通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

旧宇品線跡を歩く(その6)

2013年11月04日 | 見て歩き
「今は廃止線となった旧宇品(うじな)線跡をたどる今回のシリーズも、いよいよ最終回」

「前回は、下丹那駅(たんなえき)を紹介したんじゃけど」

「今回は終点の宇品駅(うじなえき)を紹介しようかの」





【宇品(うじな)駅】

駅間距離/1.2キロ

広島駅からの距離/5.9キロ

1894年(明治27年)8月20日/竣工 起点5.8キロメートル

1897年(明治30年)5月1日/山陽鉄道が一般旅客営業を開始

1902年(明治35年)12月29日/改修により121メートル延長、起点から3哩52鎖(5.9キロメートル)となる

1919年(大正8年)8月1日/旅客営業廃止

1930年(昭和5年)12月20日/芸備鉄道が旅客営業を開始

1966年(昭和41年)12月20日/旅客貨物営業廃止、広島駅引込線宇品貨物取扱所に

1972年(昭和47年)4月1日/東広島駅~宇品貨物取扱所間宇品四者協定線に

1986年(昭和61年)10月1日/宇品四者協定貨物取扱廃止




「「哩」に「鎖」。…また、見慣れん単位が出てきたよ」

「「哩」は「マイル(約1600メートル)」、「鎖」は「チェーン(約20メートル)」じゃの」







「前回紹介したパークゴルフ場から、広島高速3号線の高架に沿って西へ歩いていくと、宇品駅跡が見えてくるんじゃ」

「ようやく宇品駅に着いたね」











広島陸軍糧秣支廠(りょうまつししょう)倉庫

陸軍糧秣支廠は、戦時において必要な兵隊の食糧や軍馬の飼料を調達、補給するために設置されました。
1894(明治27)年に日清戦争が始まると、当時山陽鉄道の西端であった広島駅とここ宇品を結ぶ軍用鉄道を二週間あまりの突貫工事により完成させ、宇品港は第二次世界大戦が終結するまで陸軍の海外への輸送基地となりました。
この倉庫は、1910(明治43)年頃、軍需物資を保管するため、宇品駅のプラットフォームに沿ってレンガ造りで建てられました。
1945(昭和20)年8月6日の原爆による被害は、爆心地から離れていたため軽微にとどまり、傷ついた大勢の被爆者はこの付近の陸軍の関連施設に収容され、手当てを受けました。
戦後、日本通運株式会社に払い下げられ倉庫として利用されてきましたが、1997(平成9)年、広島南道路の整備にあたり、被爆建物として歴史を後世に伝えるため、その一部をモニュメントとして保存するものです。

(旧広島陸軍糧秣支廠倉庫 1985(昭和60)年4月 井手三千男氏撮影 日本通運株式会社寄贈)





「糧秣って、食糧のこと?」

「「糧(りょう)」は兵隊が食べる食糧で、「秣(まつ)」軍馬の飼料、つまりエサのことじゃの。その糧秣支廠の倉庫が宇品駅にあったそうじゃ」

「糧秣支廠は、どこにあったん?」

「ここから北西に1.2キロメートルくらいのところにある、今の広島市郷土資料館があるあたりじゃの。ここに、食肉処理工場と缶詰製造工場があって、缶詰工場の建物の一部を広島市郷土資料館として使いよるんじゃ」

「広島には、陸軍に関係する施設がたくさんあったんじゃね。被服支廠(ひふくししょう)とか、兵器支廠(へいきししょう)とか」

「どれも、旧宇品線ができたあとに作られとるんじゃ。年代順に並べると…」



1894年(明治27年) 旧宇品線開通、日清戦争勃発

1897年(明治30年) 兵器支廠(大阪砲兵工廠広島派出所)・糧秣支廠(陸軍中央糧秣廠宇品支廠)設置

1905年(明治38年) 被服支廠(陸軍被服廠広島出張所)設置




「やっぱり、日清戦争がきっかけなんじゃね」

「1888年(明治21年)に編成された第五師団が広島にあったことも関係しとるじゃろうの。第5師団は、もちろん、日清戦争にも参戦しとるんじゃ」

「そのころ、山陽鉄道が、たまたま広島まで開通しとった」

「本州なら、鉄道を使えば広島まで軍隊を送ることができる状況にあったわけじゃの」

「そのうえ、宇品に港もあった…と」

「その広島駅から宇品港を結ぶ宇品線を、軍用鉄道として、わずか17日という突貫工事で開通させたんじゃ」

「広島は、日清戦争の最前線基地となったんじゃね」

「太平洋戦争が終わるまで、海外へ出征する兵隊を送り出し、帰還した兵隊を迎える場所になった。そのせいか、宇品駅のホームの長さは563メートルあって、日本一のホームと呼ばれとったそうじゃの」

「563メートルって、列車が何両入るんじゃろ?」

「貨物列車で、60両入ることができたそうじゃ。軍用で、それくらいの長さが必要じゃったんじゃろう」

「原爆が投下された(1945年8月6日)ときは?」

「爆心地から東南に4.5キロメートルのところにあったこともあって、駅には大きな被害はなかったそうじゃ」

「そうか。宇品駅よりも、広島駅のほうが大変じゃったね」

「爆心地から約2キロメートルのところにある広島駅は、屋根が抜け落ちて、駅舎も全焼。ほいで、駅職員926人のうち、11人が死亡、201人が重軽傷を負ったそうじゃ」

「列車は?」

「6日は、被爆した人を助けるために、列車を宇品と南段原の間で3往復(2往復説もあり)させて、約3000人を運んだ。ほいで、翌7日の夕方には、宇品線が復旧したそうじゃ」

「宇品駅まで来たんじゃけぇ、宇品の港も見とかんにゃいけんね」

「旧宇品駅のモニュメントがあるところから、南、海の方に行くと宇品波止場公園がある。ここに陸軍の軍用桟橋があったんじゃの」





六管桟橋

明治22年に築港された宇品港は、日清・日露戦争を契機に、昭和20年まで主に旧陸軍の軍用港として利用されてきました。
その中心的役割を果たしたのが、明治35年に軍用桟橋として建設されたこの六管桟橋です。

この桟橋は、戦争中は多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎え、広島の歴史を見守ってきた貴重な証言者です。
また築港当時の唯一の施設であり、歴史的、建築的にも高い価値があります。

戦後は、海上保安庁の船舶の係留に利用されてきましたが、1万トンバースの増設に伴い、護岸としてのその姿を残しています。

宇品港の名称が改められて広島港と呼ばれるようになってからも、ずっとその歴史を刻んできたこの桟橋は広島の歴史そのものです。

桟橋の石積みを当時の護岸として保存し、一部を展示しています。


広島県広島港湾振興局




「六管桟橋?」

「戦後は、第六管区海上保安本部の桟橋として利用されとるけぇ、六管桟橋というそうじゃ」

「兵隊さんたちは、ここから戦地に向かって行かれたんじゃね」

「勝利の凱旋もあったじゃろうし、傷ついて戻ってこられる人もおられたんじゃろうの」







「宇品波止場公園には、旧宇品線のモニュメントもあるんじゃ」





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館






【参考文献】

長船友則『宇品線92年の軌跡』(ネコ・パブリッシング 2012年)

被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』(広島平和記念資料館 1996年)






訪問日:2013年10月14日





「今日は、旧宇品線の宇品駅と、宇品港にあった軍用桟橋について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

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