味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

孚ありて之れに比すれば、咎无し。

2015-04-03 11:06:55 | ブログ
第2288号 27.04.03(金)
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孚ありて之れに比すれば、咎无し。『易経』
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 人との交際には、まこと、すなわち誠信をもととして親しみさえすれば、あやまちはない。223
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 【コメント】大変すばらしい言葉であります。長い人生に処するに際して〈誠信〉で臨めば、間違いはない。これほど確かな訓戒はないでありましょう。
 先ずは、1.人様を大事にする。2.人様を見下げない。馬鹿にしない。3.仕事は進んで実践する。4.勤勉であること。5.人を騙して金儲けをしない、等々心しなければならない事柄は数多あります。
 とにかく死して後、その人の遺した言葉、足跡に人々が如何に感動するかでしょう。

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 連日、菅原兵治先生のご著書『大学味講』『農士道』等々を少しずつご紹介していますが、荘内の先生方の素晴らしさに魅了されています。長谷川先生、小野寺先生方も本当に素晴らしいでした。出来ればそういう先生方を目指して勉強をしたいものだと思い、子どもたちに話しています。
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『大学味講』(第125回)
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 緍蛮たる黄鳥=緍蛮は美しい鳥の鳴き声を現わした文字で、当時の中国語で読めば、鳥の声に聞こえる音であったであろう。黄鳥はチョウセンウグイスとかコウライウグイスとかいわれる鳥。
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 味 講
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 (一) 大学でいう「止まる」とは、いうまでもなく、「至善に止まる」ことであります。その所、あるいは、その事を、至善の所、至善の事として、そこに止まるのであります。「止まる」の反対が「動揺」もしくは「不定」でありまして、「東より風吹けば西に流れる池の面の浮草の如し」というのがそれであります。
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『論語』(第225)
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 子、顔淵を謂いて曰はく、惜しいかな。吾其の進むを見る。未だ其の止まるを見ず。
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 孔子が追懐して顔淵を評して言われるには、「顔回が若くて死んだのは本当に惜しいことをした。彼が道に向かって進むのを見たことはあるが、中途で止まった所をみたことがない。もっと生きていたならば、その進歩は計り知れないほどであったであろうに。」
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. 空手道の稽古の際、南洲翁遺訓の勉強に引き続き、『論語』も学修することにしました。子どもたちが純粋な内に、人生を誤らないように大人は、レールをしいてあげたいものだと思います。

 これらは今の偏差値向上のみを追求する人々とは、趣を異にするものだと捉えています。

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『農士道』(第105回)
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 一体農村の生活は物質的享楽といふ點から見て-----殊に人工的のそれに於いては都会の生活に比して甚だしく劣って居るものである。随って其の中の生活に安立を得ようとするならば、どうしても其の不便にして素朴な物質的生活の中に豊かなる趣を掬し得るに足る精神的素養が必要である。此事は古来山中の草廬に孤坐せし禅僧などの生活を見るも、渓声を長広舌と聴き、三色を清浄身と観る底の寂寞の生活に堪え抜かしめたかを見ても明らかであろう。かくて私共は農村の農本生活には精神的教養が大いに必要であることに気付かねばならぬ。
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 急速度で進むグローバル社会に、もう少し、一息いれたらと促しているようです。進み過ぎて取り返しがつかなくなるよりか世の風情も味わいたいものだと後期高齢者の私と指宿の大師範と先ほどお話したばすりでした。
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百人一首
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朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
 あらわれわたる 瀬々の網代木 【権中納言定頼】64