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kan-haru blog 2012 諏訪神社初参り2012年
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諏訪神社の由来
諏訪神社(大田区大森西2-23-6)の由来を、過去に記載の記事(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その1、その2、その3」参照)から纏めてみます。
大田区の文化財によると創建の時代は明らかでないが、江戸期には大森村の山谷の鎮守であったとあります。
推定ですが、戦前には諏訪神社の神輿倉が第1京浜国道の現大森警察署の反対側付近にありましたので、創建時の諏訪神社は東海道の内川端縁付近に鎮座されていたものと思われます。
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諏訪神社例祭第1京浜国道際の神輿倉にて[昭和12年6月]
新編武蔵風土記稿(文化・文政期[1804年から1829年、化政文化の時期]に編まれた武蔵国の地誌)によると、諏訪社は大森村(東大森村・西大森村・北大森村)の中央にあり、除地(寺社の境内地)が二十歩で北大森村に属するとあります。
明治初年の地図で地形を見ると、内川北岸からおよそ300m北方の大森村の中心にある諏訪神社の北東の他村の、東海道の三原地区に大森神社と、大森村北の沢田地帯に浅間社があり、大森村と隣接村は一面田んぼの農村地帯で、また、海岸に近いことから大半が漁村で海苔養殖が盛んでした。
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大森村諏訪神社と近隣村の大森神社および浅間神社(まる1:大森神社、まる2:浅間神社、まる3:諏訪神社)再掲
諏訪神社の社録は1868年(明治初年)に保管者が火災に遭い、伝来の由緒は灰燼のため不明です。伝えられるところでは、徳川初期(1600年頃)の創建で昔は東海道付近にあり、後年現地に遷宮したものであると云われています。1611年(慶長16年)に完成した六郷用水が、諏訪神社境内の周囲を迂回していますので、その前後に創建地から移ったのではないかと思われます。
田んぼの中央部にある諏訪神社は、大森村中心部の内川北岸からおよそ300m北方にあって、境内は六郷用水に接して取り囲まれております。
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大森村北大森山谷の諏訪神社(現在地)再掲
田んぼの中の本殿は草創期のもので、その彫刻美は徳川芸術を語るものとして有名であったと云われています。拝殿は遷宮の折に建築したもので、1831年(天保2年)に修復を加え同時に内陣を造営したと伝えられています。拝殿の天井は極彩色の花魚獣魚を描いた一尺四方の96個の区画で造られた合天井で、すこぶる美観を呈した大和画で揮毫者は不詳であるが、徳川時代の相当名のある画家の筆であると思われます。
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戦時下[1943年頃]の諏訪神社例祭子供樽神輿)(写真の拝殿と神楽殿は戦災前の建築であり、その後修復されているが大和画が描かれている天井であるかは不明)再掲
伝説として残る諏訪神社の縁起は、その昔、波に漂い大森海岸袖ヶ浦へ着岸されたご神体を、村民が尊崇して一祠を建立したのが諏訪神社の起源であると云われております。この境内に一匹の白蛇が棲みつき、祭礼の時、氏子等多数が参社して知らずに白蛇の尾端を踏んだので、古来祭礼には必ず降雨ありと伝えられています。
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文政七甲申歳九月吉日再建と掘られた鳥居の柱)
新版大森風土記によると、境内には、数百年を経たる老松が神威を示す如く繁茂しており、1824年(文政7年)甲申歳9月吉日建立の石造り明神型の鳥居が建ち、同じく文政の銘がある算盤額が掲げられていると記述があります。鳥居は、東日本大震災前までは、関東大震災、東京大空襲の災害には損壊せず健在に存在していました。
文政七年建立の諏訪神社正門の鳥居(20100711)
境内掲示によると、創建は江戸初期ともいわれ、区内の社寺の多くが鎌倉時代を機として、その源を発している事を考えると、更に遡るものと思われる。1964年(昭和39年)には、五百年祭が盛大に執行されました。1936年(昭和11年)には村社に定められ、東京府下荏原郡大森村字山谷(東山谷[大森東2丁目]、南山谷[大森西Ⅲ丁目]、北山谷[大森西2丁目])の鎮守でありました。
御祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、大国主命の第二子であり、風水害や流行病を防ぎ、農耕および漁業の神としての信仰厚く、特に武神としての誉れ高く、はなはだ霊力強き神として、氏子の崇新の念益々厚く、神威赫々として今日に至っています。
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諏訪神社本殿
・末社
諏訪神社の末社は境内に2社があり、1社は諏訪神社本殿と並んで建立の下社があり、御祭神は八坂刀賣神(やさかとめのかみ)が祀られており、もう1社は境内の東北部に建立の稲荷神社で、御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) が祀られています。
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諏訪神社境内に鎮座する末社(左:諏訪神社本殿横に鎮座する下社、右:稲荷神社末社)
3社目の境内外末社は、諏訪神社南の現内川べりに建立の金山神社があり、御祭神は金山彦大神が祀られています。
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金山神社
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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(2月分掲Indexへ)
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次回 大森町界隈あれこれ 諏訪神社 東日本大震災で損傷の鳥居修復なって初午と針供養を迎えるその2
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諏訪神社の由来
諏訪神社(大田区大森西2-23-6)の由来を、過去に記載の記事(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その1、その2、その3」参照)から纏めてみます。
大田区の文化財によると創建の時代は明らかでないが、江戸期には大森村の山谷の鎮守であったとあります。
推定ですが、戦前には諏訪神社の神輿倉が第1京浜国道の現大森警察署の反対側付近にありましたので、創建時の諏訪神社は東海道の内川端縁付近に鎮座されていたものと思われます。
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諏訪神社例祭第1京浜国道際の神輿倉にて[昭和12年6月]
新編武蔵風土記稿(文化・文政期[1804年から1829年、化政文化の時期]に編まれた武蔵国の地誌)によると、諏訪社は大森村(東大森村・西大森村・北大森村)の中央にあり、除地(寺社の境内地)が二十歩で北大森村に属するとあります。
明治初年の地図で地形を見ると、内川北岸からおよそ300m北方の大森村の中心にある諏訪神社の北東の他村の、東海道の三原地区に大森神社と、大森村北の沢田地帯に浅間社があり、大森村と隣接村は一面田んぼの農村地帯で、また、海岸に近いことから大半が漁村で海苔養殖が盛んでした。
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大森村諏訪神社と近隣村の大森神社および浅間神社(まる1:大森神社、まる2:浅間神社、まる3:諏訪神社)再掲
諏訪神社の社録は1868年(明治初年)に保管者が火災に遭い、伝来の由緒は灰燼のため不明です。伝えられるところでは、徳川初期(1600年頃)の創建で昔は東海道付近にあり、後年現地に遷宮したものであると云われています。1611年(慶長16年)に完成した六郷用水が、諏訪神社境内の周囲を迂回していますので、その前後に創建地から移ったのではないかと思われます。
田んぼの中央部にある諏訪神社は、大森村中心部の内川北岸からおよそ300m北方にあって、境内は六郷用水に接して取り囲まれております。
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大森村北大森山谷の諏訪神社(現在地)再掲
田んぼの中の本殿は草創期のもので、その彫刻美は徳川芸術を語るものとして有名であったと云われています。拝殿は遷宮の折に建築したもので、1831年(天保2年)に修復を加え同時に内陣を造営したと伝えられています。拝殿の天井は極彩色の花魚獣魚を描いた一尺四方の96個の区画で造られた合天井で、すこぶる美観を呈した大和画で揮毫者は不詳であるが、徳川時代の相当名のある画家の筆であると思われます。
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戦時下[1943年頃]の諏訪神社例祭子供樽神輿)(写真の拝殿と神楽殿は戦災前の建築であり、その後修復されているが大和画が描かれている天井であるかは不明)再掲
伝説として残る諏訪神社の縁起は、その昔、波に漂い大森海岸袖ヶ浦へ着岸されたご神体を、村民が尊崇して一祠を建立したのが諏訪神社の起源であると云われております。この境内に一匹の白蛇が棲みつき、祭礼の時、氏子等多数が参社して知らずに白蛇の尾端を踏んだので、古来祭礼には必ず降雨ありと伝えられています。
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文政七甲申歳九月吉日再建と掘られた鳥居の柱)
新版大森風土記によると、境内には、数百年を経たる老松が神威を示す如く繁茂しており、1824年(文政7年)甲申歳9月吉日建立の石造り明神型の鳥居が建ち、同じく文政の銘がある算盤額が掲げられていると記述があります。鳥居は、東日本大震災前までは、関東大震災、東京大空襲の災害には損壊せず健在に存在していました。
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文政七年建立の諏訪神社正門の鳥居(20100711)
境内掲示によると、創建は江戸初期ともいわれ、区内の社寺の多くが鎌倉時代を機として、その源を発している事を考えると、更に遡るものと思われる。1964年(昭和39年)には、五百年祭が盛大に執行されました。1936年(昭和11年)には村社に定められ、東京府下荏原郡大森村字山谷(東山谷[大森東2丁目]、南山谷[大森西Ⅲ丁目]、北山谷[大森西2丁目])の鎮守でありました。
御祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、大国主命の第二子であり、風水害や流行病を防ぎ、農耕および漁業の神としての信仰厚く、特に武神としての誉れ高く、はなはだ霊力強き神として、氏子の崇新の念益々厚く、神威赫々として今日に至っています。
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諏訪神社本殿
・末社
諏訪神社の末社は境内に2社があり、1社は諏訪神社本殿と並んで建立の下社があり、御祭神は八坂刀賣神(やさかとめのかみ)が祀られており、もう1社は境内の東北部に建立の稲荷神社で、御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) が祀られています。
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諏訪神社境内に鎮座する末社(左:諏訪神社本殿横に鎮座する下社、右:稲荷神社末社)
3社目の境内外末社は、諏訪神社南の現内川べりに建立の金山神社があり、御祭神は金山彦大神が祀られています。
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金山神社
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