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「いろは丸事件」で、海援隊が宿泊した建物は?

2010年09月30日 | 広島の話題

いろは丸事件の舞台となったのは、福山市鞆町。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」でいろは丸事件が取り上げられるけぇ、福山では海援隊と紀州藩士が宿泊した建物を特別に公開することにしたそうじゃ。



【問題】
「いろは丸事件」で、坂本竜馬率いる海援隊と紀州藩士は、福山の鞆に留まることになりました。
紀州藩士の宿となったのは円福寺(えんぷくじ)ですが、海援隊の宿となったのは、次のうちどこでしょうか?

1.太田家住宅
2.岡本家長屋門
3.桑田家住宅(旧桝屋清右衛門宅)
4.林家住宅









【正解】
3.桑田家住宅(旧桝屋清右衛門宅)




【解説】
いろは丸事件の舞台となった福山市鞆町の住民や市などが10月から11月にかけ、坂本竜馬率いる海援隊と紀州藩士がそれぞれ宿泊した建物を特別公開する。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」で近く同事件を扱ったシーンが放映されるのを受けて企画した。

海援隊が宿泊した旧桝屋清右衛門宅は、所有者や建物を管理するボランティアが11月13日から竜馬の誕生日で命日でもある15日まで内部を無料公開する。
江戸後期に建てられた回船問屋で、屋根裏には竜馬が身を潜めたとされる隠し部屋がある。

公開に向け現在、畳の張り替えや屋根裏に上がる階段の設置準備が進む。

紀州藩士の宿となった円福寺(杉崎円覚住職)は10、11月の毎週日曜日の午前10時~午後4時、客殿「夾明楼(きょうめいろう)」を公開する。
海沿いの高台にある古刹(こさつ)で、窓の外には仙酔島や走島などの眺望が広がる。
晴れた日は四国まで見渡せるという。
拝観料200円。

(「竜馬宿泊の建物を特別公開へ」中国新聞 2010年9月24日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009240072.html

龍馬は、天保6年11月15日(1836年1月3日)に生まれ、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に亡くなっとります。
つまり、11月15日は誕生日でもあり、命日でもあるというわけじゃ。



今日は、「鞆龍馬おもてなし隊」「平成いろは丸 乗客数16万人に」「豊町(ゆたかまち)と竜馬のつながり」について調べてみようかの。



1.鞆龍馬おもてなし隊

観光客の方がたくさん来られますけぇ、それに対応する人が必要ですよのう。


おもてなし隊は女性1人を含む市内の20~70代計20人。
名所や土産物を説明する際の想定問答も紹介した。

全員が現場で着る黒の羽織とはかまを試着。
竜馬の写真を見ながら、襟元は詰めて、はかまのすそは低めにするなど、竜馬らしい着こなしを研究した。

おもてなし隊は、近くNHK大河ドラマ「龍馬伝」で鞆町を舞台としたシーンが放送されるのを受け、福山市などでつくる福山観光キャンペーン実行委員会が公募した。
期間は10月2日から11月29日まで。
毎週金曜日から月曜日までと祝日に、午前10時半から午後3時半まで2人が交代で町内を回る。

(「竜馬にふんして観光客ご案内」中国新聞 2010年9月26日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009260052.html



2.平成いろは丸 乗客数16万人に

龍馬のいろは丸にちなんで、今年はじめから平成いろは丸が就航しとるんじゃ。


福山市鞆町の鞆港と仙酔島(せんすいじま)を結ぶ市営渡船「平成いろは丸」の乗客数が29日、16万8千人に達した。
市は船名にちなむ節目の乗客に1年間無料乗船券などを贈った。

平成いろは丸は、幕末に同町沖で沈んだ海援隊の蒸気船を模したデザインで、今年1月9日に就航した。
渡船の今年に入ってからの乗客数は、昨年同期の約1・6倍に増えている。

(「平成いろは丸の乗客16万人に」中国新聞 2010年9月30日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009300026.html


↓いろは丸の関連記事は、こちら↓

福山市に就航する、坂本龍馬が乗っていた船と同じ名前の船は何?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100103



3.豊町(ゆかたまち)と竜馬のつながり

意外なところでは、呉にある豊島も関連があるそうじゃ。


江戸期の潮待ち港として栄えた呉市豊町御手洗(みたらい)地区などと、幕末の志士坂本竜馬のつながりを示すわずかな史料が注目を集めている。
船で瀬戸内海を行き来した志士たちが頻繁(ひんぱん)に立ち寄った御手洗地区。
NHK大河ドラマによるブームが後押しし、竜馬の足跡を追う観光客も増えている。

竜馬と豊町をつなぐ史料は主に2点。
一つは鳥取藩士、河田佐久馬の手記「河田佐久馬備行ミちの記」(山口県文書館所蔵)で、1867(慶応3)年4月、御手洗に入港した河田が、いろは丸事件直後の竜馬に偶然出会い談笑したと記す。
竜馬は鞆から長崎に向かう途中だったとする。

二つ目は、御手洗に隣接する大長出身の志士で維新後96歳まで生きた新谷(にいや)道太郎からの聞き書き「維新秘話 志士の遺言書」(1936年発行)。
竜馬が京都で暗殺される直前の1867年11月3日、竜馬、大久保利通(としみち)、木戸孝允(たかよし=桂小五郎)たち薩摩、長州、土佐、芸州(広島)の志士十数人が新谷邸に泊まり、四藩連合の軍事同盟を結んだとある。

史料が近年、新聞や雑誌で取り上げられ、市豊市民センターには問い合わせが増加。
ただ、新谷の聞き書きにある四藩軍事同盟の真偽は定かでない。

地元の郷土史家、下鍛冶尚真さん(77)は独自の研究を元に、歴史ロマンの広がりに期待する。
「竜馬も当然立ち寄ったはず。四藩同盟があってもおかしくない」

(「豊町と竜馬のつながりに脚光」中国新聞 2010年9月20日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009200014.html



御手洗といえば、鞆(とも)・蒲刈(かまがり)と並ぶ潮待ちの港じゃった。
潮待ちとは、船が自分に有利な潮の流れに変わるのを待つことをいうんじゃ。
むかしの船は、風もそうじゃが、潮を利用して航海しとったんじゃの。

七卿落(しちきょうおち)遺跡は、広島県では、御手洗と鞆に残されとります。

七卿落ちとは、幕末の文久3(1863)年、八月一八日の政変で失脚した尊王攘夷派の公卿・三条実美(さんじょう さねとみ)ら7人の公家が京都を追放され、長州藩へ落ち延びたことをいうんじゃ。


↓御手洗については、こちら↓

「御手洗」呉市豊町観光協会
http://www.yutaka-kanko.jp/mitarai.html


↓鞆の七卿落遺跡については、こちら↓

「鞆七卿落遺跡」広島県の文化財
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotline/bunkazai/data/206120130.html



選択肢1の太田家住宅は、鞆町にある歴史的建造物。
もとは福山藩の御用酒屋を務めた保命酒(ほうめいしゅ)の蔵元「中村家」の屋敷じゃった。
明治時代に太田家の所有となったんで、「太田家住宅」と呼ばれとります。
「3.豊町(ゆかたまち)と竜馬のつながり」出てきた鞆七卿落遺跡の一部でもあるんじゃ。


↓太田家住宅については、こちら↓

太田家住宅
http://www.sawasen.jp/tomonoura/annai/otake/index.html



↓福山と坂本龍馬についての関連記事は、こちら↓

福山市に就航する、坂本龍馬が乗っていた船と同じ名前の船は何?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100103

鞆で開催された、坂本龍馬ゆかりの地を巡るウォーキング大会の正式名称は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20101002



今日は、「鞆龍馬おもてなし隊」「平成いろは丸 乗客数16万人に」「豊町と竜馬のつながり」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。

コメント
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