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kan-haruの日記

風景・風物詩 江戸時代から続く千躰荒神祭 竃の神様として賑わう海雲寺 その2

2007年12月16日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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平蔵地蔵
境内の中央の庭に立像と二体のお地蔵様が祀られております。右側のお地蔵様が平蔵地蔵で、由来の石碑が立てられています。
菩薩のような平蔵の地蔵は、青物横丁の松並木の所に石の地蔵像を立て供養されていたが、その場所に京浜電車が開通することになり、当時の海雲寺住職横川得諄和尚が境内に移して回向しました。
平蔵地蔵尊の信仰こそ荒んだ人心を洗うものであるとの、篤信者があり賛同と援助を得たので、海雲寺並に荒神王を参詣する総ての人にお参りいただくため、本尊前庭に移し奉安することになったと由来に書かれています。

                     平蔵地蔵(右)(拡大)    平蔵地蔵の由来石碑(拡大)

平蔵地蔵の由来石碑から抜粋
江戸の末1860年頃 鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた三人連れの乞食がいた その一人平蔵は或る日 多額の金を拾ったが落とし主を探し 当然のこととして金を返し お礼の小判を断った そのことを知らされた仲間の者は金を山分けすれば三人とも乞食を止めて暮らせたのにと腹を立てて正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった これを聞いた 金の落とし主である仙台屋敷に住む 若い侍 平蔵の遺体を引きとり 青物横丁の 松並木の所に手厚く葬り そこに石の地蔵尊をたて ねんごろに供羪しつづけた
明治三十二年十月 京浜電車が開通することになったが 生憎その線路 地蔵尊の土地がかかり 時の海雲寺住職 横川得諄和尚が 菩薩のような 功徳の君子 平蔵を 長く社会の木鐸たらしめんと 願望して当寺境内に 移してもらい回向した

たまたま篤信者あり平蔵地蔵尊の信仰こそ荒んだ人心を洗う甘露の法乳であると賛同と援助を得たので海雲寺並に荒神王を参詣する総ての人にお参りいただくため本尊前庭に移し奉安することとなった ここに平蔵地蔵の由来を略記し讃仰の資とす
昭和六十一年十月吉日  龍吟山 海雲寺二十三世 如雲裕生 僅誌

千躰荒神祭の名物と露天
千躰荒神祭には、昔から商家の”かまど起こし”の縁起と結びつき、東京ではではここだけにしか売っていない縁起物のお釜おこし・荒神松・ご守護、久寿餅などの名物が出ています。
江戸庶民の味であった、豆いたや生姜糖などが最近では、あまり目にしなくなってきました。

・名物


   荒神松の店(拡大)       お釜おこしの店(拡大)       久寿餅屋(拡大)

三方荒神御尊影の祀り方
家庭の台所の清らかな場所で、神棚は目の高さよりやや上にお祀りします。御札は東向きまたは南向きに祀りますが、北向は避けます。花は榊、又は荒神松を供えます。

・露天
海雲寺周辺の境内、参道や旧東海道には、煎り銀杏・ゆで豆・唐辛子・南天の箸・乾物・暦・竹細工・植木等々珍しい露店も、数多く立ち並び、関東一円からの参拝客でごった返します。
28日の午後1時頃の参詣では、参道もそれほどの混雑ではなく、護摩の受付とお札受け所の行列はありませんでしたが、参詣者は途絶えることなく続いてました。

      乾物店              植木屋          池上通り付近の露店


             本堂参道の露店                参道付近の露店

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