通でがんす

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呉の大和ミュージアム、8月29日で来館者が何人になった?

2010年09月02日 | 広島の話題

【問題】
今年の4月、開館5年を迎えた、呉市の大和ミュージアム。
8月29日(日)で、来館者が何人になったでしょうか。

1.450万人
2.500万人
3.550万人
4.600万人









【正解】
4.600万人




【解説】
呉市宝町の大和ミュージアムの来館者が29日、600万人を超えた。
開館5年余りでの達成。

600万人目は、家族旅行で訪れた兵庫県加古川市の小学5年安井博武くん(10)。
記念式典で小村和年市長から認定証を受け取り「驚いた。友達に自慢したい」と喜んでいた。

大和ミュージアムは2005年4月に開館した。
来館者は年間100万人のペースを維持している。

(「開館5年余り600万人達成」中国新聞 2010年8月30日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201008300122.html



今日は、「呉」「戦艦大和を造った技術」「10分の1サイズの大和」について調べてみようかの。



まず、呉について。

小さな漁村にすぎなかった呉が注目されたのは、明治時代。
海軍の拠点となる鎮守府(ちんじゅふ)が、横須賀、舞鶴、佐世保、そして呉に置かれたんじゃ。
その理由は、三方を山に囲まれ、港の近くに島があって、敵が攻めづらい。
そして、「良質な水」がある。
腐りにくい、質のいい水があると、船で遠くまで行っても大丈夫ということじゃ。

呉鎮守府水道の給水が始まったのが1890(明治23)年。
広島に軍用水道が造られたのが1898(明治31)年じゃけぇ、呉の方が早かったんじゃ。

今はなくなってしもうたが、呉に市電が走ったのが1909(明治42)年。
これは、中国地方では岩国の岩国電気軌道に次いで2番目じゃったそうな。

1903(明治36)年、呉海軍工廠(こうしょう)が設立された。
海軍工廠は、軍艦や兵器などを開発・製造する工場のことじゃ。
鎮守府、海軍工廠ができたことで、職工(しょっこう。職人のこと)たちが呉に集まってきて、人口が増えていった。
第二次世界大戦中の呉には、なんと40万人もの人が住んどったそうじゃ。

そんな呉で広まったとされるのが、素早くできて、さっと食べられる「細うどん」。



↓呉についての関連記事は、こちら↓

松本零士の作品を展示する、呉市に作られた施設は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100903



↓細うどんについての関連記事は、こちら↓

呉市が全国にPRしようとしている食べ物は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100221



次に、戦艦大和を造った技術について。

呉海軍工廠は軍艦を建造する技術を高めていき、「東洋一」と呼ばれるほどの設備を充実させていったんじゃ。
そして、ここで建造されたのが、戦艦大和。



昭和10年前後の時点で、46センチ砲を搭載した戦艦を設計できる国は、日本以外にもあった。
設計は一定の知識の上に成立するものだからだ。
しかし、それを現実の形にすることができた国は日本だけだった。
製鋼から造船、機関、兵器に到るまで、実際に造り上げる能力は、同時代において突出していたと考えて間違いない。

(戸高一成「戦艦大和復元プロジェクト」角川oneテーマ21 2005年)




大和建造に使われた技術で、戦後の日本で使われた技術をいくつかあげてみましょう。


■生産管理システム…科学的な管理方法を取り入れることで、これまでよりも工数(作業量のこと)やコストを減らすことができた。
戦後10年で、世界一の造船国になる基礎となった。


■ブロック工法…船体を、いくつかの部分に分けて同時に製造し、最後につなぎ合わせて完成させる工法のこと。
造船・高層ビルの建築に活用された。


■球状艦首(バルバスバウ)…喫水線(きっすいせん)より下の船首に球状の突起を設けることで、船首できる波(抵抗)を減らす。
船の馬力を節約し、航続距離を伸ばすことができた。
現在では、大型タンカーから、漁船に至るまで幅広く利用されている。


■スクリュー(推進器)…大和の推進力を支えるスクリューは、直径5メートルの3枚羽根。
これは鋳物(いもの)で作られている。
鋳物とは、金属を溶かして、鋳型に流し込んで物をつくること。
戦後の鋳物技術の基盤となっている。



最後に、10分の1サイズの大和について。

大和ミュージアムといえば、全長が26.3メートルもある「10分の1戦艦大和」じゃろうの。
見た人ならわかるじゃろうが、あれは「模型」ではなく、まぎれもなく「本物の船」じゃ。

宇宙戦艦ヤマトを見慣れたわしにとっちゃ、大和の顔=艦首(かんしゅ)じゃ。
波動砲口から、メインレーダーのあるバルバスバウあたりまで。
このあたりは、鋼板で曲面を再現するのが難しかったので、鋳造、つまり鋳物で造られとるそうじゃ。

甲板(かんぱん)も、合板を張り合わせたものに、筋を墨で引いたものではなく、板を張っとられるんじゃ。
昔、海軍工廠におられた方が、幅15ミリの甲板材を、手作業で1枚ずつ貼っていかれたそうじゃ。

技術は、途絶えてしもうてはダメなんじゃ。
三重県にある伊勢神宮では20年に一度、社殿を建て直しとるんじゃが、これも宮大工の技術を伝えていくために行われとるんよの。



科学と技術は違う。
科学は理論上の世界なので、結果としての答えはただ一つ。
徹底した客観の世界なのである。

しかし、技術の世界は違う。
技術は人間の腕前を通して現れるものだ。
同じ図面、同じ素材、同じ工具を使っても、作る人間の腕前が違えば、違ったものができあがる。

(同上)




戦前、大和を造った技術が、戦後の呉を支えとるといっても過言じゃないじゃろう。
10分の1サイズの大和を造ることができたのも、呉の持つ技術を再現したいという熱意からなんじゃないんかの。



↓大和ミュージアムについての関連記事は、こちら↓

大和ミュージアムの正式名称は何?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100115



今日は、「呉」「戦艦大和を造った技術」「10分の1サイズの大和」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



今回は、「大和ミュージアム 常設展示図録」(大和ミュージアム 2005年)を参考にさせてもらいました。
感謝!



ほいじゃあ、またの。

コメント
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