通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

しめ飾りいろいろ

2013年01月07日 | 季節の話題
「今日は、「しめ飾りいろいろ」ということで、広島市・府中町(ふちゅうちょう)・海田町(かいたちょう)で撮影した、しめ飾りを紹介しようと思う」

「しめ飾りって、なかなか飾ってないよね」

「そうでもないで。その気になってキョロキョロしよったら、飾ってある店や家が結構あった」

「むかしは車のフロントに付けよったけど、最近は付けとる車を見つける方が大変よ」

「そう言われてみりゃ、しめ飾りを付けた車は、10台も見かけんかったような気がするのう」





「今日は、しめ飾りを、関西風・関東風・リース風と3つに分けて紹介しようと思うんじゃ」

「どういう理由で分けたん?」

「写真を見てもらえば分かるんじゃが、しめ縄に裏白(ウラジロ)、ダイダイ(橙)でシンプルなものが関西風。福扇なんかが付いとって、関西風より派手なのが関東風。ほいで、その他はクリスマスリースに似た形ものが多かったけぇ、リース風ということで分けてみたんじゃ」





関西風





「このあたりは、今までふつうに目にしとったしめ飾りじゃの」





「へぇ。上の方をしばってあるんじゃね」









「ヘビがとぐろを巻いたような形に見えるのう」

「もともとこんな形なんかね? それとも、今年が巳年(みどし)じゃけぇかね?」





「ここから、下に房(ふさ)が付いたしめ飾りになるんじゃね」













関東風



「上に福扇が付いたのが関東風、…じゃと思うんじゃがの」

「関西風に比べると、やっぱり派手じゃね」











「紅白が付くと、もっと派手に見えるね」





「ここからは、タテに長いしめ飾りが続くんじゃ」

「福扇も赤色じゃね」











「おぉ、エビ(海老)まで付くか!」

「エビがありなら、タイ(鯛)もありなんじゃないかのう」





リース風



「おー、確かにクリスマスリースのようなしめ飾り。かわいいね」





「今年は巳年じゃけぇ、ヘビの飾りが付いとるんじゃの」





「鶴に」





「招き猫に」





「獅子舞(ししまい)もあるんじゃね」







「へぇ。こんなしめ飾りもあるんじゃね」

「ここからは、リースの形をしとらんしめ飾り。分類ができんけぇ、ここで紹介しとるんじゃ」













「こうやってみると、いろんな形のしめ飾りがあるもんじゃのう」

「来年は、わが家でも飾ってみようかね」





↓しめ飾りについての関連記事は、こちら↓

しめ飾り





「今日は、いろいろなしめ飾りについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新島八重と日清戦争と広島と

2013年01月06日 | 日記
「新島八重(にいじま やえ)いうたら、今年(2013年)のNHK大河ドラマ『八重の桜(やえのさくら)』の主人公じゃね」

「今日(1月6日)から放送が始まるよのう」

「戊辰戦争(ほしんせんそう。1868年~69年)を戦って、「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれたのは知っとるよ」



会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生。
戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕し、若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦した。

(「新島八重」ウィキペディア)




「スペンサー銃を持って奮戦した、と書いてあるが、この銃は重さが約4キロくらいあるそうじゃ」

「うわー。そんな銃を持って戦っちゃったんじゃね。ところで、タイトルに「新島八重と日清戦争と広島と」とあるけど、八重の役は、広島市出身の綾瀬はるか(あやせ はるか)が演じとってじゃね」

「北広島町には、「八重(やえ)」という地名があるんじゃ」

「??? うちは聞いたことがないけど?」

「中国自動車道の千代田ジャンクションから、浜田自動車道に入ったあたり、地名でいうと有田から有間あたりがそうなんじゃ」

「今は、そっちの八重じゃのうて、新島八重の話をしよるけぇね。八重は日清戦争(にっしんせんそう。1894年~95年)でも、男装して戦っちゃったん?」

「いや、日清戦争には看護婦として参加されたそうじゃ」

「看護婦?」



1894(明治27)年12月、八重は広島の地を踏む。
その年の8月、日清戦争が勃発。
広島城(広島市中区)には戦争を指揮する大本営が置かれ、宇品港からは武器や兵士が戦地へ送られた。

戦場で傷ついた兵士は、広島城の西側にあった陸軍予備病院に運ばれた。
八重はそこで4カ月間、看護婦40人を率いた。

(「八重「軍都」のナイチンゲール」中国新聞 2013年1月4日)






「ナイチンゲールといえば、敵味方の区別なくけが人を看護された方じゃのう」

「へぇ。予告編を観て、銃を手に勇ましく戦う女性、というイメージがあったけぇ、八重が看護婦というのは意外じゃったよ」

「会津藩は、戊辰戦争のうちのひとつ、会津戦争(あいづせんそう)に敗れた。これは、鶴ヶ城(つるがじょう)とも呼ばれる若松城にろう城して、政府軍と戦ったんじゃ」

「予告編で観た、八重が銃を手に戦ったというのは、この時のことなんじゃね」

「この戦いの後、八重は兄の山本覚馬(やまもと かくま)を頼って京都に行き、1876年(明治9年)、同志社英学校(現:同志社大学)を興した新島襄(にいじま じょう)と結婚するんじゃ。これは、京都で最初のキリスト教の結婚式じゃったそうな」

「このころの八重は、「美しい行いをする人」という意味で「ハンサムウーマン」と呼ばれとったんよね」

「男尊女卑(だんそんじょひ)の封建的な風潮が残っとる時代、男女平等を望む生き方は、「天下の悪妻」とも呼ばれたんじゃの」

「時代をリードする女性であったことには、変わりないよ」

「新島が亡くなったあと、八重は日本赤十字社(以下、日赤(にっせき)と略す)の正会員となって、看護の道に進むんじゃ」

「日清戦争の時は、国内で働かれとったん?」

「直接、戦地に行くことはなかったんじゃの。病院船に乗って戦地に行くようになったのは、第一次世界大戦からじゃそうな」



日清戦争において、はじめて日赤看護婦が陸海軍の病院に招集され、活躍をした。
当時のマスコミは、その壮挙を大いにたたえ、「従軍看護婦」として宣伝したため、たちまち国民にその存在を認知されることになった。

ただ、このときには従軍看護婦は内地の病院にとどまり、外地には行かなかった。
また、日清戦争後の論功行賞において、招集された日赤看護婦は叙勲の対象になったため、新しい女子の職場として,大いに看護婦の人気が高まった。

(「従軍看護婦」ウィキペディア)




「八重は、日清戦争での功績が認めらて、1896年(明治29年)に八重は勲七等宝冠章が授与された。これは皇族以外では初の受章で、八重たちの働きで、社会的地位が低かった看護婦の人気が高まったということじゃ」

「看護婦の地位向上にも貢献されとってんじゃね。そういえば、日赤(にっせき。日本赤十字社)って、いつごろできたん?」

「西南戦争(せいなんせんそう)が起こった1877年(明治10年)に設立された博愛社(はくあいしゃ)が始まり。もともと赤十字とは関係なかったんじゃが、ジュネーヴ条約に調印した翌年の1887年(明治20年)、日本赤十字社と名前を変えたんじゃの」

「赤十字といえば、「ヒロシマの恩人」と呼ばれたマルセル・ジュノーがおってよね」

「終戦直後、広島で被爆者の救護に尽力された方じゃの」



マルセル・ジュノー博士記念碑
(広島平和記念公園内)




「八重は1932年(昭和7年)に亡くなられとってじゃけぇ、昨年(2012年)は、八重の没後80周年じゃったそうな」





↓NHK大河ドラマ『八重の桜』については、こちら↓

NHK大河ドラマ「八重の桜」





↓新島八重については、こちら↓

「新島八重×同志社女子大学」同志社女子大学





↓新島八重については、こちら↓

「新島八重×同志社女子大学」同志社女子大学





↓日本赤十字社についての関連記事は、こちら↓

【日本赤十字社】寄付・献血・ボランティア|ホームページ





↓マルセル・ジュノーについての関連記事は、こちら↓

被爆直後の広島に医薬品を届けたスイス人医師は誰?





「ということで、新島八重についてはここまでなんじゃが、日清戦争と広島についてもう少し話をしときたい」

「検疫所(けんえきしょ)の話?」

「ほうじゃの。日清戦争の時、帰還兵に対して伝染病の検疫(けんえき)や消毒する施設として、広島湾にある似島(にのしま)に陸軍の検疫所を作ったんじゃ」



1895年(明治28年)日清戦争のとき、戦地から帰還した人夫が発生源とみられるコレラ病が広島市で流行したのを機に、陸軍は似島に消毒所を設置することを決定し、同年5月似島陸軍検疫所が完成した。

(「広島陸軍検疫所」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)




「1945年(昭和20年)8月、広島に原子爆弾が投下された時、たくさんの負傷者が船で似島の検疫所に運ばれたんよね」

「最初の20日間で、約1万人が収容されたといわれとるんじゃ。ほいで、亡くなった方を埋葬した場所には「千人塚(せんにんづか)」が建てられたんじゃ」





「今日から放送が始まる、NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公・新島八重について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小寒 二十四節気(その23)

2013年01月05日 | 季節の話題
「今日は、二十四節気(にじゅうしせっき)の一つ「小寒(しょうかん)」じゃの」

「ひとつ前の冬至(とうじ)は、2012年(平成24年)12月21日じゃったね」



小寒は、二十四節気の第23。
十二月節(旧暦12月1日前後約半月)。

現在広まっている定気法では太陽黄経が285度のときで1月5日ごろ。
暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。
恒気法では冬至から1/24年(約15.22日)後で1月6日ごろである。

期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大寒前日までである。

(「小寒」ウィキペディア)




「小寒から、立春(りっしゅん)の前日にあたる節分(せつぶん)までを、「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言うんじゃ」

「今日から「寒の入り」になるけぇ、「年賀」じゃのうて、「寒中見舞い」と書く。年賀状の返事を書く時は、気をつけんにゃいけんね」

「冬の寒さが1年で一番厳(きび)しゅうなるのも、この時期じゃの」

「酒や味噌を仕込んだりするんよ」

「この時期に仕込んだものを、「寒造り」とか、「寒仕込み」とか呼ぶよのう」

「高野豆腐(こうやどうふ)などの凍り豆腐、寒天(かんてん)を作るのも、この時期じゃね」

「あと、大根を干したりとかの」

「そういや、ネットでこんなのを見つけたんじゃけど」

「寒番茶(かんばんちゃ)!?」



広島では広くみなさんに楽しんでいただいております、小倉園の煎茶、特むし茶、寒番茶、玄米茶、ほうじ茶のご紹介です。
美しい緑の茶葉を摘みながら、みなさまに喜んでいただけるお茶ができるよう、一人ひとりが心を込めて作業いたしております。
季節や用途によって飲み分けていただける小倉園のお茶を、これからもご愛飲くださいませ。

寒番茶の「寒」は、暦の小寒、大寒を過ぎて摘採した茶葉で作ることからつけられました。
春一番茶摘採前に摘んだ親葉で作るお茶の葉をそのまま乾燥させて作ります。

お茶があめ色になるまで煎じて、香ばしい香りと渋みの少ない独特の甘みがあります。
ヤカンで煮出して飲んでもよし、夏には水出しして飲むと清涼感・さっぱり感が満点!
水出しすると、健康に良いとされるポリサッカライドという物質が多く抽出されます。
それぞれの味をお楽しみ下さい。

(「寒番茶」ひろしま夢ぷらざ公式・通販サイト)




「「広島では広くみなさんに楽しんでいただいております」って、わしゃ初めて聞いたが…?」

「ポリサッカライドって、なんじゃろか?」



ポリサッカライドは体内でインスリンと同じ働きをして血糖値の上昇を抑える。

(「水出し番茶の効能!」冨士茶園)




「血糖値の上昇を抑える効果があるんじゃね」

「ほかには、筋肉を強くして、体力を増強する働きもあるそうじゃ」

「体脂肪が燃焼されやすくなって、ダイエットにも効果的。こりゃ飲んでみにゃいけんね」

「ダイエットか。わしも、正月太りで付いたぜい肉をなんとかせにゃいけんのう」





「今日は、二十四節気の一つ、小寒について話をさせてもらいました」

「次の大寒(だいかん)は1月20日じゃ。ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初笑い門松2013 二葉の里 歴史の散歩道

2013年01月04日 | 季節の話題
「昨日(2013年1月3日)は、二葉の里へ初詣に行ってきたで」

「去年はストラップを買うて回ったけど、今年はふつうにお参りしたん?」

「今年は門松の写真を撮りに行ったんじゃ」

「門松か…。飾ってないところもあるよ」

「ま、行ってみにゃわからん。今回は、聖光寺(しょうこうじ)から饒津神社(にぎつじんじゃ)まで、東から西へ順番に紹介していきますけぇの」





聖光寺







「聖光寺(しょうこうじ)には、門松としめ飾りがあったんじゃ。しめ飾りの写真は撮り忘れてしもうたがの…」

「この門松は、ええお顔をしとってよ」





國前寺







「國前寺(こくぜんじ)には、門松としめ縄が飾ってあったんじゃが、こんなまん丸に切ってある竹は見たことがないのう」

「丸いところが、木目込人形(きめこみにんぎょう)みたいに見えるね」





「このしめ飾りは、南天(なんてん)の赤色がきれいじゃのう」





尾長天満宮





「尾長天満宮(おながてんまんぐう)は、こんな門松じゃった」

「……? これが、門松?」

「門松は、もともと「松飾り」いうて、門(かど)に松を飾るのが古い形なんじゃそうな。ここでは竹が主役になっとるがの」

「「門」に「松」で、「門松」か。門って、なに?」



本来日本民家でカドというのは、母屋の前の庭のことで、そこは福の神がやってくる祝祭空間と考えられていた。

(岩井宏實『民具の歳時記』河出書房新社 1994年)




「門は、正月の門松だけじゃのうて、お盆に祖先の霊を迎えるための盆棚(ぼんたな)、ほいで、五月の節句のこいのぼりなんかを飾る場所でもあったそうじゃ」

「へぇ…」

「門松は、正月に家にやってくる神様を迎え入れるための依代(よろしろ)だったそうじゃ」

「依代って?」

「依代とは、神様が依り憑く(よりつく)ための目印になるものなんじゃ。門松の場合、ここを通って家の中に入っていくんじゃそうな」

「そういや、「松の内(まつのうち)」という言葉もあるね」

「正月の門松、松飾りを飾る間のことで、元旦から7日、または15日までを言うんじゃの」





広島東照宮









「広島東照宮(ひろしまとうしょうぐう)には、ふつうの門松と、尾長天満宮と同じタイプの門松が飾ってあるんじゃね」





「遠くてよく見えんのじゃが、しめ飾りの上に福扇が飾ってあるようじゃ」





巳(み)は蛇 ○_⊃ の象形文字。
「巳月(みげつ。四月)、陽気巳(すで)に出て、
陰気巳に臧(おさ)まる」(説文)
また、
「巳は注意深く、果敢の徳あり」
(周礼)と。
つまり「巳年は心機一転、鬱積した
沈滞感を脱して、
陽気に、果敢に、かつ、注意深く、
新出発をする年」であります。

城下町広島総鎮守社
広島東照宮





鶴羽根神社






「鶴羽根神社(つるはねじんじゃ)も、尾長天満宮と同じような門松が飾ってあるね」









明星院





「明星院(みょうじょういん)には、門松もしめ飾りもなかったのう」

「ここには、九曜星吉兆表(くようせいきっきょうひょう)があるよね。うちは気になるんじゃけど」

「おう、あったで。わしゃ火曜星で大凶。おまけに、来年も計都星(けいとせい)で大凶じゃ~」

「えっと…、うちは水曜星で末吉か」





饒津神社





「饒津神社(にぎつじんじゃ)には、茅(ち)の輪くぐりがあるよね」



茅の輪くぐりとは「ちがや」でできた輪をくぐり越えて罪・過ちを除き、心身の清浄ならんことを祈願するもので本来、六月の夏越祭(なごしまつり)にこれを行うのであるが、当神社では正月初詣、特にこれを設置し、初詣参拝の皆様と共に新しい年の弥栄(いやさか)を祈願するものである。

(案内板より)




「茅の輪のくぐり方は、まず茅の輪の正面に立って、最初に左に回って、次に右に回る。ほいで、も1回左に回ってから、お参りをするんじゃの。その時、「祓(はら)え給え、清め給え、守り給え、幸(さきわ)え給え」という唱(とな)え言葉を唱えるんじゃ」

「もちろん、自分の願いを唱えてもええんよ」





金光稲荷神社



「ついでじゃけぇ、二葉山に登ってみようかの」

「どっから登ったん?」

「今回は、広島東照宮の裏手にある金光稲荷神社(きんこういなりじんじゃ)から登ってみた」





「最初は朱色の鳥居が続くんよね」





「結構、急な坂を登って行かんにゃいけん」





「奥宮じゃね」





「奥宮の大岩の上からは、広島市内を望むことができるんじゃの」

「ここから、さらに上に登ると…」





「山頂には、仏舎利塔(ぶっしゃりとう)があるんよ」









「正面に回ると…。ここにも門松があった」

「あー。これを見ると、むかしの門松ってこんな形じゃったじゃろうね、と想像できるよ」





「ご本尊の前には、鏡餅が供えてあったのう」

「二葉山(標高139メートル)の山頂からの眺めは、ええけぇね」





「右側手前には黄金山(おうごんざん。標高221.7メートル)。左側にあるのが安芸区矢野にある絵下山(えげさん。標高593メートル)で、そのむこうには呉市(くれし)の灰ケ峰(はいがみね。標高737メートル)が見えるんじゃの」





「マツダスタジアム(広島市民球場)も見える」





「左側のお椀を伏せたような島が峠島(とうげじま)、右側にあるのが似島(にのしま)にある安芸小富士(あきのこふじ。標高278メートル)。ほいで、中央の左よりに見える、木がたくさん生えとるところが比治山(ひじやま。標高約70メートル)じゃ」





「今日は、門松について話をさせてもらいました」

「門松についての話題が少のうて、すいませんでした。ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中島みゆき『帰省』

2013年01月03日 | 日記
「わしの日曜日の朝の楽しみの一つが、NHKラジオ第一の「なぎら健壱(なぎら けんいち)の あのころのフォークが聞きたい」を聞くことなんじゃ」



♪ギターにすっかり魂 抜かれてさ
それからオイラ フォークシンガー




「で、前回(2012年12月30日放送分)かかった曲はなんじゃったん?」

「中島みゆきの『帰省』」

「帰省? 聞いたことがないタイトルじゃね」

「もともと、由紀さおり(ゆき さおり)と安田祥子(やすだ さちこ)に提供された曲で、『歌・うた・唄Vol.5 あしたの想い出』(2000年)というアルバムに収録されとるんじゃ。番組ではこちらがかかっとって、聴きよったら、涙がポロリんとこぼれてしもうたのう」

「由紀さんは、紅白歌合戦でも『夜明けのスキャット』をしっとりと歌われとったね」

「中島みゆきの歌は、アルバム『短篇集』(2000年)にセルフカバーの形で収録されとるんじゃ」



↓『帰省』の歌詞については、こちら↓

(「中島みゆき 帰省 歌詞」J-Lyric.net)



「都会へ出てきて、「まるで人のすべてが敵というように」闘うような毎日を過ごしとるんじゃね」

「仕事をして、せかせかした毎日を送っとると、そんな気分になってしまうよのう」

「「忙」しいという字は、「心」を「亡」くす、と書くんよ」

「そんな人たちの心を癒(いや)すのが、古里(ふるさと)へ帰省して、ゆっくりと過ごすことじゃろうの」

「お盆と正月の年に2回。都会の日常から離れて、親に甘え、むかしの友だちに会うことで、身も心もリフレッシュできるんよ」

「そんな、人を信じることができる時間があるけぇ、「もう半年がんばれる」んじゃの」

「うん。ええ曲じゃねぇ」





↓由紀さおり・安田祥子については、こちら↓

由紀さおり・安田祥子 安田音楽事務所 公式サイト





↓中島みゆきについては、こちら↓

中島 みゆき オフィシャルサイト





↓NHKラジオ第一については、こちら↓

R1 NHKラジオ第1





「今年のUターンラッシュが昨日から始まっとって、今日がピークなんじゃそうな」

「えっ、もう!?」



年末年始を古里で過ごした人のUターンラッシュが2日、中国地方で始まった。
JR広島駅(広島市南区)や広島空港(三原市)は午後から、東京や大阪方面に戻る家族連れたちで混み合った。
3日にピークを迎える。

JR西日本広島支社によると、広島駅では上りの山陽新幹線の指定席が終日ほぼ満席。
自由席も午後5時までに3本が乗車率100%となった。
家族4人で広島市安佐北区の実家に帰省していた京都市中京区の会社員三滝芳幸さん(34)は「親戚一同で餅つきなどをしてゆっくり過ごせた」と話していた。

広島空港は羽田行きの午後の便がほぼ全便満席。
西日本高速道路中国支社によると、午後6時までに、山陽自動車道上り線で、岡山ジャンクション(JCT)付近を先頭に約5キロの渋滞が発生した。

(「Uターンラッシュ始まる」中国新聞 2013年1月3日)




「そうか、明日、4日(金)から仕事始めのところがあるけぇ、もう帰りよってんじゃね」

「わしらも、もう半年がんばろうの」

「半年どころか、来年の春は娘たちの受験があるよ」

「おぉ。がんばって学費を稼いで来(こ)にゃいけんのう」



子どものためなら エンヤコラ

(『ヨイトマケの唄』作詞:美輪明宏)






↓「なぎら健壱の あのころのフォークが聞きたい」についての関連記事は、こちら↓

高石友也『チューインガム一つ』






「今日は、NHKラジオ第一「なぎら健壱の あのころのフォークが聞きたい」で放送された,中島みゆき作詞・作曲『帰省』という歌について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする