第2292号 27.04.07(火)
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義とは宜(ぎ)なり。『中庸』
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義とはそのときの宜しきに従っていくことである。「義」と「宜」とは同音道義。
仁は、人をいつくしむ考えが強く、ややもすると情に溺れる。そこで、ある場合には、よろしきに従ってそれを断ち切ることもしなければならぬ。それが義である。158
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【コメント】上の『中庸』の言葉も大変よろしいと思います。
『南洲翁遺訓』と出逢ったお蔭で『論語』を知り、『論語』を買いたくて本屋さんに行きました。その時『論語』はありませんでしが『禅とは何か』がありました。その中に紹介されている古典の書90冊位まとめて注文しました。購入できたのが70冊位であったと思います。以来、何がなんだか分けが分らないまま、ただ夢中になって、読んで、書き写してを繰り返してきました。凡そ40年間です。その割にはパッとしないネとお思いの方もあられるでしょうが、元々浅学菲才の身でございますので、ご海容賜りたく存じます。
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昨日は、枕崎へお墓詣りに行ってきました。お昼にジョイフルに入った途端、『言志録味講』を繙きました。言志録の購入も30年前のことでありますが、今回、菅原兵治先生の味講を購入し、30年前から言志録を読んできてよかったと思っています。
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先ほど10時に味講を二組追加注文致しました。このブログを御覧になっておられる方は、お子様に『言志四録』と『言志録味講』を御読みになられるようお勧め戴きたいと思います。
時代は急速度で進んでいますけど、人間の営みは基本的には変わらないと思います。先ほど、大学の学長が、「入学をとるか」、「スマホをとるか」と言ったとかで議論を読んでいます。
年齢的に言えば私は、学長と歳は変わらないでしようから「入学」をお勧めします。若い人々は未知の世界ですから、分からないのです。
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『大学味講』(第129回)
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第 九 節 穆穆たる文王
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前節において、私どもの生活には「止まる所」をもたねばならぬことを学んだのでありますが、それを更に懇切に説き示すべく、次の一節を述べておるのであります。
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詩に云く、穆穆たる文王、於緝煕にして敬して止まると。人の君と為りては仁に止まり、人の臣と為りては敬に止まり、人の子と為りては孝に止まり、人の父と為りては慈に止まり、国人と交わりては信に止まる。
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詩に云く=詩経大雅文王の篇にいう。
穆穆=奥ゆかしい、深みのある人から、後に詳しく述べる。
緝煕=ムラのない、継続的に精進をする人となり、これも詳しくは後に記すこととする。
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『論語』(第229)
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子曰はく、忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること毋れ。過っては則ち改むるに憚ること勿れ。
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これはすでに、学而篇に出ています。
常に忠信を失わぬようにし、己に及ばない者と交わってえらぶるようなことがあってはならない。過ちがあったら体面など考えずただちに改めなければならない。
「学則不固」を「学べば則ち固ならず」と読んで、「博く事物の理を学べば固陋でなくなる」と解説したいと思います。
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『農士道』(第109回)
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さういふ人が村長になれば役場中心の経営が行われて居る。さういふ人が農会長になれば農会中心の経営が行われて居る。其の人が校長になれば学校中心の経営が行われて居る。農村経営の肝要は組織にあらずして實に人である。
このことに気づいてこの農本原理に立てる農村振興を図らんとするならば、先ず以て人物の養成----その人物の活動といふことに重きを置かねばならぬのである。
勿論、商工業的経営、都会的生活だから人物を要せぬといふのではない。ただ農村生活の得質上特に中心になる人物の如何によって影響する處が大きいことを力説するのである。(情愛と理論の項等参考察せられたならば、肯かれるものがあるであろう。)
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このブログを書きながら、天風師の『心に成功の炎を』を聞いていす。天風師も菅原兵治先生も人類の繁栄と平和をと念じていると思われてなりません。
学問に精進しながら、よりよい生き方を考察して行きたいものです。
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百人一首
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心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな 【三条院】68
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義とは宜(ぎ)なり。『中庸』
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義とはそのときの宜しきに従っていくことである。「義」と「宜」とは同音道義。
仁は、人をいつくしむ考えが強く、ややもすると情に溺れる。そこで、ある場合には、よろしきに従ってそれを断ち切ることもしなければならぬ。それが義である。158
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【コメント】上の『中庸』の言葉も大変よろしいと思います。
『南洲翁遺訓』と出逢ったお蔭で『論語』を知り、『論語』を買いたくて本屋さんに行きました。その時『論語』はありませんでしが『禅とは何か』がありました。その中に紹介されている古典の書90冊位まとめて注文しました。購入できたのが70冊位であったと思います。以来、何がなんだか分けが分らないまま、ただ夢中になって、読んで、書き写してを繰り返してきました。凡そ40年間です。その割にはパッとしないネとお思いの方もあられるでしょうが、元々浅学菲才の身でございますので、ご海容賜りたく存じます。
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昨日は、枕崎へお墓詣りに行ってきました。お昼にジョイフルに入った途端、『言志録味講』を繙きました。言志録の購入も30年前のことでありますが、今回、菅原兵治先生の味講を購入し、30年前から言志録を読んできてよかったと思っています。
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先ほど10時に味講を二組追加注文致しました。このブログを御覧になっておられる方は、お子様に『言志四録』と『言志録味講』を御読みになられるようお勧め戴きたいと思います。
時代は急速度で進んでいますけど、人間の営みは基本的には変わらないと思います。先ほど、大学の学長が、「入学をとるか」、「スマホをとるか」と言ったとかで議論を読んでいます。
年齢的に言えば私は、学長と歳は変わらないでしようから「入学」をお勧めします。若い人々は未知の世界ですから、分からないのです。
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『大学味講』(第129回)
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第 九 節 穆穆たる文王
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前節において、私どもの生活には「止まる所」をもたねばならぬことを学んだのでありますが、それを更に懇切に説き示すべく、次の一節を述べておるのであります。
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詩に云く、穆穆たる文王、於緝煕にして敬して止まると。人の君と為りては仁に止まり、人の臣と為りては敬に止まり、人の子と為りては孝に止まり、人の父と為りては慈に止まり、国人と交わりては信に止まる。
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詩に云く=詩経大雅文王の篇にいう。
穆穆=奥ゆかしい、深みのある人から、後に詳しく述べる。
緝煕=ムラのない、継続的に精進をする人となり、これも詳しくは後に記すこととする。
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『論語』(第229)
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子曰はく、忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること毋れ。過っては則ち改むるに憚ること勿れ。
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これはすでに、学而篇に出ています。
常に忠信を失わぬようにし、己に及ばない者と交わってえらぶるようなことがあってはならない。過ちがあったら体面など考えずただちに改めなければならない。
「学則不固」を「学べば則ち固ならず」と読んで、「博く事物の理を学べば固陋でなくなる」と解説したいと思います。
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『農士道』(第109回)
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さういふ人が村長になれば役場中心の経営が行われて居る。さういふ人が農会長になれば農会中心の経営が行われて居る。其の人が校長になれば学校中心の経営が行われて居る。農村経営の肝要は組織にあらずして實に人である。
このことに気づいてこの農本原理に立てる農村振興を図らんとするならば、先ず以て人物の養成----その人物の活動といふことに重きを置かねばならぬのである。
勿論、商工業的経営、都会的生活だから人物を要せぬといふのではない。ただ農村生活の得質上特に中心になる人物の如何によって影響する處が大きいことを力説するのである。(情愛と理論の項等参考察せられたならば、肯かれるものがあるであろう。)
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このブログを書きながら、天風師の『心に成功の炎を』を聞いていす。天風師も菅原兵治先生も人類の繁栄と平和をと念じていると思われてなりません。
学問に精進しながら、よりよい生き方を考察して行きたいものです。
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百人一首
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心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな 【三条院】68