通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

中国駅伝

2013年01月17日 | スポーツ
「3日後の1月20日、ひろしま男子駅伝(天皇盃 全国都道府県対抗男子駅伝競走大会)があるね」

「おう。今年もゆるキャラの写真を撮ってくるぞ。そういや、今年(第18回大会)から、ユニフォームのデザインが一新されるそうじゃ」

「そこも見どころじゃね」

「ところで、中国駅伝って知っとるかいの?」

「ひろしま男子駅伝の前にあった大会じゃろ? 知っとるけど、見に行ったことはないよ」



中国駅伝(ちゅうごくえきでん)とは、かつて広島県で開催されていた長距離駅伝である。
朝日駅伝、全日本実業団駅伝と並び、日本3大駅伝のひとつであった。
1996年から始まった「ひろしま男子駅伝」の前身の大会とされている。

(「中国駅伝」ウィキペディア)




「中国駅伝は、1931年(昭和6年)から1995年(平成7年)まで、戦争による中断をはさんで、全部で62回行われた大会なんじゃ」

「歴史のある大会じゃったんじゃね」

「歴史があるといえば、今年(2013年)、第89回大会が行われた箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)は、報知新聞社(現:読売新聞社)の主催で1920年(大正9年)から始まったんじゃの」

「へー、新聞社が主催しとったんか。…ということは、中国駅伝も?」

「中国新聞社が主催したんじゃ」



発案したのは、当時の中国新聞記者藤井猪勢治である。
翌年の創刊40周年を控え、この年正月に思いついたという。

(『中国駅伝 25万キロの軌跡』中国新聞社 1995年)




「思いついたはいいけど、実際に駅伝大会を行おうとすると、いろいろクリアせにゃいけんことが多かったじゃろうね」

「今ほど、駅伝やマラソンがメジャーじゃなかったけぇの。頭を悩ませたことのひとつに、優勝チームがどのくらいの時間でゴールするか、ということがあったんじゃ」

「そうじゃね。おおまかな見当だけでもつけとかにゃいけんよ」

「そこで、1928年(昭和3年)のアムステルダム五輪の三段跳びで日本人初の金メダルを獲得した、広島県安芸郡海田市町(現:海田町)出身の織田幹雄(おだ みきお)に相談したところ…」



箱根駅伝で、早大チームは10マイル(約16キロ)を平均57分で走破している

(同上)




「これを基に、優勝タイムを6時間58分と予想したんじゃ」

「中国駅伝って、何キロあったん?」

「1931年2月11日に行われた第1回大会は、福山駅前をスタート、広島市にある中国新聞社前をゴールとする、7区間、73マイル(118.1キロメートル)のコースじゃったんよ」



初期には福山-広島間73マイル駅伝競走と呼んでいた。
中国駅伝の名称は第10回大会からである。

(同上)




「へー、マイルで表示しよったんじゃね」

「今でも、マイルで表示する大会があるよのう」

「第1回大会には、どんなチームが参加しちゃったん?」

「12チームが参加したそうじゃ。ゴールした順に紹介すると…」



1.呉オリンピア

2.広島アスレチック

3.福山師範(1932年廃校)

4.広島一中(現:国泰寺高校)

5.広島連合

6.観音青年

7.広島商

8.西条農

9.尾道中

10.松本商(現:瀬戸内高校)

11.西条郵便局

12.盈進商(現:盈進高校)




「広島連合って、暴走族のようなチーム名じゃね」

「観音青年も、今じゃったら無い名前じゃろうの」

「1位・2位になった、呉オリンピア、広島アスレチックって、どんなチームじゃったんじゃろうか?」

「呉オリンピアは呉海軍工廠を、広島アスレチックは市内の青年団を中心に編成されとったそうじゃ」



大正12年に全呉・全広島の対抗陸上が始まり、両者の対抗意識は強かった。

(同上)




「初期のころは、この2チームが競い合っとったそうじゃ」

「そういや、中国駅伝には、一般・郡市・高校と、3つなかったかいね?」

「第2回大会から、青年団(一般)と学生の2つに分かれた。郡市の部ができたのは、戦後、1954年(昭和29年)の第21回大会からじゃそうな」

「あと、世羅高校の名前がなかったけど…」

「世羅が中国駅伝に初出場したのは、1950年(昭和25年)の第17回大会。学生の部で1位、全体でも3位という記録じゃったそうな。同じ年の年末に行われた第1回高校駅伝で優勝。翌第2回も優勝して、2連覇を果たしとるんじゃの」





↓ひろしま男子駅伝については、こちら↓

天皇盃 第18回 全国都道府県対抗男子駅伝競走大会[ひろしま男子駅伝]





↓ひろしま男子駅伝についての関連記事は、こちら↓

ゆるキャラinひろしま男子駅伝

ゆるキャラinひろしま男子駅伝 2012/その1

「てっぱん」駅伝くん 幻のひろしま男子駅伝






「今日は、ひろしま男子駅伝の前身の大会・中国駅伝について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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祝 野球殿堂入り 外木場義郎氏

2013年01月13日 | スポーツ
野球殿堂入りを決める野球体育博物館の表彰委員会は11日、競技者表彰のプレーヤー表彰にプロ野球広島東洋カープの投手として先発、救援の両方で活躍した大野豊氏(57)、エキスパート表彰には完全試合を含め3度の無安打無得点試合を達成した広島の外木場義郎氏(67)を選出したと発表した。

外木場氏は68年に最優秀防御率を獲得するなど広島の低迷期を支えた。
75年には20勝で最多勝と沢村賞に輝き、広島初優勝の原動力となった。
3度のノーヒットノーラン達成は故沢村栄治氏(巨人)と並ぶ最多タイ記録。

(「大野・外木場氏が殿堂入り」中国新聞 2013年1月12日)




「外木場さんは、「記録を作った男」と言われとるんじゃの」

「ノーヒットノーランを達成されたのは知っとったけど、3回も達成されたとは知らんかったね」

「ノーヒットノーランを3回達成したのは、伝説の投手・沢村栄治(さわむら えいじ。1917年 - 1944年。元巨人軍のピッチャー)と外木場さんの2人だけ。余談じゃが、2人とも背番号が「14」なんじゃ」





「最初のノーヒットノーランは、1965年(昭和40年)10月2日、阪神甲子園球場で行われた阪神戦。この試合は、外木場さんにとってプロ2度目の先発で、プロ初勝利をあげた試合でもあったんじゃ」



ノーヒットノーランによる初勝利はNPB〔日本野球機構〕、MLB〔メジャーリーグベースボール〕を通じて史上初

(「ノーヒットノーラン達成者一覧」ウィキペディア)

(注:〔 〕内は筆者が書き加えたものです)




「ノーヒットノーランによる初勝利は、日米とも史上初という快挙じゃったんじゃね」

「この年、カープに入団したばかりの外木場さん。試合後には、「何ならもう一度やりましょうか」というコメントも残しとってんじゃ」

「おー、なんという大胆不敵な発言」



試合が終わってすぐに報道陣から「こういう記録を残した選手は短命で終わる」というようなことを言われましてね。
それで頭にきて「なんなら、もう一回やりますよ」と冗談めかして言ったら、その言葉だけが後々まで取り上げられまして。(笑)

(「カープは広島県の元気のもとだ! 元広島東洋カープ投手 外木場義郎」すこぶる夏号 -知事対談-)




「それでも、この後、ノーヒットノーランを2回も達成しとってんじゃもんね」





「2回目は、1968年(昭和43年)9月14日、旧広島市民球場で行われた大洋戦」



いや、〔三振を〕取りにいったというより、絶対に打たれないという気持ち。
そういう確信を持って投げてますから、もう変化球はなしですよ。
あの時はもう、ボールに勢いがあって手元でグーンって浮くようでしたから、みんな空振りでした。

あそこで色気を出してですよ、変化球でも投げて打たれたら後悔が残りますから。
田中さん〔田中 尊(たなか たかし)。元広島カープ捕手・コーチ〕のサインも全部真っ直ぐでしたよ。
だから相手が、こっちの気迫にのまれたところもあるんじゃないですか。

(「外木場義郎インタビュー 球場が消えても残る「偉大な記録」」『ありがとう! 栄光の広島市民球場 保存版』洋泉社 2010年10月2日)

(注:〔 〕内は筆者が書き加えたものです)




「しかもこの試合は完全試合で、セ・リーグタイ記録の1試合16奪三振も記録しとってんじゃ」

「えーっと…。ノーヒットノーランと完全試合って、どう違うんじゃったっけ?」

「ノーヒットノーランは無安打無得点試合ともいうんじゃが、相手の打者にヒットを打たれず、得点も与えなかった試合のこと。完全試合は、相手の打者を一度も塁に出さなかった試合のことなんじゃの」

「相手の打者を塁に出さないということは、ファーボールやエラーもダメということなんじゃね」

「エラーがダメということは、当然、守っとる野手にもプレッシャーがかかってくる」



そりゃもう大変だったらしいですよ。
自分のところに、来るな来るなってね。
完全試合がかかってたわけですから。
9回は、3人とも三振ですが、最後まで緊張していたと思います。

(同上)




「ちなみに、この試合での投球数は114球じゃったそうな」

「114球ということは、打者が27人じゃけぇ…。1人あたり4球くらいしか投げてない計算になるんか。すごいね」

「完璧じゃろ? この年、外木場さんは21勝を挙げ、防御率1.94で最優秀防御率のタイトルを獲得されとってんじゃ」





「そして3回目が、1972年(昭和47年)4月29日、旧広島市民球場で行われた巨人戦」



【広島3-0巨人】
高々と上がった飛球はファウルフライだった。
捕手がバックネットにへばりつくように、白球が落ちてくるのを待った。
ガッチリと捕球したと同時に広島市民球場のあちらこちらから観客がグラウンドになだれを打って下りてきた。

腕を引っ張られるわ、胴上げされそうになるわ、体中のあちらこちらは叩かれるわ…。

(「【4月29日】1972年(昭47) 伝説の右腕と2人だけ 外木場義郎3度目の大記録」日めくりプロ野球 ― スポニチ Sponichi Annex 野球)




「このころの巨人といえば、前年の1971年(昭和46年)まで7年連続で日本一のチームじゃったんじゃの」

「おー。その巨人を相手にノーヒットノーランを達成しちゃったんじゃね。すごい!」

「しかもその内容は、ファーボールが1でエラーが1、2人の走者を出しただけというものじゃったんじゃ」





「今、気がついたんじゃけど、外木場さんがノーヒットノーランを達成したのは、カープが優勝する前の話じゃね」

「ほうなんよ。カープが万年Bクラス、弱小球団じゃった時代の話なんじゃの」

「カープが初優勝した1975年(昭和50年)も、大活躍しちゃったね」

「10月15日、優勝を決めた巨人戦(後楽園球場)に先発したのも、外木場さんじゃったんじゃ」

「もちろん、この試合に勝って、勝利投手!」

「この年は20勝を挙げて最多勝、最多奪三振、最優秀投手、そして沢村賞のタイトルを獲得されたんじゃ」

「ここでも沢村栄治と縁があるんじゃね」





「今日は、野球殿堂入りを果たした元広島カープ投手・外木場義郎さんについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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ピースウォークひろしまツーデー(その15) 中央公園から緑大橋

2013年01月12日 | 見て歩き
2日目
宮島街道と商工センターから
市内の橋を巡る 20キロ

その1 中区
中央公園から緑大橋まで






「昨年(2012年)11月25日(日)は、ピースウォークひろしまツーデーの2日目「宮島街道と商工センターから市内の橋を巡る(20キロ)」に参加してきたんじゃ」

「どのへんを歩いたん?」

「次のようなコースじゃの」



中区:中央公園→元安橋→西平和大橋→緑大橋

西区:緑大橋→新己斐橋→草津橋→新八幡川橋→庚午橋→南観音橋

中区:南観音橋→空鞘橋→中央公園




「8時に中央公園をスタートして、平和記念公園、平和大通り、宮島街道を通って、商工センターにある新八幡川橋まで、西へ西へと歩く。そこから広島湾を見ながら歩いた後、太田川放水路と天満川に沿って中央公園まで戻る20キロのコースなんじゃ。1時間に5キロ歩いたとして4時間。それに休憩を入れて4時間半で完歩の予定じゃ」

「前の日(2012年11月24日)は35キロを歩いたばっかりじゃん。もうすく50歳なんじゃけぇ、ちいたぁ(=少しは)年齢を考えんさいよ」

「うーん、ちいと腰が痛いが、ま、大丈夫じゃろう」

「それで今日は?」

「今日は、中央公園(ちゅうおうこうえん)から緑大橋(みどりおおはし)までじゃ。前の日は、晴れたりくもったり小雨がパラついたりと、変な天気じゃったが、この日は、ええ天気じゃったのう」









「スタート前、沼田高校の吹奏楽部の方が演奏してくれたんじゃ」

「朝早いし、寒いしで、演奏が大変じゃったろうね」








「今日も中央公園からスタート。中央公園から出ると、左に曲がって城南通りを東へ歩く。広島県立総合体育館前交差点の地下道をくぐって、広島県立総合体育館(グリーンアリーナ)の前に出る。写真の左手前にある石積は、発掘された広島城の石垣が使われとるんじゃ」



この石積は、広島県立総合体育館建設工事の際に発掘された広島城中堀跡の石垣に使われていた石材で築いたものです。

広島県教育委員会

(案内板より)




「このあたりが、広島城の中堀(なかぼり)じゃったん?」

「ほうじゃの。今の広島城の堀が内堀(うちぼり)で、旧広島市民球場と原爆ドームの間にある相生通(あいおいどおり)が外堀(そとぼり)になるんじゃ」

「そうか。外堀(外濠)を埋め立てたところに、広島電鉄の電車を通したんじゃったね」



↓グリーンアリーナについては、こちら↓

広島県立総合体育館 グリーンアリーナから元気を発信!











「ファミリープールの横には、馬碑があるんじゃ」

「馬碑?」

「戦前、基町(もとまち)には、第5師団に属する歩兵第11連隊、砲兵隊、輜重隊(しちょうたい)、騎兵隊、幼年学校なんかがあったんじゃの」

「新島八重(にいじま やえ)が日清戦争の時、従軍看護婦として4ヶ月間働いた陸軍予備病院も、このあたりにあったんよ」



馬碑の由来

昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵舎西南太田川沿いに建立された。

昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士が犠牲になった。
その中で、馬碑は熱風を受けながらも唯一残った。

昭和五十七年、廣輜会(原隊の戦友会)により、隊跡馬碑と表示、復元された。

(略)

平成十八年
元中支派遣 第三十九師団輜重隊
 第百三十二師団輜重隊

有冨部隊戦友会




「このあたりには、輜重隊があったんじゃ」

「輜重というのは、戦争をするとき、戦争に必要な物資を運ぶ部隊のことじゃね」

「兵器や弾薬、食糧なんかじゃの。車のない時代は、重い物を大量に運ぶのに馬を使いよった。もちろん、人間が乗って戦うためにも使われたがの」

「『めんこい仔馬(こうま)』(作詞:サトウハチロー)という歌もあったよ」

「映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』(1992年)で使われとったのう」







「ファミリープールのところで左に曲がり、本川(ほんかわ。旧太田川)に沿って南に向かって歩く」







「左手に、こども文化科学館が見える」

「子どもたちが小(こ)まいころは、よう(=よく)連れて来よったね」

「迷路のようになっとる「たんけんとりで」、床が回る「くるくるステージ」、ピョン太と競争する「ピョン太とかけっこ」なんかがあるんじゃの」

「ボールキャッチャーや、かみなり遊びなんかもあるんよ」

「4階にはプラネタリウムがあるけぇ、天井が丸くなっとるんじゃ」



最近,主投影機の老朽化が深刻になり,交換部品も無い状態である。
デジタル化には数億円かかるとされ,問題となっている。

(「広島市こども文化科学館)ウィキペディア}




↓こども文化科学館については、こちら↓

広島市こども文化科学館







「相生橋の下をくぐって行くと、相生橋跡碑(左)と原爆ドームが見える」

「うーん。逆光で見えづらいね」







「元安川(もとやすがわ)の向こうに、平和の時計塔が見えるよ」

「これは1996年(平成8年)、環境省の「残したい日本の音100選」に選ばれとるんじゃ」



世界人類を象徴した直径2mの球体が、平和都市ヒロシマの市民の深い祈りの手と、苦難を超え、無限に伸びていく平和への希望を表した高さ20mの鉄塔3本に支えられています。

(「7 平和の時計塔」広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム)








「元安川に架かる元安橋を渡ると、レストハウスが見える」

「むかしは、大正屋呉服店という店じゃったんよね」

「1943年(昭和18年)末からは、広島県の燃料配給統制組合が使いよったんじゃの」

「原子爆弾が投下された日、たまたま地下に下りていた方だけが生き残られたんよ」

「この建物には37人の方が勤務されとって、そのうち8人は建物を脱出されたんじゃが、全員が死亡されたんじゃ。ちなみにここは、爆心地から170メートルという距離じゃ」



この建物は、大阪に本店を持つ大正屋呉服店が、対岸の細工町から新築移転したもので、木造家屋が主流の当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのモダンな建物でした。
1~3階はショーウィンドウのある売場で土足が可能で、屋上からは市内が一望できました。

(「17 レストハウス(元大正屋呉服店)」広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム)








「あっという間に、天満川に架かっている緑大橋に着いた」

「平和公園から緑大橋までは前回紹介しとるんで、興味のある方は、こちらをご覧ください」



ピースウォークひろしまツーデー(その5) 緑大橋から西平和大橋

ピースウォークひろしまツーデー(その6) 西平和大橋から平和公園

ピースウォークひろしまツーデー(その13) 平和公園前交差点から元安橋

ピースウォークひろしまツーデー(その14) 元安橋から中央公園






「次回は西区、緑大橋から草津橋まで を紹介する予定じゃ」





【メモ】

緑大橋通過時間/8時45分ころ
(スタートから約45分)






「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの2日目、宮島街道と商工センターから市内の橋を巡る 20キロ、中央公園から緑大橋までについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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ご当地ナンバープレートを交付 呉市制110周年記念

2013年01月10日 | 広島の話題
「呉市では市制110周年を記念して、1月7日からご当地ナンバープレートの交付を始められたそうじゃ」



呉市が昨年秋の市制110周年を記念してつくったオリジナルナンバープレートの交付が7日、市役所や市民センターで始まった。
初日は113枚を手渡した。

50~125ccのバイク限定で、排気量によって3種類ある。デザインは漫画家松本零士さんが手掛けた。
戦前は旧海軍工廠(こうしょう)、戦後は造船業で発展した市の歴史を踏まえ、船を横から見た形にした。
「大和のふるさと呉市」の文字や、人の形をしたいかりマークをあしらった。

市はオリジナルプレートの希望ナンバー登録も実施。
昨年11月に期間限定で募集したところ、319件の応募があった。

希望者には通常のプレートを交付するが、在庫は約4700枚。なくなればオリジナルプレートのみの交付となる。

(「松本零士さんのナンバー交付」中国新聞 2013年1月8日)




「オリジナルナンバープレートは、バイク限定なんじゃね」

「50ccから125ccまで、3種類のバイクのナンバープレートになるんじゃの」




排気量50cc以下
(白色プレート)


排気量が50ccを超え90cc以下
(黄色プレート)


排気量が90ccを超え125cc以下
(桃色プレート)

(呉市ホームページより)




「確かに、船を横から見た形をしとるのう」

「呉といえば、造船の街じゃもん」

「戦前は海軍工廠(かいぐんこうしょう)があって、戦艦大和もここで建造されたし、戦後は世界最大のタンカーを造った所でもあるんじゃの」

「このプレートを付けることで、呉への愛着を深めることにもなるね」

「走る広告塔にもなるじゃろうの」

「デザインをしたのは、漫画家の松本零士(まつもと れいじ)。『宇宙戦艦ヤマト』を描かれとってじゃね」

「松本零士といえば、呉市にある大和ミュージアムの名誉館長でもあるんじゃの」



(大和ミュージアムにて)
(撮影日:2010年12月5日)





ある船の艦橋に登ったとき、メーターの並び方、液晶パネルの配置が、どうも『宇宙戦艦ヤマト』を思わせる。
「似てるなあ」とつぶやいたら、隣にいた若い技師が「ヤマトを見て育ったんだからしょうがないでしょう!」と言った。
なるほど、と思った。
僕が描いた架空のデザインが現実に影響を与えることもあるのだ。

(松本零士「未来創造 - 夢の発想法」角川oneテーマ21 2010年)




「メーターといえば、松本零士の漫画に出てくるメーターや計器のことを「レイジメーター(零士メーター)」とも呼ぶそうじゃ」

「レイジメーター?」

「こんなのじゃ」




(ヤマトギャラリー零にて)
(撮影日:2011年4月16日)




「あぁ、これは見たことがあるよ。松本零士の漫画や、アニメには、必ずといっていいほど出てくるね。ところで、この中に描かれている、宇宙船みたいな形をした船は?」

「松本零士がデザインを手がけた、隅田川(すみだがわ)を遊覧する未来型新型水上バスの「ヒミコ」じゃ」



この船を運行している東京都観光汽船から依頼を受けたときに僕が考えたのは二つの視点だった。

一つはヒミコが隅田川を下っていくときの都市景観とのマッチング。
そして、もう一つは乗客から川沿いの風景がどのような視点で見えるかだ。
そこからイメージ・コンセプトとして「ティアドロップ(涙滴)」を思いついた。

(同上)




「子供たちが乗ってみたいと思ってくれる船として、デザインされとってんじゃね」

「もちろん、安全性も考えられとって、弟さんからのアドバイスで、船が揺れないようにスタビライザー(揺れを抑える装置)を取り付けられとってんじゃと」

「あの曲線がええ味出しとるよ。ガラスの曲面なんか、作るのに苦労しちゃったじゃろうね」

「飛行機の風防メーカーに頼んで作ってもろうたもんじゃそうな」





↓呉市のオリジナルナンバープレートについては、こちら↓

呉市制110周年記念ホームページ





↓大和ミュージアムについては、こちら↓

呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム オフィシャルWebサイト





↓ヤマトギャラリー零については、こちら↓

時空 松本零士MUSEUM





↓ヒミコについては、こちら↓

「ヒミコ」東京都観光汽船





↓大和、松本零士についての関連記事は、こちら↓

大和ミュージアムの正式名称は何?

松本零士の作品を展示する、呉市に作られた施設は?

夕日に眠る 戦艦大和






「今日は、呉市が市制110周年を記念して作ったオリジナルナンバープレートについて話をさせてもらいました」

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原子雲の写真 新たに2点

2013年01月08日 | 広島の話題
「昨日の中国新聞に載っとったんじゃが、原子雲(げんしぐも)を撮影した写真が2点、見つかったそうじゃ」



1945年8月6日、広島県海田市町(現海田町)から撮影された原子雲の写真が、広島市中区の本川小で見つかった。
原爆資料の収集と保存に尽くした山崎与三郎さん(1889~1976年)が49年入手し、同校へ寄贈していた。
市の原爆資料館も所蔵していない貴重な記録だ。

(以下、略)

(「原子雲 新たな写真 本川小 資料館と調査 展示へ」中国新聞 2013年1月7日)




「原子雲は、原子爆弾(以下、原爆と略す)が投下されたときにできた、いわゆるキノコ雲(キノコぐも)のことなんよ」

「今回、見つかった2枚の写真は、海田町(かいたちょう)と緑井村(みどりいむら。現:広島市安佐南区)から撮影されたもので、原爆資料館にも保存されてないものじゃそうな」

「これで、地上から撮影された原子雲の写真は21点になるんじゃね」





雲はずんずん大きく膨らんでいく。
急いで袋のチャックを開いて取り出し、ファインダーを空に向けた。
1枚、2枚…。
それでも「見つかったら銃殺もの。怖かった」。
4枚だけ撮って、ポケットにしまい込んだ。

(「カメラ少年の8・6」『街と暮らしの50年』広島市企画総務局公文書館 1996年)




「これは、深田敏夫という方が、出汐町(でしおちょう。現:南区霞一丁目)にあった、学徒動員先の陸軍兵器廠で原爆の写真を撮られた時の証言じゃ」

「「見つかったら銃殺もの」って、どういうこと?」

「戦前は、いろんなことに対して、軍の許可を得る必要があったんじゃ。たとえば、不用意に写真を撮って、その中に軍が秘密にしておきたい物が写っとったら困るじゃろ」

「こうの史代の『この世界の片隅に』でも、主人公のすずが海に浮かぶ戦艦の絵を描いとったら、憲兵に捕まったという話があったね」

「ほかにも、詳しく書かれた地図があると、「どこに、なにがある」ということが一目で分かるじゃろ」

「敵は、それを目標に攻撃してくるかも知れんけぇね」

「ほいじゃけぇ、地図は軍が検閲しとったんじゃ。それで、戦前の地図には、「陸軍運輸部検閲済」とか「要塞司令部許可済」と書かれてあったりするんじゃの」

「今回、海田で撮影された方の証言は残っとらんの?」

「この写真は、山崎与三郎(やまさき よさぶろう)さんが、古本屋を営んでいた1949年(昭和24年)、元軍事関係者から購入されたもの。この方については、「進駐軍のきびしいプレスコード(検閲)を恐れて語らないで去られた」と書き残されとるそうじゃ」

「プレスコードか…」

「敗戦後、連合国軍に占領された日本では、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に対する批判や、原爆の記事を書くと発禁処分にされる、という時代じゃたんじゃの」

「被爆者である正田篠枝(しょうだ しのえ)さんが、1946年(昭和21年)に歌集『さんげ』を出版したときも、広島刑務所の印刷部で秘密裏に印刷して出版しとってよね」





「ところで、これらの資料を本川小学校に寄贈された山崎さんって、どんな方なん?」



1889年(明治22)~1976年(昭和51)7.14。
教育者。

(略)

被爆の惨状を目のあたりにして後世へ記録と証言を残す必要性を痛感、被爆3ヵ月目にして資料の収集を決意。
初代原爆資料館長になった長岡省吾が物的資料を集めたのに対し、文献資料の収集に重点を置く。
集めた資料は私物化しない、というのが信念で、1953年(昭和28)には早くも、爆心に最も近く、自ら奉職したことのある広島市本川小学校へ資料約1000点を寄贈、また1956年(昭和31)には原爆資料館に約2500冊の原爆文献を寄贈、記念文庫を開設した。

(「山崎与三郎」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)




「被爆3ヵ月目で資料の収集を決意したって、すごいね。戦争に負けたばかりで、広島どころか、日本中が混乱しとったころじゃん」

「山崎さんは、広島電鉄家政女学校に在職中、千田町(せんだまち)で被爆されたそうじゃ」

「??? 広電って、 電車・バス会社じゃろ? なんで家政女学校なんかあるん?」

「成人男性は戦争に駆り出されてとったけぇ、女性が代わりを務めた、というわけじゃ。女学校いうても、半日勉強して、半日仕事をするというものじゃったそうな」

「なるほどね」

「女学校の校舎と寮は、現在の南区皆実町(みなみまち)にあるゆめタウン広島と、猫田記念体育館のあたりにあったそうじゃ」

「あのあたりは、爆心地から約2キロメートルくらいか」



教師1名および生徒30名が被爆死、中には業務中に死亡した生徒もいた。

(「広島電鉄家政女学校」ウィキペディア)






「今日は、新たに発見された原子雲の写真について話をさせてもらいました」

「原爆については、いろんな方が、いろんな資料や証言を残されとってじゃ。これからは、それらを洗い出して、結びつけ、発信していく必要があるんじゃ。ほいじゃあ、またの」
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