味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

舜の糗を茹うや、将に身を終えんとするが如し。

2015-04-17 10:16:43 | ブログ
第2301号 27.04.17(金)
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舜の糗(ほしいい)を茹(くら)うや、将に身を終えんとするが如し。『孟子』
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 のちに天子となった舜も、卑賤の時代には乾飯(ほしいい)を食べ、野菜を食べ、それで満足していた。そのさまは、もうそれで一生を終える者のようだった。その分に応じ、命に安んじていたからである。138
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 【コメント】天子様となった舜帝も卑賤の時代があったとは『書経』に詳述されています。長い一生ではいろいろの出来事がありますが、分に応じた生き方をし、人様にも良い言葉を与えともに切磋琢磨したいものです。
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 天の理を悟ったとされる天風師が言うように、清く尊く美しく強くありたいものです。それを天が観ているというのでしょうか、わかりませんが。
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 でも私は、この世に生を得ている限り、天風師の訓戒を是とし、よりよい人生でありたいものだと思っています。その方が、お互いしあわせになると思うのです。
 昨夜も、それに類したことを子どもたちに理解しやすいように少しずつお話しました。

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『大学味講』(第138回)
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  味 講  
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 (一) 孔子が次のようにいっております。
 「すでに事件が起こって訟え出てきたものを裁くのは、裁判の定めもあり、法律もあるのだから、わしも一般の人達と違うことはない。がしかし、わしがその任に就いたならば、願わくば訴えがなくなるようにしたいものである。」

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 (二) これに対して大学の著者は
 「情(まこと)なき者は其の辞を尽すことを得ず。大いに民の志を畏れしむ」
 と註解を施しておるのでありますが、これを砕いていえば、
 「よく明徳を明らかにした君子の前に出ると、真実でない者は、いくら弁舌を振って、口先でゴマカそうとしても「人の己を視ること、肺肝を見るが如く然れば、即ち何の益かあらん」で、とてもやりおおせるものではない。かくて大いに民の心志に畏敬の念を起こさせるからである」
といっているのであります。これはたしかにその通りで、伝えられるところの大岡越前守の裁判にかかると、ウソは通らぬというのがそれでありましょう。

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『論語』(第238)
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 君召して擯(ひん)せしむれば、色勃如(ぼつじょ)たり。足躩(かく)如たり。与に立つ所に揖(ゆう)すれば、手を左右す。衣の前後襜如(せんじょ)たり。趨(わし)り進むや、翼如たり。賓退くや、必ず復命して曰はく、「賓顧みず」と。
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 君が孔子を召して来賓の接待を命じると、孔子は君命を敬しんで、顔色が変り、足は進むことができないようである。接待掛として与に立っている所の人に挨拶して手を左右に動かしても、衣の前後はきちんとして少しも乱れない。
 疾く趨って進む時は拱いだ手の左右の臂を張って鳥が翼を舒べたように立派である。来賓が退出すると、孔子は必ず君に復命して「お客様は後を顧みずに御帰りになりました。」と曰って、君の心をくつろがせる。

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『農士道』(第117回)
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 徒るを重んずれば則ちその処に死して二慮なし。民本(農)を舎てて末(商工)を事とすれば則ち令からず。令からずんば則ち以て守るべからず。以て戦むべからず。民本を舎てて末を事とすれば、則ちその産約なり。その産約なれば則ち遷徒を軽んず。遷徒を軽んずれば則ち国家に患あり。皆遠志ありて居心あるなし。民本を舎てて末を事とすれば則ち智を好む。智を好めば則ち詐多し。詐多ければ則ち法令に巧にして是を以て非と為し、非を以て是と為す。后稷曰く、耕職を務むる所以のものは以て教を本とするが為なり。」
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百人一首
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瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
 われても末に 逢はむとぞ思ふ 【崇徳院】77