平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2004年2月15日 秤

2006年12月09日 00時24分57秒 | Weblog
       秤

 自分というものの中にある矛盾を思う。Aだと発言しておきながら結論はBと答えている。私は、自分が無秩序な男であるのか、厳格な者であるのか、自由を求めているのか、枠にはめられることに落ち着きをおぼえる者であるのか、わからなくなる。
 私は聖書の解釈を立場的には断定する側にある者である。しかし、いつも、別の見方や考え方があることに困惑させられている。私は平和を愛している。しかし、平和の究極はやられてもやり返さないということに尽きる。
 しかし、実際はどうだろう。夫婦喧嘩では、一言われたことに対して二も三も言っている醜き自分がいる。キリスト教の教えでは、負けることが勝利である。わかっているが、負けてなるものかと頑張る。私は自分の危うさを思う。
 私たちはどれだけ他者に愛を示すことができるか、それが強さのバロメーターとなることもわかっている。相手を生かすためには自分を無にすることが必要であることもわかっている。しかし、こちらに余裕がないとできなくなる愛というものは、いったい何なのだろうか。
 正義について、奪われたものを奪い返すことと説明する人がいる。そして、この正義の名のもとで、ほとんどすべての戦争は行われている。
 そこには、多くの不正義が見えてくる。人は心のうちに自分なりの秤をもっているが、それは確かなものではない。確かな秤、それは人のうちにはない。


平良 師

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