に移転しました。忠左右衛門の子である久三郎の代に、庭に梅木を集めて休み茶屋を開き、これが今も残る『梅屋敷』です。
麦わら細工
1783年(天明3年)大森の麦わら細工職人は、第10代徳川家冶将軍の前で麦わら細工の製作を御覧に入れました。
その後麦わら細工は、東海道土産として盛んに作られ、旅人の土産として大変好評でした。最盛期は明治時代から昭和時代の前期の頃でしたが、しかし、大森では戦後作る人が全く姿を消してしまいました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放 へ
次回 大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園 へ>
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大森町界隈あれこれ(M31) 大... | トップ | 大森町界隈あれこれ(L32) 大... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

大森町界隈あれこれ 風景」カテゴリの最新記事