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kan-haruの日記

風景・風物詩 秋の歳時記お彼岸 城下町古河の菩提樹お墓参りと周辺散策 その2

2007年10月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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古河市
古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置し、2005年9月12日に城下町である旧古河市と、総和町、三和町との1市2町の合併により誕生した、人口約15万人の都市です。
古河観光の見所としては、古河公方館跡、永井路子(作家)旧家、古河歴史博物館、鷹見泉石記念館、古河総合公園などがあり、訪問記を何れの次期かに掲載をしたいと思います。
古河総合公園には、2000本の日本一の花桃林があり、春彼岸のお墓参りに来て満開時の掲載記事(「小さな旅(12) 茨城古河 桃まつり」参照)があります。

・歴史
万葉集に詠まれてる古河は、「許我」と表記されており、奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わっていたことが伺えます。
 「逢わずして行かばおしけむ まくらがの許我(こが)こぐ船に君も逢はぬかも」
 「まくらがの 許我(こが)の渡りのからかじの音高しもな寝なへ児ゆえに」

室町時代には古河公方の本拠地として、江戸時代には下総国古河藩の城下町で日光街道古河宿の宿場町として盛えました。
古河藩第十一代藩主である土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)が、1832年に日本初の雪の結晶に関する観察図鑑「雪華図説」を出版しました。

 古河城(明治3年 武藤松庵撮影)古河歴史博物館出典  古河駅前万葉歌碑

・古河城 (wikipedia古河城)
江戸時代の曲亭馬琴作の読本南総里見八犬伝の芳流閣とは、古河城と云われているが、1873年(明治6年)廃城令によって、翌年、城は取り壊され、石垣の石をはじめ、門や櫓などの部材は、入札によって払い下げられました。古河城(古河城下模型 古河市公式ホームページ参照)跡は渡良瀬川の改修でほとんどなく、城門(市の文化財)古河城文庫蔵、乾蔵、が遺構として、移築現存しており国の登録有形文化財に指定されています。

古河城の起源は、平安時代の末期に、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされています。室町時代には、足利成氏(古河公方)が本拠とし、関東動乱の中心の一つとなりました。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備を進めました。古河藩庁が置かれて、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは、江戸城の北方の守りとしても機能しました。

城下には、日光街道の本陣がおかれ宿場町が発達するとともに、渡良瀬川による河川水運も発達して、交通・物流の要所となりました。 徳川将軍による日光社参では、岩槻城・古河城・宇都宮城に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとして重視されました。

古河城はどこにあるのかを、筑波大学地球科学系人文地理学研究グループ調査のレポート「古河市における中心市街地の変容と都市観光への取り組み」の第3図の近世古河城下町(天保期頃)地図を参照して、Google Mapの旧古河市内地図上に古河城本丸跡付近や町名をマークしてみました。

・古河宿
街道沿いの宿場は、原町、台町、一丁目、二丁目、横町と続き、延長約1.8kmほどで旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女がことのほか多い町だったと云います。
JR古河駅西口から西へ向かい県道261号線(旧日光街道)に出た、本町2丁目交差点の若野屋着物店前に「史蹟 古河城下高札場跡」碑があり、道路の反対側の北斜め向かいに「本陣跡碑」があります。逆に、道路の反対側の南斜め方向には、「御馳走番書所跡」と「古河城お茶屋口跡」があります。

      本陣跡碑           下高札場跡碑        お茶屋口跡碑

若野屋着物店前261号線を北に歩くと、信号のある十字路で、旧日光街道は261号線と別れて左折し「曲の手」です。左折した右側のお寺は、お墓参りをした神宮寺です。
この、神宮寺の道路に面した石塀内には、昔「脇本陣」だった太田屋旅館がありましたが、廃業して現在は神宮寺の境内となっております。

              「脇本陣」だった旧太田屋旅館(山田屋出典)

神宮寺の道を挟んで左斜め前には、常夜塔が上に乗っている大きな道標があり、正面に「左日光道」、右側面に「東筑波山」、左側面に「右江戸道」と刻まれております。もとは、左折した交差点のところにあったと云います。


左折した旧日光街道を100mほど歩くと十字路があり、旧日光街道は右折し「横町」です。ここには昔遊郭があったところと云われ、道の右側に「よこまち柳通り」の標識があります。横町を北に進むと、別れた261号線と合流して古河宿は終わりです。

神宮寺のお墓と石碑
神宮寺は城下町の由緒あるお寺でありますので、歴史ある石碑や著名人のお墓などがあります。
・水戸藩勤王の志士殉難の碑
神宮寺には、墓地の中央の東端に「水戸藩元治甲子之変殉難追悼碑」があります。水戸藩勤王が永井寺と正定寺の付近(旧古河市街図参照)で殉難する変がありました。


古河の社寺
旧古河市街には、30もの古河宿ゆかりの社寺があります。神宮寺からJR古河駅の間だけでも7つの社寺(菩提樹ルート地図参照)があり、秋の彼岸のお墓参りにそのうちの二寺を帰路に散策してみました。


・西行寺
神宮寺から旧日光街道(曲り手)を東に歩き、信号を渡って直進して古い家が多い筑波道を100mほど進み、鍛冶町から南下する北新町の道を歩くと左手に西行寺(浄土宗称名山 総本山:知恩院 本尊:阿弥陀如来)の山門が見えます。


・浄円寺
西行寺からさらに南へ進むと、浄円寺(真宗大谷派 本山:本願寺 本尊:阿弥陀如来立像)の山門が見えます。古河では、お寺からお寺と続いております。


浄円寺と道を挟んで小さな八幡宮が鎮座しております。八幡宮は江戸時代初期、藩主土井利勝により北新町(現本町一丁目)に移されたといわれ、今も町内の人々によって祭られています。
八幡様をお参りして、駅前通りを通って帰路につきました。


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