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kan-haru blog 2007
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10月10日の新田神社例大祭には、毎年古武道奉納演武が行われます。
古武道奉納演武は、立身流矢口支部他による居合、剣術、棒、半棒などが披露されるほか、手裏剣、くさり鎌や短刀、二刀流、俰などの特別な演武も披露され、また、当日は年に一度の宝物殿を公開されるとのことで見てきました。
新田神社
新田神社(大田区矢口1-21-23 地図参照)は、東京急行電鉄の蒲田駅から東急多摩川線で2駅目の武蔵新田駅を降りて商店街を多摩川方向に進むと、昔なつかしの雰囲気が漂う古いお店があり、その間の道をさらに行くと右側に鳥居が見え、正面に神明造の本殿があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/d3/777ba46a2b55fa01365e86113ea4d6db.jpg)
武蔵新田駅 昔なつかしい雰囲気のお店 武蔵新田商店街
本殿は、世界大戦により戦災で焼失し、1960年(昭和35年)に神明造にて明治神宮旧御本殿を復元して奉建しました。御祭神は、新田義興(にったよしおき)公で、創紀は1358年(正平13年)です。
本殿前の手水舎と神燈は、伊勢神宮より下付されたものです。
境内左で陳列している宝物を公開している宝物殿は、校倉(あぜくら)造にて1977年(昭和52年)に建てられたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/da/0612aff44edcf220b0ab720ba95c56c0.jpg)
新田神社 神明造の本殿 手水舎
境内に入りすぐ右側の欅の御神木は、樹齢七百年で過去に雷や戦災の被害に会い、真二つの状態になってしまったが、新緑の季節になると青々と葉を付け、参拝者にひとときの安らぎを与えております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/65/ab2983537e52499498231539ed10ea15.jpg)
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御神木の右手奥にある末社は、江戸時代の頃にこの矢口村の稲作や農業を守護するために、711年(和銅4年) 鎮座の京都の伏見稲荷大社から、その御分霊が祀られたと云われ、御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/04/280d77f30f89e9dd668e37592030d8da.jpg)
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・御塚
社殿の後ろは15メートルほどの円墳があり、『御塚』と呼ばれ、義興の遺骸を埋めた墓だとの伝承があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/84/681763c5b51c98564546586c2ad489e7.jpg)
御塚 (拡大)
・境内の石碑、狛犬
神社本殿横の「新田神君」の碑(大田区文化財)は、1746年(延享3年)に忠臣としての義興の事跡を顕彰し、松平政種が寄進したものです。
唸る狛犬は、阿像のみで吽像は失われており、造られた年代ははっきりしないが、全体の印象から江戸時代のものとみられています。伝承として恨みを持つ畠山一族の人が近づくとうなり声を上げたと言い伝えられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/dd/4db98c285b008b0fd9aff3d0b8b27468.jpg)
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・由緒
当神社の御祭神である新田義興公は、稲村ケ崎にて名剣を投じて鎌倉に攻め入り「建武中興」を成し遂げられました新田義貞公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として「義興」という名を賜り、「従五位左兵衛佐に任ぜられました。ところが足利尊氏が謀反を起こし、父義貞公亡き後、義興公はよく遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の恢復に尽力をされました。そして、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、終始一貫その忠義を尽くされましたが、1358年(正平13年)10月10日、足利基氏の執事である畠山国清、江戸遠江守らの卑怯なる謀略により、多摩川の「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げられました。
その後、義興公の怨霊が現れ悪計加担の者どもに祟りを及ぼしたり、夜々「光り物(火の玉)」が矢口付近に現われて往来の人々をも悩ますようになりました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、義興公の墳墓の前に社殿が建てられ、「新田大明神」として広く崇め奉られました。これが「新田神社」の起こりであります。
江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「縁起絵巻物」(都文化財)や「新田神君碑」 (大田区文化財)等の奉納などもありました。また、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守」を作ったり、新田神社の縁起を浄瑠璃歌舞伎の「神霊矢口渡」として脚色し、現在でもその一部分が各地の歌舞伎場などでしばしば上演されています。その後、1873(明治6年)1月に社格が「府社」に列せられ、明治42年9月には特旨を以て御祭神に「従三位」が追贈せられました。(新田神社資料より)
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10月10日の新田神社例大祭には、毎年古武道奉納演武が行われます。
古武道奉納演武は、立身流矢口支部他による居合、剣術、棒、半棒などが披露されるほか、手裏剣、くさり鎌や短刀、二刀流、俰などの特別な演武も披露され、また、当日は年に一度の宝物殿を公開されるとのことで見てきました。
新田神社
新田神社(大田区矢口1-21-23 地図参照)は、東京急行電鉄の蒲田駅から東急多摩川線で2駅目の武蔵新田駅を降りて商店街を多摩川方向に進むと、昔なつかしの雰囲気が漂う古いお店があり、その間の道をさらに行くと右側に鳥居が見え、正面に神明造の本殿があります。
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武蔵新田駅 昔なつかしい雰囲気のお店 武蔵新田商店街
本殿は、世界大戦により戦災で焼失し、1960年(昭和35年)に神明造にて明治神宮旧御本殿を復元して奉建しました。御祭神は、新田義興(にったよしおき)公で、創紀は1358年(正平13年)です。
本殿前の手水舎と神燈は、伊勢神宮より下付されたものです。
境内左で陳列している宝物を公開している宝物殿は、校倉(あぜくら)造にて1977年(昭和52年)に建てられたものです。
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新田神社 神明造の本殿 手水舎
境内に入りすぐ右側の欅の御神木は、樹齢七百年で過去に雷や戦災の被害に会い、真二つの状態になってしまったが、新緑の季節になると青々と葉を付け、参拝者にひとときの安らぎを与えております。
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御神木の右手奥にある末社は、江戸時代の頃にこの矢口村の稲作や農業を守護するために、711年(和銅4年) 鎮座の京都の伏見稲荷大社から、その御分霊が祀られたと云われ、御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。
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・御塚
社殿の後ろは15メートルほどの円墳があり、『御塚』と呼ばれ、義興の遺骸を埋めた墓だとの伝承があります。
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御塚 (拡大)
・境内の石碑、狛犬
神社本殿横の「新田神君」の碑(大田区文化財)は、1746年(延享3年)に忠臣としての義興の事跡を顕彰し、松平政種が寄進したものです。
唸る狛犬は、阿像のみで吽像は失われており、造られた年代ははっきりしないが、全体の印象から江戸時代のものとみられています。伝承として恨みを持つ畠山一族の人が近づくとうなり声を上げたと言い伝えられています。
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・由緒
当神社の御祭神である新田義興公は、稲村ケ崎にて名剣を投じて鎌倉に攻め入り「建武中興」を成し遂げられました新田義貞公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として「義興」という名を賜り、「従五位左兵衛佐に任ぜられました。ところが足利尊氏が謀反を起こし、父義貞公亡き後、義興公はよく遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の恢復に尽力をされました。そして、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、終始一貫その忠義を尽くされましたが、1358年(正平13年)10月10日、足利基氏の執事である畠山国清、江戸遠江守らの卑怯なる謀略により、多摩川の「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げられました。
その後、義興公の怨霊が現れ悪計加担の者どもに祟りを及ぼしたり、夜々「光り物(火の玉)」が矢口付近に現われて往来の人々をも悩ますようになりました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、義興公の墳墓の前に社殿が建てられ、「新田大明神」として広く崇め奉られました。これが「新田神社」の起こりであります。
江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「縁起絵巻物」(都文化財)や「新田神君碑」 (大田区文化財)等の奉納などもありました。また、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守」を作ったり、新田神社の縁起を浄瑠璃歌舞伎の「神霊矢口渡」として脚色し、現在でもその一部分が各地の歌舞伎場などでしばしば上演されています。その後、1873(明治6年)1月に社格が「府社」に列せられ、明治42年9月には特旨を以て御祭神に「従三位」が追贈せられました。(新田神社資料より)
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