通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

平和記念公園がある地域は、原爆投下以前、何という町があったか?

2010年09月05日 | 広島の話題

【問題】
現在、平和記念公園となっている場所は、原爆投下以前、広島でも有数の繁華街でした。
当時、このあたりは何地区と呼ばれていたでしょうか?

1.中島地区
2.八丁堀地区
3.比治山地区
4.吉島地区









【正解】
1.中島地区




【解説】
原爆で壊滅した広島市の旧中島地区(現平和記念公園)と周辺の街並みや日常をコンピューターグラフィ ックス(CG)で再現した記録映画の試写会が3日、広島市中区の原爆資料館東館メモリアルホールであり、元住民や協力者約100人が出席した。

60分作品「『ヒロシマからの伝言』~原爆で失ったもの~」。
産学官でつくる製作委員会が、元住民の証言を織り込み、3年3カ月かけて完成させた。
旧広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の隣に家があった会社社長の田辺雅章さん(72)が製作委の中心になった。

4、5日は同館で一般公開する。
両日とも午前10時、午後1時、3時の3回上映する。
無料。

(「CGで再現 原爆映画上映」中国新聞 2010年9月4日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009040003.html



今日は、「ヒロシマからの伝言」「音の消えた町」「中島地区」について調べてみようかの。



まずは、「ヒロシマからの伝言」について。

映画「ヒロシマからの伝言」は、田辺が代表を務める「平和公園復元映像製作委員会」が制作したもので 、すべて「1次情報」によって作られとるそうじゃ。

「1次情報」とは、ある事件に直接関わった人が持つ情報のこと。
つまり、原爆投下当時の中島地区を直接知っている人たち60人から聞き取りをした、「1次情報」によって作られとるんじゃの。

この映画は、今年5月にアメリカのニューヨークで開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて、国連本部やアメリカの3つの大学で上映された映画の完成版でもあるんじゃ。
アメリカで上映したとき、「被爆後、どのように生きてきたか知りたい」などの反応が寄せられた。
そこで、証言の部分を増やしたりして、当初は30分だったものが61分になったんじゃ。

中島地区は原爆で完全に破壊されとるんで、資料や証言を基に、町並みを細かい部分までこだわってCGで再現されとります。

個人的には、邦楽の楽器店・みた屋はこのころからあったんじゃあ、と確認することができました。

「ヒロシマからの伝言」を作られた田辺が、政府の非核特使に選ばれたそうじゃ。



21日からエジプトのカイロで始まる日本映画祭で作品を上映し、講演する。

5月、田辺さんが米ニューヨークの国連本部で制作中の記録映画一部を上映し、外務省の関係団体から映画祭参加を要請された。
その後、菅直人首相が非核特使を創設し、派遣が決まった。

田辺さんは「核兵器が安全をもたらすことは決してないことを、核問題を抱える中東で訴えたい」と決意している。

(「広島の田辺さん非核特使に」中国新聞 2010年10月7日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201010070048.html

(青文字部分、2010年10月7日追記)



次に、音の消えた町について。

映画上映後、田辺が挨拶されたんじゃが、その中で心に残った言葉があるんじゃ。

「原爆投下から2日後、疎開先から家に帰ってきた。その時、町から音が消えていた」

原爆投下から2日後といえば、8月8日。
うるさいくらいにセミが鳴いてとるはずじゃ。

ところが、セミが鳴いとらんかった。
鳥たちも、鳴いとらんかった。

人間はもとより、セミや鳥、動物、 植物、そして町までも死んでしもうたんじゃ。

ヒロシマは、音のない町になっとったそうじゃ。

ちなみに、田辺の実家は、映画にも出てくるんじゃが、原爆ドームのすぐ東隣にあったそうじゃ。



最後に、中島地区について。

中島地区は戦後、平和記念公園として整備されたところで、原爆投下前から公園だったわけじゃないんよ。



「原爆が落ちた近くが公園だったから良かったですね」。
米国人記者の言葉に、映像プロデューサーの田辺雅章さん(72)はえっと耳を疑った。
「広島一の繁華街だったんですよ」。
3年前、ニューヨークであったやりとりという。

地元では信じがたいが、平和記念公園は昔から公園だったと思う人が結構いるようだ。
産業奨励館(原爆ドーム)のそばで生まれ、疎開で難を逃れた田辺さん。
消えた町並みの復元をライフワークにしてきた。

誤りは正さなければ、と公園のもとの姿を3年かけて映像にした。

失われた街の記憶と今を生きる人たちをつなぎたい。
田辺さんの思いはひとしお強いのだろう。

(「平和公園」中国新聞 2010年5月3日)
http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te201005030096.html



平和記念公園の原爆慰霊碑より北側で、元安橋、本川橋も含む一帯が、中島本町(なかじまほんまち)。

原爆供養塔、原爆の子の像、平和の灯があるあたりじゃ。



中島本町の東南側(元安川沿岸)が、天神町(てんじんまち)。
北組があったあたりに平和記念資料館東館、原爆死没者追悼平和記念館があって、平和大通りのあたりに南組があったんじゃ。

中島本町の南側が、材木町(ざいもくちょう)。
平和記念資料館本館、広島国際会議場、芝生広場、原爆慰霊碑などがあるあたりじゃ。

中島本町の西南側(本川沿岸)が、元柳町(もとやなぎちょう)。

そして、原爆ドームがあるあたりが、猿楽町(さるがくちょう)。

現在、平和記念公園、原爆ドームのあるあたりには、これだけの町があったんじゃ。
そして原爆投下まで、広島で有数の繁華街じゃった。



今日は、「ヒロシマからの伝言」「音の消えた町」「中島地区」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。

コメント
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